ー11ー送り出す者と進む者
船室には、倒壊した材木の匂いと血の鉄臭さが沈み込んでいた。
重苦しい静けさの中、耳に届くのは、わずかな息遣いと船体の軋む音だけだった。
ミネアは、崩れた甲板の大穴が落とす暗がりの中で、血に濡れたティオの腹部へそっと視線を向けた。
(……状況は最悪。敵は海底。こちらの攻撃は届かない。
それに、負傷者もいる……ロイを守りながら、どうすれば――)
焦燥が胸の奥でじりじりと焼けつく。
(どうすれば、この場を切り抜けられるの……?)
そのとき、背後で気配が動いた。
フェルドがそっと歩み寄り、ミネアの隣で膝をつくと、声を落として告げた。
「……中尉、ここは任務遂行を優先すべきだ。我々は、覚悟はできている」
ミネアは思わず小声で返す。
「しかし……!」
フェルドは周囲を一瞥し、さらに声を潜めた。
「何を守るかを決めねばならん。
今は“勝つ”のではなく、“任務をつなぐ”ときだ。
そのためには――“誰に託すか”を定めねばならん」
その静かなやり取りを、ロイは距離のせいか聞き取れていない。
わずかな間が降りた。
ミネアは拳を握りしめ、視線を伏せた。
(全員が助かる道を選びたい……でも……)
ほんの数秒迷ったのち、ミネアは静かに顔を上げ、立ち上がった。
その瞳には、かすかな震えと確かな決意が宿っている。
「皆さん、聞いてください」
船室に満ちた重い沈黙の中、その声ははっきりと響いた。
「これより、任務遂行を最優先とします。
エルドランさんはウェールグさんとミーオを連れて救難艇で脱出してください。他の方々は、彼らが捕捉されないよう敵の注意を逸らしてください」
その言葉を遮るように、ロイが叫んだ。
「待って! それって……ミネアたちが囮になるってこと!? そんなのダメだ!」
ミネアは首を振る。
「私たちの任務は、あなたを王都へ連れて行くことです」
「でも、あいつの狙いは俺なんでしょ! なら俺が囮になった方が――!」
「それは命を捨てる行為です。認められません。
ラグナーさんが身を挺してあなたを守ったことを、無駄にするつもりですか?」
ロイは息を呑む。
視線の先では、ティオが床に横たわっている。
軍服には赤が滲み、胸が痛む。
かすかな呼吸だけが、かろうじて“生きている”ことを示していた。
(……俺のせいで……)
唇が震え、言葉にならない。
張りつめた空気を破ったのは、ミネアの静かな声だった。
「あなたは――なんのために村を出たのですか?」
ロイが顔を上げる。
ミネアの表情には、怒りでも悲しみでもなく、ただ真っ直ぐな決意だけがあった。
「……魔物から、たくさんの人を……守りたくて……」
かすれ声でようやく言葉が零れる。
「なら、こんなところで足を止めてはいけないはずです。
魔物の恐怖に怯える人々は、世界中にいます」
ロイの喉が詰まる。
「でも……失いたくない人は、ここにもいるんだ……」
その言葉に、ミネアは一瞬だけ目を伏せた。
しかしすぐに顔を上げて告げる。
「私たちは軍の者。守られる側ではなく、守る側です。
……ここは私たちに任せて、ロイはロイのすべきことをして」
それは中尉ではなく、“ミネア”としての言葉だった。
厳しさの奥に、確かな優しさがあった。
口火を切ったのは、オルフだった。
「安心しろ、坊主。俺たちも頃合いを見て脱出するさ」
その言葉に、ロイは小さく息をのむ。
それが嘘だとどこかで感じながらも――
ミネアは腕の中のミーオをそっと撫で、微笑んだ。
「ミーオのこと、お願いね」
「きゅう?」
ミーオは不安げに首をかしげ、ロイの手の中へ抱き移された。
ロイはミーオを抱えたまま、言葉を詰まらせた。
ミネアは最後にマルクへ視線を向けた。
「エルドランさん。……救難艇の脱出準備が整い次第、こちらも動きます。
そちらは何分あれば十分ですか?」
「辿り着くまでに3分。起動の準備を含めれば――7分あれば十分です」
ミネアは懐中時計を取り出し、素早く時刻を確認した。
「分かりました。7分後に作戦を開始します。
――マルク、後はお願いします」
マルクの眉がわずかに動く。
「……分かりました」
それ以上は何も言わず、ミネアへ一度だけ視線を返すと、ロイのもとへ歩み寄る。
無言のままロイの腕を掴んだその手には、抗いでも肯定でもなく、ただ静かな覚悟が滲んでいた。
「行くぞ、ウェールグ」
ロイは言葉を飲み込んだ。
喉の奥で生まれかけた声は、形になることなく消えていった。
マルクは振り返らず、その手は迷いもなくロイの腕を引く。
その勢いにロイの足は抗えず――いや、抗う前に勝手に前へ踏み出していた。
それでも彼は、わずかに首を捻って後ろを見ようとした。
だが、その小さな動きすらマルクの歩みに飲まれ、視界は救難艇の方へ押し流されていった。
――
ロイたちの姿が闇に消えると、船室にはただ、重たく沈んだ静けさが残された。
湿った海気が空気の底にまとわりつき、揺れる灯りが壁に影を落とす。その影だけが、かすかに動いているようだった。
誰ひとり言葉を発さなかった。
船体が軋む低い音が、今ここに残された者たちの鼓動をじわりと締めつけた。
場の流れを変えたのは、オルフだった。
「さて……ここで何もできずにやられるわけにもいかんな。魔導砲でも使うか?」
ミネアは背筋を伸ばし、静かに呼吸を整えた。
「……交戦前の魔力感知では正確には掴めませんでしたが、おそらく千メートルより深い場所にいると思います」
「千メートル以上か……」
フェルドが顎に指を添え、短く考え込むように目を伏せた。
「水圧のせいで、撃っても届くかは分からんな」
「それでも、一か八かでやってみましょう。
倒せなくてもダメージは与えられるかもしれません。
リュースさんは魔導砲の操作を。私は魔法で撹乱。
グランディアさんは、応戦しつつラグナーさんの護衛をお願いします」
「……中尉……」
かすれた声が呼んだ。ミネアは振り返り、ティオの傍へ膝をつく。
「喋らないでください。応急処置はしましたが、腹部の傷は深い。解毒にも時間がかかります。安静に――」
「……俺にも……最後まで……戦わせてください……」
息は弱かった。
だがその瞳だけは、はっきりと戦う意志を宿していた。
ミネアは短く目を閉じ、唇を噛んだ。
近くで様子を見ていたオルフが慎重に問いかけた。
「中尉、フェルドが魔法で時間を稼ぐ間に……ラグナーへ治癒魔法を使えるか?」
「使っても……全快は無理です。そんな状態で戦わせるなんて――」
フェルドが腕を組み、静かに言った。
「甘いことは言っていられん。本人が望むなら、悔いのないようにやらせてやれ」
ミネアはしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「……わかりました」
ティオがかすかに笑った。
「……ありがとうございます。……中尉が名前で呼んでくれたら……俺、もっと頑張れます……」
「こんなときに……何ふざけたこと言ってるんですか!」
ミネアの呆れた声が船室に響いた。
一拍置いて、フェルドとオルフが肩を震わせ、ついに堪えきれず吹き出した。
「ブレないな、お前は」
「ははは! 呼んでやれよ、嬢ちゃん」
ミネアはため息をつき、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……ティオ。無茶は、しないでくださいね」
ティオは力のない笑みを浮かべた。
「了解です……中尉。……やっぱり……名前で呼ばれると嬉しいな……ちょっと元気が出ました……」
フェルドが肩を落とし、苦笑した。
「……ほんと、単純だな」
オルフは腹を抱えて笑った。
「元気が出りゃ十分だ」
その笑いに船室の空気がほぐれ、ミネアの緊張もわずかに和らいだ。
だが、その安堵が長く続かないことを、この場の全員が痛いほど理解していた。
和らいだ表情はすぐに引き締まり、静かな覚悟が空気を満たしていった。
――
船室から再び甲板へ出る。夜風が冷たく頬を撫で、波の音が重く響いた。
ミネアは懐中時計を出し、蓋を親指で静かに開いた。揺れる秒針を一瞥し、静かに仲間たちへ向き直った。
「――7分経過しました。これより作戦を開始します」
全員の気配がわずかに引き締まった。
「天に座す雷霆の王よ――」
「天を巡り、万象を統べる風霊の導き手よ――」
二人の詠唱が始まった、その瞬間だった。
船底を突き破り、再び触手が噴き上がった。
四人は散開して回避しながらも、フェルドとミネアは詠唱を途切れさせなかった。
「その咆哮を我が手に。
轟け、閃け、すべてを貫け――
《トニトルス・フルグル》!」
「その力、今ここに集い、癒しの環を描け。
痛みを払い、傷を縫い、再び立たしめよ――
《アエリス・ヴィータ》!」
フェルドの雷が夜の海を裂いた。
轟音と閃光が海面を叩き、闇が一気に弾け飛んだ。
同時に、甲板には柔らかな風が輪を描き、淡い光を宿して静かに広がっていった。
静寂は砕け散り、戦いが再び始まった。




