熱の冷めるその前に
放課後のチャイムが鳴ると同時に、教室は蜂の巣を突いたように騒がしくなる。
わらわらと巣から飛び出す生徒の様子は様々だ。
カバンを引っ掴み、部活へ急ぐ者。誰かとどこかへ遊びに行く者。
そんな流れに逆らうように、机に残る二人の生徒がいた。
俺と、親友の永井計だ。
教室の端の席で教科書を鞄に仕舞う俺を待つように、早々に帰り支度を済ませた親友は無駄話を垂れ流していた。
放っておけば10分はこのままだ。
というのも、計は物好きな性格で無駄な知識には事欠かないため、一度話をさせれば沈黙には困らない。
おかげで計の近くにずっといた俺がクラスでは寡黙と評される始末だ。
そんな経緯も手伝い、俺の帰り支度が終わったのを待ってましたと言わんばかりにヤツが切り出したこの話も最初は与太話だと思っていた。
「食べたら絶対に口の中を火傷する、そうと分かっていても1度食べた人間は何度でも食べたがる熱々のトーストを食べにいかないかい?」
初めに聞いた時の心境は、なんじゃそりゃ?だ。
計の話が胡散臭いのはいつものことだが、今回は都市伝説のような大仰な語り口も相まって胡散臭さしか感じなかった。
懐疑の視線を送る俺に対して計は飄々とした態度で、まぁ聞けよと言った。
「この古ヶ丘には長く続いてる老舗が数多くあるのは知ってるだろ?」
「まぁ、知ってる。値段が高くてあんまり行かないけどな」
「僕の高校生活中に達成したい目標の1つに古ヶ丘市の老舗完全制覇があるんだけど……」
「そんな事のためにバイト掛け持ちしまくってるのか」
「まぁね。で、僕は毎回1店舗につき1番評判の1品を食べる事に決めているんだ。」
「なるほど、それでトーストか」
「そういうこと。でも困ったことにネットで調べた限りだと次に行く予定の店で評判なのはピザトーストなんだよ」
「……どういうことだ? トーストが評判だから食べに行くって話じゃないのか?」
「うん。だから困ってるんだよね。僕調べではどっちも評判なんだ」
「ネット以外でどう調べるっていうんだ」
「それは自分の足でしょ。生の声を侮っちゃいけないよ!」
計は身を乗り出して熱弁する。
どうやら俺はこいつの店巡りにかける情熱を見誤っていたようだ。
「で、話を続けさせてもらうとバイト帰りにその店の周りでオススメの品を聞いたんだけど不思議なことに大体の人がトーストをオススメするんだ」
「それは不思議な話だな。それで、なんで俺をトーストを食べに誘うって話になるんだ?」
「それは……」
そこまで話すと計は唐突に黙り込み、パンッと顔の前で手を合わせた。
「頼む!!一緒に店に行ってトーストを僕に分けてくれないか。半分とは言わない。僕のピザトーストも分けるから!!」
俺は計がトーストを食べに誘った理由を悟りため息をついた。
結局は金か。
・・・というか、自分はピザトーストを食べる前提なのが地味に図々しい。
そうだ、計は昔からこういうところがあった。
正直行く義理は全く無いが、先程の計の話を聞いているうちに俺もトーストを食べたい気分になっているのも半ば事実だった。
ここではたと、仰々しい語りはこのためだったのかと気が付いた。
俺は懇願ポーズのまま固まった策士を見つめながら自分の財布にいくら入っていたかを思い出していた。
「わかった。行くよ」
俺がそう言うと計はしたり顔で礼を言った。計に乗せられた事は分かりきっていたが、そんなことよりも今は空腹が大事だ。早くトーストを食べて計のしたり顔を忘れよう。
俺は鞄を肩にかけ、椅子から立ち上がった。
計は足早にドアまで移動すると はやく行こう。夜からバイトがあるから家で着替えなくちゃいけないんだ とか言っていた。
トーストを食べたいという気持ちは計も同じだったようで件の店へ向かう道すがらの計はいつもより気持ちはやく歩いていくが、小柄な体格で歩くのが速くない。
その上、道半ばの商店街などで計はおっちゃんから坊主などと親しく話しかけられる度に立ち止まるので時間を食ってしまい、到着したのは夕方と言っても良い時間帯だった。
「ついた。ここだよ」
高校からしばらく歩いて計が立ち止まったのは商店街の隅にある喫茶店だった。
外装はレトロな喫茶店そのものでガラス越しに見える店内からは落ち着いた雰囲気が感じられる。
「ここに入るのか」
「そうだよ。さ、日が沈まないうちに入ろう」
計が喫茶店のドアを開ける。
カランカランと子気味のいい音と共にいらっしゃいませーという声が聞こえた。
声を発したのは妙齢の女性店員であり、店内は彼女1人で回しているようだった。
少し店内を見回すと、全体的にどこか懐かしさがありつつも、俺には目新しい空間だった。
薄く光を反射する木壁、温かみのあるアンバーの照明、飴色に光るカウンター。
店内に一歩でも踏み入らないとわからない、言いようのない居心地の良さがそこにはあった。
すぐに案内されて窓際の向かい席に着く。
そして店員がグラスに入った冷水を机に持ってきたので、俺と計は早速注文をすることにした。
口火を切ったのは計だった。
「注文いいですか?」
「はい、何になさいますか?」
「ピザトーストとトーストを1つずつお願いします」
「ピザトースト、トーストを1つですね。トーストのトッピングは何になさいますか?」
店員の言葉に俺は固まった。
トッピング?トーストにトッピングが存在するのは初耳だ。メニューを開いて見ると下の方に書いてあった。
「バターといちごジャムでお願いします」
「かしこまりました」
注文が終わり店員が去ると計はメニューを開き出した。
「頼むのはピザトーストだけじゃ無かったのか?」
「ああ、もちろん頼むのはピザトーストだけど。これは次来た時に向けてメニューを吟味してるのさ」
「次って……」
このとき、俺は計のあらゆる物事に対する興味の節操の無さが普段の無駄話に生きているのかもしれないと思った。
集中しているのか計が静かになったので、俺も鞄から文庫本を取り出し栞を挟んだ箇所から読み始めた。
教室での読書が日課になっていたからだろうか、室内のふとした違いに不思議と気がつく。
緩やかに流れるピアノと楽器の調べは程よく人の話を遮らず、陶器同士が当たる音とセッションしているように店内全体の音が調和している。
天井から指す暖かな光を反射した黒文字はいつもより俺の目に優しく馴染んで、ページの進みを少し速めてくれる。
些細な違いが、俺にはとても心地よく感じられた。
料理を待つ間、俺は静寂とも違う穏やかな時間を過ごすことができた。
そして、文庫本を読み始めて4~5分程でトレーを持った店員がやってきた。
「お待たせ致しました。こちらピザトーストと、トーストと、トッピングになります」
滞りのない所作でお皿が並べられていく。トーストからほんのりと上り立つ湯気が食欲を誘った。
「あ、はい。ありがとうございます」
この時、俺と計の返事が遅れてしまったのも無理は無い。
女性店員はくすりと一笑に付し、当店のトーストはとても温かいので火傷に気を付けてお召し上がりくださいと説明すると静かに去っていった。
俺と計は目を合わせると互いに頷き、気まずい空気になる前にトーストを食べることにした。
トーストは少しの時間経過を経ても尚、薄らと湯気が立っており、熱い両端を持って引き割くと中からハッキリと目に見える湯気が現れた。
湯気と共に焼けたパンの香りが立ち上ってくる。
正直このまま齧りつきたい。が、衝動を我慢しトーストをもう半分に千切る。
そして、バターといちごジャムを塗っていく。
トーストは熱々でバターといちごジャムがじわりと溶けるように表面に吸い付く。
トッピングが完了するとトーストが冷めないよう迅速に、一も二もなく噛り付く。
サクッという音と共に口内に熱が広がった。
熱い。
トーストの厚さが親指ほどあった為、千切った後バターやジャムを塗ってもまだ熱い。
しかし、舌の上で溶けだしたバター、ジャムが口の中を香りで満たしてくれる。
確かにこれは、口の中を火傷しても食べたくなる味だ。
対面を見ると計が半切れにしたピザトーストを頬張って、笑みを浮かべていた。
多分、今俺と計は同じことを考えている。
『コレを熱々のうちに食べないのは勿体ない』と。
口の中が空になるとすぐさま俺と計は互いの皿を相手に流し、湯気の溢れ出すトーストを手に取り噛り付いた。
口の中の火傷が悪化したのは言うまでも無い。
しかし、俺達は満足だった。
帰り道、俺と計の会話は専らトーストのことについてだった。
確かにトーストは美味しかったが、ボリューム満点のピザトーストを下げてまで高校生にオススメする理由が分からなかったからだ。
これについて計はこう語った。
「これは個人的な見解なんだけど、僕が質問して回った人達が本当にオススメしたかった1品はトーストじゃなくてあの場所で得る『癒し』だったんじゃないかって思うんだ。だから本来評判の1品としてオススメしたいピザトーストではなく、同じ値段で2回来られるトーストを僕にオススメしたんだ!」
計は得意げに語っていたが、この話は俺の中でどうもしっくり来なかった。
それは『癒し』として来るなら尚更ボリュームがあって美味しいピザトーストを勧めるのではないかという考えが話の途中から浮かんでしまったからだろう。
しかし、隣で楽しそうに語る計に否定の言葉を出すことは俺にはできなかった。
結局、疑問について答えは出ないまま、計はバイトがあると慌てて着替えに家に帰っていった。
計の走り去る後ろ姿を見送りつつ、夕陽が伸ばす小さな影を眺めて満足感に浸っていると、何ともありえそうな仮説がひとつ頭の中に浮かんだ。
……もし、計が学校帰りではなくバイト帰りに話を聞いて回っていたとすれば。
制服じゃなくてバイト用のシャツで歩いてたとしたら、あいつは高校生にしては小柄で細身だし、説明されなければ塾帰りの中学生に見えてしまうかもしれない。
そう仮定すると、大人はそんな子に800円のピザトーストは勧めないかもしれない。
「いや、まさかな」
仮説は仮説。
最近、夕方から少し冷える。
計の言う通り、またあの店に行ってみてもいいかもしれない。
俺は、今にも日が落ちようとする帰り道へと影を伸ばしていく。
こうして、俺の発した独り言は誰に向かうでもなく、商店街の黄昏に飲み込まれていった。