第3話
今も鮮やかに胸に蘇る思い出がある。
まだ結婚する前。学院を卒業するタイミングであったパーティーで。
黄昏のバルコニーに、彼女はひっそりと佇んでいた。
あまりにも心細げな横顔がつい気になって、そっと声をかけた。
『コーデリアさん』
『エミーリアさま……?』
彼女にとって、エミーリアが現われたのが意外だったのだろう。目を丸くしている。
『パートナーはどうされましたの? 約束された方がいたと伺っていましたが……?』
パーティーはパートナー同伴が普通だ。地方出で、身分も高くない彼女には、パートナーの伝手が少ないだろうと心配していたのだが、本人からすでにパートナーは決まっていると聞いていた。
『彼、来られなくなったんです。緊急の案件ができたようで』
『それは残念でしたわね。せっかくの卒業を祝っていただける機会でしたのに』
仕方ありません、と彼女が儚げに微笑んだ。それは普段のしっかり者で、優等生としての顔ではなくて……。
彼女が初めて自分に弱いところを少しさらけだした時だった。
がたん、と馬車が大きく揺れたタイミングで、バーガンディ子爵夫人は我に返った。
何年も会っていない友人のことを、前触れもなく思い出していたのだ。
――コーデリア……。不思議なこともあるものね。
彼女は座席に座り直して、ほっと息をつく。
夫の実家のご機嫌伺いから帰る途中だった。
もはや彼女はあのころのような未婚の乙女ではなくなっている。
家同士の繋がりのために結婚をし、今やバーガンディ子爵夫人と呼ばれる立場だ。
『早く子どもを』
先ほども夫の実家でかけられた言葉が耳に蘇り、暗澹たる気分になる。
――望めばできるというものでもないでしょう。
本音を腹の奥に隠し、にこにこと作り笑顔でやり過ごしていた。
気が滅入る出来事があったからこそ、過去に思いを馳せるのかもしれなかった。
馬車に揺られるうち、屋敷前についた。御者が飛び降り、門を開けている。
景色をぼんやり眺めていた彼女が、ふと視線を移し、遠ざかる後ろ姿を見たのは偶然だった。
卒業から一度も会っていないけれど。手紙も間遠だけど。あれは。
確かめなくては。呼び止めなくては。そう思ったら体が動いていた。
「お待ちになって……! 待って!」
馬車から呼びかけただけでは足りるはずもなく。
もどかしい気持ちで、馬車のステップから飛び降りる。
「奥さま!?」
ヒールを履いた足裏にじんと痛みが走るも、構わなかった。靴を脱ぐ。御者の呼びかけにも答える余裕すらなかった。
子爵夫人はドレスのスカートを雑に持ち上げ、息を切らしながら走る。裸足で野を駆ける少女のように、自由に。
彼女が曲がり角に差し掛かった瞬間、夫人は今までの人生で初めて、声帯が焼きつくばかりの大声を上げた。
「ね、ねぇ! お待ちになって……! コーデリア! あなた、コーデリアさんでなくって!?」
その呼びかけに、やっと友人は振り向いたのだった。どこか呆然とした表情で。
「エミーリア、さま……?」
彼女がそう名前を口にすれば、時が巻き戻ったかのような錯覚に陥った。
エミーリア。そう、それが彼女の名前だった。『バーガンディ子爵夫人』でも『奥様』でもない。
エミーリアは、立ち止まった友人に駆け寄り、きつく抱きしめた。
「コーデリアさん! お会いしたかったわ、ずっとずっと! 待っていましたのよ!」
友人と再会する前のコーデリアは、温かな家から放り出された子どものような気持ちだった。
彼女は当てもなく街を歩いていた。
――クローヴィスが結婚する。
やめて、と叫べたらどんなによいだろう。しかし、彼女は、彼を止められる立場にすらない。昔も、今も。
細く長く続いただけの縁。それも「死」の匂いすら帯びている。コーデリアとクローヴィスを繋いだ唯一の人がいなくなった時から。
――それでも、あなたが来てくれるたび、私はうれしかった。
彼が訪れる晩だけは、コーデリアは何としてでも定時に帰った。彼のために精一杯の御馳走をつくり、ともに食卓を囲み、そして。
ただ、これもまた良い機会なのだろう。クローヴィスは昔のしがらみを忘れ、幸せになるべき時なのだ。彼が一番愛する人と一緒に。コーデリアはクローヴィスを手放すべきだ。
本当は対面で告げるべきだろうが、もうそれも許されないだろう。彼の邸前での扱いを想えば、そう考えるのが妥当だ。
それならせめて。
「手紙を、書こう……」
彼女は気力を奮い立たせて、文房具屋を探した。シンプルな便箋と封筒を買ってくる。
近くのカフェに入り、テーブルに便箋を広げ、自前の万年筆を出す。
『卒業祝いだ。……コーデリアも仕事で使うだろう?』
金のペン先を持つ万年筆は、書き心地もよくてお気に入りだった。これもまた、クローヴィスの贈り物だったことを思い出す。
そっと万年筆をひと撫でし、空を仰ぐ。涙が出てこないことを確認した彼女は、今度こそしっかりと万年筆を持った。
――クローヴィス様。……。
何回か書き損じもしたが、簡潔に別れの挨拶を書くことができた。
彼女は丹念に内容を読み返した後、封筒に便箋を納め、郵便局へ出しに行く。
午後の配達は終わっていると聞くから、本人の手元に渡るのは明日以降だろう。
手紙を渡し終えたことで、コーデリアはようやく人心地ついた。
腕時計を確認すると、日暮れまではあと少し時間がある。
ふと自分のいる通りを確認すると、学院時代の知人が住んでいる近くまで来ていた。
知人は高位貴族の出で、美人で成績優秀だった。彼女の傍には取り巻きが大勢いたから在学中も親しく話していたわけではなかったが、今でも時たま手紙のやりとりがある。
王都に来たらぜひ寄ってほしい、とも言われていた。
――とはいえ、さすがに約束もしないで会いに行くのも失礼よね……。
社交辞令をまともに受け取るべきではないと思う。
手紙で聞いていた屋敷の前まで行ってみたものの、鉄の門扉と奥にそびえる大きな邸がそこにあった。案の定の敷居の高さに気後れする。
平民の出のコーデリアは、友人としても彼女に釣り合わない。
また、先ほどの使用人のように追い返されるのがオチだろう。尻餅をつかされて、目の前を、こちらを一瞥もしない貴婦人が通り過ぎて……。
わかっていてもなお来てしまったのは、未練に違いなかった。
――それに話を聞いてほしかったのかもしれない。
コーデリアの身体は鉛のように重くなっていた。話を聞いてもらえそうな相手が、彼女しか思いつかなかったのだ。
しばらく門扉の前に立っていたコーデリアだが、邸の者の出入りもなく、声をかけてくる者もいなかった。
「……帰ろう」
ぽつりと呟く。
今晩は泊まって、ひとつだけ用事を済ませてから、家に帰るのだ。そのために、暗くなる前に宿を探す必要があった。
踵を返して、あてもなく歩き出すうち、
「ね、ねぇ! お待ちになって……!」
そんな声とともに、彼女を追ってくる足音があった。
「コーデリア! あなた、コーデリアさんでなくって!?」
「エミーリア、さま……?」
眼前で、ドレスをたくしあげ、息を上げている女性は、彼女が訪ねようとしていた知人だった。
彼女は、コーデリアが名前を呼ぶと、くしゃりと顔を歪めた。
学院時代、これほど生き生きとした人間らしい表情を見せたことがあっただろうか。
「コーデリアさん!」
エミーリアが飛びつくように彼女を抱きしめた。息ができないほど強く。
「お会いしたかったわ、ずっとずっと! 待っていましたのよ!」
『待っていた』。
コーデリアの胸が燃えるように熱くなった。
「ありがとう、ございます、エミーリア様……」
コーデリアもエミーリアを抱きしめ返した。
「お会いできて、よかった」