ー2ー魔法と北海の宝
陽が傾き、海面が金色に染まり始めていた。
マルクのおかげで、今日の残りの訓練は免除になった。
空腹に耐えかねたロイは、夕飯前の腹を満たすべく、船の甲板で自力の食料調達に挑む――竿を握り、海を見つめる。
「……川と違って、魚が見えない……釣れるのか、これ?」
竿を握ったまま、波の合間に目を凝らす。
夕陽の光がちらちらと反射し、海面が淡く揺れていた。
しかし、待てども当たりはなく、腹の虫がぐううと鳴るばかり。
潮風が顔を撫で、潮の匂いと冷たさが肌を包む。
「……みんな、元気にしてるかなぁ?」
妹や友達の顔が、ふっと脳裏に浮かぶ。
「ビットが“魔法学べよ”なんて言ってたけど、本当に簡単なことじゃないな……
それに、魔法って何でもできる“奇跡みたいな力”だと思ってたけど……違うんだな」
思考の波間に、フェルドの地獄の講義がよみがえった。
――
軍船の一室――
波の揺れと船体の軋みが、静かな圧を作っていた。
窓の外では青く光る海面がちらちらと揺れ、遠くで海鳥の声が響く。
フェルドは机の上の資料を指で軽く叩きながら、無表情に講義の準備をしている。
その静寂を破るように、冷たい声が響いた。
「今日は“魔法の基礎”だ」
ロイは背筋を伸ばした――が、日々の訓練で疲れ果てた頭は、もやがかかったようにぼんやりしていた。
「まず、魔法は“魔素”との共鳴によって発動する。
魔素が薄い場所では威力が下がり、枯渇すれば不発だ」
魔素――耳慣れない言葉に、ロイは小さく眉をひそめた。
フェルドはその反応を見越したように、淡々と続ける。
「魔素とは、精霊が生み出す力だ。空気にも水にも宿り、世界を巡る。
つまり、精霊の息吹こそが魔法の源――と言っていいだろう」
頭の中に流れ込む情報に、ロイは思わず口を開けたままになった。
「……ふぁい……」
「……今のは返事か、寝言か」
フェルドの眉がピクリと動く。
「返事です!」
「もう一度言う。魔法は“物質の生成”や“存在そのものの書き換え”には使えない。
欠損した腕を再生することも、病を根絶することも不可能だ」
「えっ、でも中尉さんが怪我を魔法で治してましたよね?」
「……それは“自然治癒力”を助けているだけだ。魔法は万能ではない。誤解するな」
フェルドは一拍置き、ロイをまっすぐに見据えた。
「ウェールグ、アルスレアを出せ」
ロイは“アルスレア”を机の上に置いた。
村にいた頃は軍の管理下にあったが、今はロイ自身に託され、常に身に付けている。
フェルドはその霊晶石を指で軽く叩きながら説明した。
「これが“コルディア”だ。霊晶石に魔法構築式を刻み、魔力を通すことで詠唱を省略し、魔法行使を可能にする道具だ。
ただし、詠唱を組み合わせれば、より強力な現象を生み出せる」
「へぇ……」
半分寝ながら、感心するロイ。
フェルドの視線が一瞬、鋭く光った。
「魔法の使用には、魔力と精神力を消費する。
過剰使用は魔力枯渇を招き、最悪、生命活動そのものが停止する。
――“限界を超えるな”。それが第一の鉄則だ」
「……すぅ……」
完全に瞼が閉じた瞬間――
ドスッ!
フェルドの手刀がロイの頭に落ちた。
「いぎゃあっ!」
フェルドは淡々と資料を閉じた。
「以上だ。次寝たら、覚えさせ方を変える」
「え、変えるって何を……?」
「試してみるか?」
その声は静かで、氷のように冷たい。
「やめます!!!」
室内に静かな波音が戻る。
ロイの頭には、見事なタンコブができていた。
――
「よぉ!釣りの成果はどうだい?」
物思いにふけるロイの背後から、明るい声が飛んだ。
振り向くと、夕陽を受けて金髪が赤く染まり、風にふわりと揺れている。
回避訓練担当――ティオ・ラグナーだった。
「ぜ、全然ダメです……」
「せっかく俺が竿を貸してやってんのに、頑張れよなー」
「これ、持ってるだけでなんか疲れるんですけど……気のせいですか?」
「おっ、気づいたか? それ、趣味用で買った釣り専用のコルディアだ!」
「釣り専用? そんなのあるんですか?」
「耐久性はバッチリで大物も狙える!戦闘用のものよりも簡単に発動できるが、攻撃はまったくできない!
しかも発動中は魔力をモリモリ喰われるというおまけ付きだ!」
「はいっ!? じゃあ、今、魔力吸われてるってことですか!?」
「そーいうこと!」
ティオはケロッと笑って肩をすくめた。
「俺の魔力で起動させてるけど、発動維持はお前の魔力を吸う仕様だ。安心しろ、魔力供給がなくなったら勝手に元に戻る!」
「全然安心できませんってぇ!?」
ビクンッ!
「っうわっ!? ティ、ティオさん! 食いつきました!」
「おおっ、いいぞいいぞ! 逃すなよー!」
竿がギシギシと悲鳴を上げ、ロイの体が前へ引きずられる。
「ちょっ……強っ! な、なんでこんなに引くんですか!?」
「このままだと海に落ちてサメの餌だぞー! 踏ん張れ、踏ん張れ!」
「いぎぎぎぎぎ、無理無理無理! 助けてー!」
「しょうがねぇなっ!」
ティオが後ろから竿をつかんだ。
「おわっ、めっちゃ引きが強い。こりゃ大物だ!」
「グギギギギギ……!」
ロイの顔は真っ赤。
汗が飛び散り、腕がぷるぷる震える。
そのとき、水面の下で赤い影がきらりと光った。
「おっ! 今見えたぞ! あの赤い背びれ、ノヴァダイだ!」
「の、のば……何ですか、それ!?」
「北の海の宝だ! 滅多に釣れねぇが最高にうまい!
お前、ラッキーだな!」
ロイはそんなことを聞いている余裕もなく、ただ必死に竿を握りしめていた。
「くそっ、こいつ……暴れすぎ……!」
「おーい、坊主ども。楽しそうだな!」
豪快な声とともに現れたのは、体力強化担当――
オルフ・グランディアだった。
「オルフさんっ! いいところに! ちょっと手貸してくださいよ!」
「情けないなぁ。訓練のつもりで自分らでやってみろ」
「これノヴァダイですよ! 釣れたら今日の酒の肴が最高になります!」
「……よし、任せろ!」
結局乗り気になるあたりが、オルフらしい。
三人がかりで竿を引き、オルフが雄叫びを上げる。
「うおおおおおっ!」
バシャァァァァンッ!!
巨大な魚影が水面を割った。
夕陽に照らされたその体は、燃えるような橙金色。
その勢いで、ロイとティオまで空中に放り出された。
「おおっ、やっぱりノヴァダイだぜ!」
「うぎゃああああああ!」
華麗に着地するティオ。
そして――顔面から甲板に落ちるロイ。
「……ぐふっ」
「はっはっは! 見事だロイ! 顔で受け止めるとは大した根性だ!」
「休みのはずなのに、訓練並みに辛い……」
げっそりとした顔をするロイ。
甲板の上には、立派なノヴァダイが跳ね回っていた。
「おお、こりゃ見事なノヴァダイだな。坊主、よくやった!」
オルフがロイの頭をガシガシと撫でる。
ティオはベルトについたチャームをひとつ取り外し、手に握る。
すると赤い光が一瞬輝き、次の瞬間には手にナイフが握られていた。
ロイは目を見開いた。
(……え、あのチャームって、コルディアだったのか!?)
手元で小さな宝石の塊が一瞬にして鋭い刃へと姿を変える様子に、思わず息を呑んだ。
「オルフさん、今のうちにチャチャっと内臓だけ出しときますね」
「ああ、頼んだ。血が回ると味が落ちるからな」
(え? 今ここで?)
ロイが目をぱちくりさせる間に、目の前でティオはノヴァダイの腹にスッと刃を入れた。
ブシュッ、ズル、グチョ……グロテスクな音と光景が、目の前に広がる。
青ざめて口を手で抑えるロイ。
「おいおい、坊主。そんな顔してどうした?」
「い、いや、小さい魚と違って……思ったより、その……生々しくて……」
「ははっ! お前、そんなんじゃ魔物と戦闘なんてできねーぞ!」
ロイはふらふらとよろめき、甲板の端に手をつく。
「お、おれ……ちょっと潮風に当たってきます……」
「おう、落ちるなよ」
空には海鳥の鳴き声。
波間に漂う赤いしぶきは、夕陽を受けて黄金色に染まっていた。
(なんか、舐めてたな……)
ロイはそんなことをぼんやりと思いながら、遠くの水平線を眺めた。




