第5話
さて。コーデリアがいなくなった庶務課では、ある人物の訪れがあった。
彼の訪れをいち早く察知した庶務課長ゴードンは慌てて席を立ち、入り口からゆっくり入ってくる男を出迎えた。
「ダンカン長官! 本日はいかがなさいましたか」
ダンカン長官は半年ほど前に中央から赴任してきた男だ。庶務課は彼の監督下にあるが、庶務課のような「雑務」を司る部署にこれまで顔を出してきたことはなかった。
「いや、例の分庁舎再建の件がどうなっているかと思ってね」
「はっ、分庁舎再建の……」
課長が思い至ったのは、とある建設工事の案件である。
一年前、辺境の分庁舎が、魔獣の襲来に伴う火災により焼失した。分庁舎はその地域の行政の中心だ。早急の再建が求められていた。
工事はすでに着工済みで、進捗に合わせ、数度の支払いが行われていた。ただ、庶務課で担当していた男が突然の病気で療養に入ったため、つい先日、別の者に引き継いだ案件である。
ゴードンも、ダンカン長官がこの工事に並々ならぬ関心を抱いていることは把握していたが、わざわざ直接、庶務課まで言いにくるとは予想していなかった。
「おい、今、書類はどこまで回っている?」
庶務課の面々は口々に顔を見合わせた。ひとりの男がやがて声を上げた。
「あ、わかりました。コーデリアのところにありました!」
「そうかね」
ゴードンはほっとした顔で一連の書類を受け取った。
「こちらにございました、長官」
長官は差し出された書類を見ることなく、「支払いが滞っていないか? 早く回せ」と言ってきた。
「しかしながらまだ担当が見ている段階ですので」
「ではその担当はどこにいる」
「しばらく休みですが」
「ならば次の者に回議しろ」
「は、はあ」
ゴードンは書類をぱらぱらとめくるが、支払期限まで間もあって、さして急ぎでもなさそうだった。
「もう一度、わかりやすくいったほうがよいかね?」
ぎろりと睨まれたゴードンは、「長い物には巻かれろ」精神で「いえ、他の者に回しておきましょう」と請け合った。
「ただ、こちらは元の部署に戻さなくてはならないですね」
「なんだと?」
「ご覧ください。図面がついておりません」
おおかた、書類の重ね方にも順序が決められている。ざっくばらんな性格の者であれば、並べ方の順序もばらばらになるが、コーデリアのような几帳面な者は見やすいように書類も整えて回議するのが常である。
ダンカン長官は、ちっ、と舌打ちをした。
「図面ならば、私の机に予備のものがある。それでもって回せ」
言い捨ててからダンカン長官は去っていった。彼の背中が消えると、庶務課にも緩和した空気が流れる。
ゴードンに釈然としない思いが残る。しかし、相手は長官だ。上から言われたのであれば、従うしかあるまい。
「すまないが、この書類の回議ではコーデリアは飛ばそう」
はいはい、というやる気のなさそうな返答があちこちから上がる。
国の行政を担うのならばともかく、地方の一機関に勤める官吏たちの士気もさして高いものではないのだろう。ダンカン長官にしても、中央からの左遷組だ。出勤時間もかなり遅く、仕事にもやる気がないと評判だった。
「あー、すみません」
コーデリアの隣席の官吏が声を上げた。
「もしかしたらその書類、コーデリアが今朝、うんうんと唸っていたやつかもしれないです。気になるところがあったみたいで」
「どこが気になるか、聞いたのか?」
「いえ、特には」
「それではわからないぞ」
「すみません」
男は肩をすくめた。
「だが、長官が早く支払えとおおせだ。……さっさと支払い処理を進めよう」
コーデリアの気になるところなど、たいしたことではないだろう。
ゴードンは気にせず、彼女から書類を取り上げることにしたのだった。
翌日のウォルシンガム邸の勝手口に、いつものように郵便配達人がやってきた。
「ほい、午前の郵便だ」
「……どうも」
たまたまその日に、ウォルシンガム卿宛ての郵便を受け取ったのは、ジョンという新米の使用人だった。寝ぼけ眼で、あくびをしていた。
「不機嫌だねえ、あんた」
「そりゃ、もう。旦那様の一件で、新聞社やら雑誌社やら、物見遊山の連中やらが蟻のようにやってきていてね。追い払うのも一苦労さ。昨日も変な女が旦那様に会いたいってしつこくて。そこにガプル公爵令嬢もやってきて、肝が冷えたな……」
「大変だねえ」
「そうそう。……なんだこれ、本当に旦那様宛てか?」
「ん? たしかに名前が書いてあるじゃないか」
ジョンは一通の手紙をしげしげと眺めた。シンプルなつくりの封筒に「ウォルシンガム卿クローヴィス様へ」と書いてあり、送り主は。
「……コーデリア? だれだ?」
「さあ? だがごくたまに届けているな。この『コーデリア』さんの手紙は」
長年出入りしている郵便配達人はこともなげに答えた。
「ま、じゃ、よろしく頼むよ」
「はいはい」
配達人が帰ってから、ジョンは再度、その手紙をしげしげと眺めた。
ジョンは今の邸に勤めるようになってから、何度か手紙の取次もしたことがあったが、このような手紙は見たことがない。
主人が普段やりとりしている貴族からの手紙とはとても思えない。
――だれだ、この女。
どこか最近、聞き覚えがあった気もしたが、忘れた。
ただガプル公爵令嬢がこれを目にしたら気分を害するに違いない。仮にこの女と主人に『個人的な付き合い』があったとしても、邸の平穏を守るためには関係を切らせたほうがよいだろう。
ジョンは封筒に手をかけた。びり、と破る音が聞こえようとしたタイミングで。
「ジョン! ジョン!」
執事が自分を呼ぶ声がした。そうだ、ぼうっとしている暇はない。今日も邸前に集まった野次馬を蹴散らす仕事が待っている。
「すぐに行きますよ!」
ジョンは一瞬、例の手紙の扱いに困ったが、とっさに近くのごみ箱につっこんだ。他の手紙はしっかり手に持った。
これでウォルシンガム卿とガプル公爵令嬢の関係も円満なものになるだろう。
彼は自分の「仕事」に誇りを持った。
駆け足で階段を駆け上がりながら、今日の予定を思い出す。
――今日はたしか、サリー伯爵家での御予定が入っていたな。