ー9ー嵐の中で生まれた絆
海が、唸った。
エラストケロナが船に激突し、巨体を押しつけてくる。
船体が衝撃に揺さぶられ、木材が軋む音とともに、甲板が跳ね上がった。
「全員、姿勢を低く!」
ミネアの鋭い声が響いた。
飛び散る海水が、冷たく肌を刺す。
エラストケロナが波間から巨体を持ち上げ、船首を強引に押し沈める。
同時に、その背後の海から無数の黒い影――
メデュラーゲの群れが、再び飛び出した。
ミネアは杖を掲げ、息を吸い込んだ。
「天を巡り、万象を統べる風霊の導き手よ――
その流れを我が手に集え。
穏やかなる空を裂き、狂える嵐となれ――
《アエリス・テンペスタ》!」
空気が震え、海が悲鳴を上げる。
詠唱に応じるように風がうねりを上げ、甲板を中心に暴風が広がる。
それは瞬く間に巨大な渦となり、世界そのものを呑み込まんばかりに荒れ狂った。
船を包む一帯だけは――嘘のように静かだった。
まるで台風の目。そこは無風の聖域。
だが一歩外側では、狂気の嵐が海を裂き、無数の風刃が飛沫と共に乱舞している。
巻き上げられたメデュラーゲが、悲鳴のような咆哮を上げながら渦へと呑まれていく。
その勢いに押し上げられるようにして、エラストケロナの巨体が甲板上へと引きずり出された。
嵐そのものを操り、戦場を作り変えたのだ。
台風の目に入ったメデュラーゲを、フェルドの雷が追撃する。
「天に座す雷霆の王よ――
その矛を振るい、風の道を穿て。
天地の狭間、渦の心臓にて轟け――
《トニトルス・ヴォルテクス》!」
暴風の中に閃光が走り、雷鳴が轟く。
雷光は風の渦に絡み、枝分かれしながら軌跡を描いた。
暴風が導き、雷が咲く。
それはもはや二つの魔法ではない――風と雷が交わり生まれた“渦雷”だった。
巻き上げられたメデュラーゲが次々と閃光に呑まれ、灰のように散っていく。
風と雷が交錯する嵐の中心――
そのわずかな静寂の円内に、彼らの戦場があった。
エラストケロナが甲羅の奥へ首を引っ込める。
巨体が沈み、突進の構えを取る。
「避けろッ!」
マルクの怒声と同時に、三人が散った。
次の瞬間、轟音とともに甲板が爆ぜ、エラストケロナの巨体が一直線に突き抜ける。
その正面――
オルフが立ちはだかっていた。
両脚を踏み込み、盾を構えて雄叫びを上げる。
「ぐおおおおおっ!!!」
衝撃波が船を揺らし、木片が宙に舞った。
だが、盾は砕けず、巨体の突進を見事に止めていた。
ロイはエラストケロナの側面へと駆け、息を呑んだ。
(首が中に隠れていて狙えない……どうすればいいんだ?)
焦燥が胸を締めつけた瞬間、甲羅の隆起線から高圧の水が唸りを上げて放たれた。
それは鋼の鞭のように甲板を叩き、破片を弾き飛ばす。
「うわっ!」
ロイは反射的にしゃがみ込み、水流が頭上を掠めた。
髪が濡れるほどの距離で通り過ぎ、背後の手すりを粉砕して海へと吹き飛ばす。
ティオがひらりとかわし、笑った。
「俺の回避訓練、ちゃんとやってて良かったな!」
「あっ、ははは……」
ロイの脳裏に、あの地獄の訓練が蘇る。
ティオの放つ攻撃を、ひたすら避けるだけのシンプルな訓練。
最初は木の棒だったが、回を重ねるごとにフォーク、
ナイフと殺傷力を増し、最近では銃まで撃ってくるという鬼畜ぶり。
笑顔でこんなことやってくるんだから、この人ほんと頭おかしいと思った。
「焦るな!」
マルクの声が飛ぶ。
「隆起線の噴出口を正確に攻撃すれば――やつは首を出す! 回避を優先しろ!」
「正確にって、どうやって――」
言い終わる前に、ティオがマストを駆け上がっていた。
鋭い水流の合間を縫い、天辺から身を躍らせる。
「こうやってだッ!」
叫びとともに双剣が閃き、甲羅の噴出口を正確に叩き斬る。
水が爆ぜ、衝撃でエラストケロナが苦鳴を上げた。
甲羅の隙間から、再び首が突き出される。
ロイとマルクが同時に駆け出した。
口腔の奥で光が弾けた瞬間、轟音とともに濁流が砲弾のように放たれた。
水圧弾は甲板を削る勢いで襲いかかる。
マルクが瞬時に踏み込み、光を纏った斬撃を放った。
水圧弾が真っ二つに裂け、霧状の水しぶきが夕陽に受けて金色に舞う。
「ウェールグ、行け!」
マルクの声に、ロイは反射的に叫んだ。
「はい!」
足元を蹴り、風のように駆ける。
その瞬間、エラストケロナが大口を開いた。
暗い洞窟のような口腔の奥に、無数の棘が光っている。
「いっ……!?」
あまりの異形に、ロイの動きが一瞬止まった。
だが――
「坊主! 怯むな!!」
オルフの咆哮。
盾を下から突き上げ、エラストケロナの顎を打ち上げた。
巨亀の口が閉じる。
ロイはその隙を逃さない。
剣――アルスレアが光を放つ。蒼白い輝きが奔流のように溢れ、甲板を照らす。
その光が、一直線にエラストケロナの首を貫いた。
波が荒れ狂い、空が一瞬だけ蒼白く染まった。
やがて、巨体が力尽きたように甲板へと崩れ落ちた。
静寂。
残ったメデュラーゲたちも、やがて海の底へと沈んでいく。
戦いの終わり――
ロイは膝をつき、肩で息をした。
マルクが近づき、手を差し伸べる。
「……及第点ってところだな」
ロイは苦笑いを浮かべてその手を取る。
「あはは……厳しいですよ」
その直後、背後からティオが腕を回し、頭をガシガシ撫で回した。
「ロイ! すげぇじゃねえか! よくやった!」
「やめっ……! 痛いですって!」
フェルドは静かに頷いた。
「まさか発動までこぎつけるとはな」
オルフが声高らかに笑った。
「なかなかやるな、坊主!」
ミネアは風に髪を揺らしながら、目を細めた。
「おめでとうございます。大きな一歩ですね」
ロイは胸の奥からこみ上げるものを感じ、深く息をついた。
「ありがとうございます。……みなさんのおかげです!」
マルクがニヤリと笑い、剣を構える。
「発動成功祝いだ。このまま模擬戦といこうか」
「……えっ?」
ロイの顔から、一瞬で血の気が引いた。
さっきまでの達成感が、跡形もなく吹き飛ぶ。
ティオがすぐに口を挟む。
「おいおい、祝いなんだから少しくらい休ませてやれよ」
「ティオさん!」
ロイの目が一瞬で輝きを取り戻す。まるで神様でも拝むみたいに、ティオを見上げた。
だが――フェルドが無表情のまま淡々と告げた。
「アルスレアの力を試すいい機会だ。――存分に励め」
「……嘘でしょ?」
ロイの顔が引きつる。
その横で、オルフがニカッと笑った。
「せっかくだ、しばかれてこい!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいってば!」
ロイが身をよじるが、ティオの腕が首にがっしり絡みついていて、動けない。
ミネアがくすりと笑った。
「実戦はいい経験になるわ。頑張ってね、ロイ」
「ま、待って! ミネア! 皆さんを止めてぇぇぇぇ!」
ティオは腕でロイの首を捕まえたまま、にっこりと笑った。
「……おい、ロイ」
「はい?」
ティオはもう片方の手でロイの頬をむぎゅっとつかみ、顔をこちらに向けさせた。
「お前、いつから中尉と“呼び捨てで呼び合う”ほど親しくなったんだ?」
その笑顔の圧が、何よりも恐ろしかった。
「ひゃい?」
ロイの声が裏返る。
「中尉に呼び捨てで呼んでもらえるなんて、俺でも片手で数えるほどしかないのに! このやろうー!」
ティオが再びロイの頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。
「ひゃぁぁ! やめっ、ほんとにやめてぇぇ!」
ロイが悲鳴を上げながら暴れ――
その勢いでようやく腕を振り解き、甲板を駆け出した。
ティオが笑いながら叫んだ。
「おいマルク! 二人がかりでやるぞ!」
「理由がクッソくだらねぇ……」
そう言いながらも、マルクは苦笑して駆け出した。
「うるさい!」
フェルドは腕を組み、わずかに口角を上げた。
「複数を一度に相手にする、いい機会だな」
「怖いお兄さんたちに捕まらないようにしてくださいね」
ミネアが柔らかく微笑む。
オルフは腹の底から豪快に笑った。
「ははは、弟分ができたみたいで楽しそうだな、あいつら」
ミネアたちは、楽しそうに甲板を駆け回る三人を見守っていた。
「うわああああ! ここ、鬼しかいないー!!」
こうして――捕まったら死亡確定の、地獄の鬼ごっこが始まった。
実戦用の武器を振り回して追いかけてくるとか、正直、魔物より怖い。
潮風が熱を奪い、甲板に笑い声が響いた。
長い戦いのあとに訪れた、ひとときの安らぎ。
そして――
太陽がゆっくりと水平線に沈んでいった。
赤く染まる海の向こうに、まだ微かに嵐の残響が漂っていた。




