後日談 膝枕
静かな夜だった。
かりかり、と己の動かす万年筆の音がこだましている中、書斎の扉を叩く者がいる。
「だれだ?」
「コーデリアです」
「今開けるからちょっと待て」
クローヴィスが扉を開けると、トレーを持ったコーデリアが立っている。肩掛けを羽織って、寝る前の服装になっていた。
トレーの上には湯気の出ているカップが二つ。
「ホットミルクです。休憩にいかがですか?」
「いただこう」
クローヴィスは即答した。
二人はローテーブルの前のソファーに並んで座る。
クローヴィスがカップを手に取ると、コーデリアは安堵の表情をした。
「どうかしたか?」
「もしかしたら言葉ばかりで休憩してくれないかもしれないと思っていたから」
「そんなことはないが……」
そう言いながらも、たしかに以前はカップが冷めるのも気にせず仕事に没頭していたと思い直す。
「ほら」
コーデリアは我が意を得たりと微笑んだ。
「あと、カーソンからも伝言を預かっています。『もうそろそろお休みになってはいかがでしょうか』と」
「なるほど」
自分の言葉では言うことを聞かないだろうから、たまたま王都にきているコーデリアを使者に立てたわけである。執事の彼はクローヴィスの操縦方法をよく心得ているのだ。
「だが仕事の方はもう一踏ん張りしなければならないからな……」
宰相の職務の引継ぎにも段取りがある。後任につつがなく仕事をしてもらうためにやっておかなければならないことが多いのだ。
「せっかく君がこちらに来ているのにあまり相手をしてやれなくてすまない」
「構いません。昼間にレモンケーキを食べに連れていってくださったではないですか。十分すぎるくらいです」
彼女も官吏として日々多忙な業務に追われているせいか、かえってクローヴィスを気遣ってくれるのがありがたかった。
「ただクローヴィス……あなたは疲れているわ」
コーデリアは飲みかけのカップを置いて、クローヴィスの顔を覗き込む。
彼女の人差し指が、クローヴィスの眉間にそっと触れる。いつものように眉間に皺が寄っていると言いたいのだろう。そう思っていたのだが、彼女は意外な言葉を口にした。
「膝枕しましょうか? 子守唄も歌うから」
――『よし、わかった。あんたは疲れてるんだ。膝枕してやろうか。子守唄もつけよう。これでも妹相手に散々やっているからうまいんだぜ』。
クローヴィスに、もう今は亡き男の面差しが閃いた。
兄妹そろって同じことを口にするのか。そう考えると愉快な気持ちになる。
「クローヴィス?」
不思議そうな顔をするコーデリアの髪に、クローヴィスは指を絡めた。
「それならお願いしようか」
コーデリアの手に導かれるようにクローヴィスの頭が彼女の膝の上にゆっくりと置かれた。
「あまり慣れていないのですが、大丈夫ですか?」
距離が近くなった恋人がクローヴィスの視界いっぱいに広がった。
――眼福だ。
少し甘い匂いに、後頭部に伝わるふっくらとした太ももの感触。
クローヴィスの知る「膝枕」とは違う。あれはとてつもなく固かった。
「昔、コンラッドにも一度だけ膝枕されたのを思い出したよ」
「コンラッドに?」
「よほど疲れた顔をしていたのだろう、急に膝枕してやると言って無理やりだ。しかも子守唄つき。妹の世話で慣れていると言っていた」
「まぁ……」
コーデリアは居心地が悪そうに身じろぎした。
「コンラッドは……実に雑な男だったな。私の執務室にあったソファを平気で仮眠ベッドの代わりにしていた」
「コンラッドらしいですよ。今から考えると、あの人はざっくばらんながらも上司から可愛がられそうなタイプでしたから」
「妹の君からはどう見えた?」
「私をいつも置いていってしまういじわるな兄ですよ」
コーデリアの瞳の奥にかすかなさみしさが滲む。
「軍に入ったらあまり帰ってこなかったですからね。幼い私はいつも兄の帰りを待っていた気がします」
「コーデリア……」
胸が締め付けられるような気持ちになる。
彼が呼べば、コーデリアはまっすぐクローヴィスを見返した。
流れるがままにどちらともなく口付けを交わした。かすかにミルクの味が混じる。
顔を離した後、コーデリアの目元は赤くなっていた。
「もし、コンラッドが私たちの関係を知ったらなんと言うだろうか」
コンラッドの話が出ると、かすかな罪悪感を覚えた。
コンラッドは友人だった。しかし、友人が、自分の妹と結ばれるのをどう思っているのか。
その答えをコーデリアの中に見出そうとするのはずるいだろうか。
コーデリアは目を細めた。
「笑っている気がしますよ」
「どうして笑う?」
「兄は、細かいことを気にしない人でしたし……最近、特にコンラッドの笑った顔を思い出すので、そう思うことにしているんです」
コーデリアにも心境の変化があったのだろう。
最近の彼女はいっそう柔らかな表情を浮かべるようになった。
――それは私も同じだろうな。
やっと手にできたかわいらしい恋人にすっかり骨抜きにされている。
たとえコンラッドが別れろと言ってきたとしても手放せそうにない。
コーデリアを部屋に送った後、仕事に戻ったクローヴィスはカップの残りを流し込む。それはもうすっかり冷たくなっていた。