ー6ー風が告げる戦いの幕開け
――数日後。
陽が傾きかけた空は、まだ青く澄んでいた。
やわらかな日差しが甲板を照らし、潮風が頬をかすめていく。
だが、その穏やかさとは裏腹に――
甲板には今日も悲鳴と怒号が響き渡っていた。
「走れぇぇぇ! 止まったら三周追加だ!」
「そ、そんなぁ!」
ロイが必死の表情で甲板を駆け抜ける。
陽光に照らされた汗が飛び散り、足音が木の板を打ち、小気味よい音を響かせた。
そのすぐ後ろで、オルフ・グランディアが筋肉の塊のような体で並走している。
笑顔はまぶしいほど快活だが、その声はまるで雷鳴のようだった。
「お前ならできる! 笑え! 笑顔が体力を生むってフェルドが言ってたぞ!」
「フェルドさん絶対言ってません!!」
ロイの叫びはもはや悲鳴に近い。
次の瞬間、つまずいた足が甲板に引っかかる。
素早く伸びた大きな手が、逃すまいとロイの襟をつかんだ。
「甘ぇぞっ!」
軽々と持ち上げられたロイの体が、宙に舞う。
そのままぐるんと一回転し――
「ぎゃあああぁぁぁ!?」
ドンッ――! 甲板が悲鳴を上げるように鳴った。
「よし、受け身は成長してるな!」
「褒めるとこそこですか……」
呻きながら立ち上がるロイの肩を、オルフが豪快に叩いた。
バシン、といい音がした。
「よし、じゃあ次は腕立てだ! 五十回いけるな!」
「え、えっ!? 無理です!」
「大丈夫だ! お前はできる子だ!」
「どこにそんな根拠あるんですか!!」
オルフの声が空に響く。
ロイは半泣きになりながら腕立てを始めた。
甲板の上で、波の音と悲鳴と笑い声が交互に混ざる。
「おい坊主、できない時は“まだできない”って言うんだ。
“無理”なんて言葉、俺は教えてねぇぞ!」
その言葉に、ロイはうつむきながらも小さく答える。
「はい……」
「声が小さい! ――あと十回追加だ!」
「理不尽すぎますよ……!」
そんな二人を、少し離れた手すりにもたれながら見ていたのはマルクだった。
潮風を受け、腕を組んだまま、わずかに眉を上げる。
「……ロイ、今日も盛大にやられてますね」
船内から声がした。
マルクがそちらへ視線を向けると、出入り口の階段を上がってきたミネアの姿があった。
空いた時間に、訓練をのぞきに来たようだ。
「だな。あの訓練、ついこないだイオルがやらされて気絶してたぞ」
「そうだったんですか?」
ミネアの目がまんまるになる。
頬を撫でた風が、彼女の髪をふわりと揺らした。
「……イオルを村に駐屯させて大丈夫なのか?」
「経験は浅いですが、ヴォルクさんとハーゲンさんが一緒ですから。心配いりません」
イオル・セレヴァン、レイナス・ヴォルク、サリム・ハーゲンの三人は、ロイの村に残って護衛任務についている。
「まあ、確かにな」
マルクが軽くうなずいた、その時――ミネアがふと思い出したように彼を見上げた。
「ところでマルク。あなたこんなところで油を売って、仕事はどうしたんですか?」
「誰かさんが人の仕事を取ったせいで、暇になったんだよ」
マルクはわざとらしく息を吐き出した。
「……え?」
ミネアがきょとんとする顔に、マルクは視線をそらした。
数秒遅れて、その意味に気づき、顔を赤らめた。
「そ、それはすみませんでした」
ミネアが申し訳なさそうに肩をすくめる。
マルクはふっと横目で彼女を見る。その視線は叱るというよりも、心配する兄のようだった。
「まったく……お前、人の仕事まで奪うなよ、少しは休め」
「ですが……」
「お前一人で何もかもやろうとすんな。もっと俺たちを頼れ」
「……でも」
「部下の仕事まで抱えたら、お前が潰れる。それと“任せる勇気も必要だ”って、フェルドさんに言われただろ?」
「……そうですね。気をつけます」
「ったく、余計な手間かけさせんな」
「ふふ、お気遣いありがとうございます」
マルクは小さく息を漏らし、それ以上何も言わずに甲板の向こうへと視線を戻した。
潮風が二人の間をすり抜けていく。
その風に混じって――またオルフの豪快な声が響いた。
「おい坊主! 海に落ちたら泳いで戻れ! 泳ぎも訓練だ!」
「ここサメがいるってティオさん言ってましたよ!」
「根性で逃げきれぇ!」
「そんな無茶なぁ!」
ロイの絶叫とオルフの笑い声が重なり、船上がにわかに賑やかになる。
ミネアは思わず吹き出した。
「……でも、ああやって叩き上げてくれる人がいるのは、ありがたいですね」
「そうだな。オルフさんは新人の鍛え方が荒いけど……あの人に育てられた奴は、だいたい一人前になる」
マルクの声には、かすかな尊敬がにじむ。
ミネアはその横顔を見つめ、穏やかに微笑んだ。
……その瞬間、空気が変わった。
マルクの表情が一瞬で引き締まる。
「……風が変わったな」
低く呟き、腰のベルトループに下げた小さなキーホルダーに手を伸ばす。
ミネアも顔を上げる。
海の匂いが、さっきまでと違っている。
「ええ……」
彼女の指が胸元のペンダントに触れた。
――次の瞬間。
甲板の上に、鋭い警鐘が鳴り響いた。
船内に組み込まれた魔力感知機が魔力の波を捉え、共鳴音を立てながら淡い青光を放つ。
操舵席のそばで、フェルドが瞬時に反応した。
「……魔力反応多数。総員、戦闘体制」
その静かな声が、鋭い刃のように船内を駆け抜けた。
潮風が止まり、海と空が静寂に沈む。
船の空気が、ぴんと張りつめた。
――そして、戦いの幕が静かに上がった。




