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アルスレア  作者: ゆきつき
第三章 蒼海の試練

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ー11ー送り出す者と進む者

船室には、倒壊した材木の匂いと血の鉄臭さが沈み込んでいた。

重苦しい静けさの中、耳に届くのは、わずかな息遣いと船体の軋む音だけだった。


ミネアは、崩れた甲板の大穴が落とす暗がりの中で、血に濡れたティオの腹部へそっと視線を向けた。


(……状況は最悪。敵は海底。こちらの攻撃は届かない。

それに、負傷者もいる……ロイを守りながら、どうすれば――)


焦燥が胸の奥でじりじりと焼けつく。


(どうすれば、この場を切り抜けられるの……?)


そのとき、背後で気配が動いた。


フェルドがそっと歩み寄り、ミネアの隣で膝をつくと、声を落として告げた。


「……中尉、ここは任務遂行を優先すべきだ。我々は、覚悟はできている」


ミネアは思わず小声で返す。

「しかし……!」


フェルドは周囲を一瞥し、さらに声を潜めた。

「何を守るかを決めねばならん。

今は“勝つ”のではなく、“任務をつなぐ”ときだ。

そのためには――“誰に託すか”を定めねばならん」


その静かなやり取りを、ロイは距離のせいか聞き取れていない。


わずかな間が降りた。

ミネアは拳を握りしめ、視線を伏せた。


(全員が助かる道を選びたい……でも……)


ほんの数秒迷ったのち、ミネアは静かに顔を上げ、立ち上がった。

その瞳には、かすかな震えと確かな決意が宿っている。


「皆さん、聞いてください」

船室に満ちた重い沈黙の中、その声ははっきりと響いた。


「これより、任務遂行を最優先とします。

エルドランさんはウェールグさんとミーオを連れて救難艇で脱出してください。他の方々は、彼らが捕捉されないよう敵の注意を逸らしてください」


その言葉を遮るように、ロイが叫んだ。


「待って! それって……ミネアたちが囮になるってこと!? そんなのダメだ!」


ミネアは首を振る。

「私たちの任務は、あなたを王都へ連れて行くことです」


「でも、あいつの狙いは俺なんでしょ! なら俺が囮になった方が――!」


「それは命を捨てる行為です。認められません。

ラグナーさんが身を挺してあなたを守ったことを、無駄にするつもりですか?」


ロイは息を呑む。


視線の先では、ティオが床に横たわっている。

軍服には赤が滲み、胸が痛む。

かすかな呼吸だけが、かろうじて“生きている”ことを示していた。


(……俺のせいで……)


唇が震え、言葉にならない。


張りつめた空気を破ったのは、ミネアの静かな声だった。


「あなたは――なんのために村を出たのですか?」


ロイが顔を上げる。

ミネアの表情には、怒りでも悲しみでもなく、ただ真っ直ぐな決意だけがあった。


「……魔物から、たくさんの人を……守りたくて……」


かすれ声でようやく言葉が零れる。


「なら、こんなところで足を止めてはいけないはずです。

魔物の恐怖に怯える人々は、世界中にいます」


ロイの喉が詰まる。

「でも……失いたくない人は、ここにもいるんだ……」


その言葉に、ミネアは一瞬だけ目を伏せた。

しかしすぐに顔を上げて告げる。


「私たちは軍の者。守られる側ではなく、守る側です。

……ここは私たちに任せて、ロイはロイのすべきことをして」


それは中尉ではなく、“ミネア”としての言葉だった。

厳しさの奥に、確かな優しさがあった。


口火を切ったのは、オルフだった。

「安心しろ、坊主。俺たちも頃合いを見て脱出するさ」


その言葉に、ロイは小さく息をのむ。


それが嘘だとどこかで感じながらも――


ミネアは腕の中のミーオをそっと撫で、微笑んだ。

「ミーオのこと、お願いね」


「きゅう?」

ミーオは不安げに首をかしげ、ロイの手の中へ抱き移された。


ロイはミーオを抱えたまま、言葉を詰まらせた。

ミネアは最後にマルクへ視線を向けた。


「エルドランさん。……救難艇の脱出準備が整い次第、こちらも動きます。

そちらは何分あれば十分ですか?」


「辿り着くまでに3分。起動の準備を含めれば――7分あれば十分です」


ミネアは懐中時計を取り出し、素早く時刻を確認した。


「分かりました。7分後に作戦を開始します。

 ――マルク、後はお願いします」


マルクの眉がわずかに動く。

「……分かりました」


それ以上は何も言わず、ミネアへ一度だけ視線を返すと、ロイのもとへ歩み寄る。


無言のままロイの腕を掴んだその手には、抗いでも肯定でもなく、ただ静かな覚悟が滲んでいた。


「行くぞ、ウェールグ」


ロイは言葉を飲み込んだ。

喉の奥で生まれかけた声は、形になることなく消えていった。


マルクは振り返らず、その手は迷いもなくロイの腕を引く。


その勢いにロイの足は抗えず――いや、抗う前に勝手に前へ踏み出していた。


それでも彼は、わずかに首を捻って後ろを見ようとした。


だが、その小さな動きすらマルクの歩みに飲まれ、視界は救難艇の方へ押し流されていった。


――


ロイたちの姿が闇に消えると、船室にはただ、重たく沈んだ静けさが残された。


湿った海気が空気の底にまとわりつき、揺れる灯りが壁に影を落とす。その影だけが、かすかに動いているようだった。


誰ひとり言葉を発さなかった。


船体が軋む低い音が、今ここに残された者たちの鼓動をじわりと締めつけた。


場の流れを変えたのは、オルフだった。

「さて……ここで何もできずにやられるわけにもいかんな。魔導砲でも使うか?」


ミネアは背筋を伸ばし、静かに呼吸を整えた。

「……交戦前の魔力感知では正確には掴めませんでしたが、おそらく千メートルより深い場所にいると思います」


「千メートル以上か……」

フェルドが顎に指を添え、短く考え込むように目を伏せた。

「水圧のせいで、撃っても届くかは分からんな」


「それでも、一か八かでやってみましょう。

倒せなくてもダメージは与えられるかもしれません。

リュースさんは魔導砲の操作を。私は魔法で撹乱。

グランディアさんは、応戦しつつラグナーさんの護衛をお願いします」


「……中尉……」


かすれた声が呼んだ。ミネアは振り返り、ティオの傍へ膝をつく。


「喋らないでください。応急処置はしましたが、腹部の傷は深い。解毒にも時間がかかります。安静に――」


「……俺にも……最後まで……戦わせてください……」


息は弱かった。

だがその瞳だけは、はっきりと戦う意志を宿していた。

ミネアは短く目を閉じ、唇を噛んだ。


近くで様子を見ていたオルフが慎重に問いかけた。

「中尉、フェルドが魔法で時間を稼ぐ間に……ラグナーへ治癒魔法を使えるか?」


「使っても……全快は無理です。そんな状態で戦わせるなんて――」


フェルドが腕を組み、静かに言った。

「甘いことは言っていられん。本人が望むなら、悔いのないようにやらせてやれ」


ミネアはしばらく黙り、やがて小さく頷いた。

「……わかりました」


ティオがかすかに笑った。

「……ありがとうございます。……中尉が名前で呼んでくれたら……俺、もっと頑張れます……」


「こんなときに……何ふざけたこと言ってるんですか!」


ミネアの呆れた声が船室に響いた。


一拍置いて、フェルドとオルフが肩を震わせ、ついに堪えきれず吹き出した。


「ブレないな、お前は」

「ははは! 呼んでやれよ、嬢ちゃん」


ミネアはため息をつき、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「……ティオ。無茶は、しないでくださいね」


ティオは力のない笑みを浮かべた。

「了解です……中尉。……やっぱり……名前で呼ばれると嬉しいな……ちょっと元気が出ました……」


フェルドが肩を落とし、苦笑した。

「……ほんと、単純だな」


オルフは腹を抱えて笑った。

「元気が出りゃ十分だ」


その笑いに船室の空気がほぐれ、ミネアの緊張もわずかに和らいだ。


だが、その安堵が長く続かないことを、この場の全員が痛いほど理解していた。


和らいだ表情はすぐに引き締まり、静かな覚悟が空気を満たしていった。


――


船室から再び甲板へ出る。夜風が冷たく頬を撫で、波の音が重く響いた。


ミネアは懐中時計を出し、蓋を親指で静かに開いた。揺れる秒針を一瞥し、静かに仲間たちへ向き直った。


「――7分経過しました。これより作戦を開始します」


全員の気配がわずかに引き締まった。


「天に座す雷霆の王よ――」


「天を巡り、万象を統べる風霊の導き手よ――」


二人の詠唱が始まった、その瞬間だった。

船底を突き破り、再び触手が噴き上がった。


四人は散開して回避しながらも、フェルドとミネアは詠唱を途切れさせなかった。


「その咆哮を我が手に。

轟け、閃け、すべてを貫け――

《トニトルス・フルグル》!」


「その力、今ここに集い、癒しの環を描け。

痛みを払い、傷を縫い、再び立たしめよ――

《アエリス・ヴィータ》!」


フェルドの雷が夜の海を裂いた。


轟音と閃光が海面を叩き、闇が一気に弾け飛んだ。

同時に、甲板には柔らかな風が輪を描き、淡い光を宿して静かに広がっていった。


静寂は砕け散り、戦いが再び始まった。


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