ー13ー崩れゆく均衡
海面下へ潜り込んだ救難艇は、荒れ狂う波圧を全身で受けながら、ぎしぎしと軋んでいた。
暗い夜のはずなのに、海面の向こう側は昼のように明るい。雷光のような眩い光が、脈打つように明滅している。
その光に照らされた海の中で、影が――いや、影などという生易しいものではない。
無数の触手が海流を切り裂きながら、船へと伸びてきていた。
救難艇すれすれを一本の太い触手が勢いよく横切り、艇がぐらりと揺れる。
視界がひっくり返り、窓が海底を向いた。
「うわっ!」
ロイは座席にしがみついたまま叫んだ。
揺れる視界の先――仄暗い海の底から、何百、いや何千とも思える触手が這い上がってくる。
毒々しく濁った紫の光が海中で怪しく揺れ、恐怖をさらに際立たせていた。
(……ッ!)
あまりにも巨大で、あまりにも恐ろしい敵の姿に、ロイは声にならない悲鳴を噛み殺し、目を見開いたまま固まった。
――
その巨体の“敵”を相手に、船上では激しい攻防が続いていた。
フェルドの雷撃が空気を爆ぜさせ、白紫の雷光が触手の群れをまとめて焼き焦がす。
ミネアの風刃は、まるで見えない鎌の群れのように触手を切り裂く。
オルフの盾には太い触手が連続して叩きつけられる。だが彼は一歩も退かず、歯を食いしばって押し返す。
その隙間を縫うように――
炎を纏ったティオの双剣が閃き、灼熱の軌跡を残して触手を焼き斬った。
だが――あまりにも多い。
焼いても、斬っても、切り裂いても、
触手は底なしの闇から湧くように次々と迫ってくる。
一本を倒せば、その背後から十本が迫る。
斬り払ったはずの空間が、次の瞬間にはまた埋め尽くされていた。
ミネアは杖を握りしめたまま荒い息をついた。
「はぁ……はぁ……」
(まずい……防ぐだけで精一杯……
魔導砲に一人回せば、その瞬間ここが崩れる……
皆さん、疲労が溜まってきている……誰が倒れてもおかしくない……)
汗が頬を伝い、視界の端が白く揺れたその時――
ティオの足が踏ん張りきれず、わずかによろめいた。
炎を纏う双剣が揺らぎ、彼の体がぐらりと傾く。
致命傷となった腹部の傷は、治癒魔法でどうにか塞がっただけだ。
毒は体の底に残り、弱った生命力では再生が追いつかない。
肉が寄り付いて見た目は塞がっているが、内側の組織は脆く、不安定なままだ。
ティオが体勢を立て直そうと身を捻った、その瞬間――
腹の奥で、嫌な感覚が走った。
「……っ!」
塞がっていたはずの傷が、内側から再び開いた。
激痛が一気に駆け抜け、ティオの呼吸が止まる。
膝から力が抜け、ティオは甲板に片手をついた。
もう片方の手は反射的に腹部を押さえる。
指先に触れたのは、自分の温かい血――
そして――
まるでこの瞬間を狙っていたかのように、濁った紫光を帯びた触手が一斉にティオへと向きを変え――殺到した。
「ラグナー!立て!」
オルフが叫ぶ。
だがティオは、腹の奥を焼く痛みに足を奪われ、一歩踏み出すことすらできなかった。
太い触手が、容赦なくオルフの盾へ叩きつけられている。
オルフは歯を食いしばって受け止めるが、圧力が凄まじく、踏み込む余裕などない。
フェルドが雷を、ミネアが風を放とうとしても――詠唱が間に合わない!
空気が裂けるような音を立てて、触手が一直線に迫る。
「ラグナーさん!!」
ミネアの叫びが甲板に響いた。
ティオは立ち上がれない。
触手はもう目の前。
その瞬間――光が走った。




