最終話
事件の翌日、新聞にいくつかの記事が掲載された。
『復興式、白昼の襲撃。国王陛下は無事、死傷者もなし。犯人はその場で拘束』
『犯人は元軍人。狙いは‘冷血宰相’。動機解明が待たれる』
『国王陛下の緊急談話。「式中止は残念。しかし、いずれ必ず行く。国王は国民に寄り添おう」』
同日の新聞の隅の方には小さな訂正記事も載っていた。
『〇月×日、本紙掲載の記事"ウォルシンガム宰相、ついに結婚へ"は事実と異なる報道でした。ウォルシンガム宰相とガプル公爵令嬢にお詫びいたします』
さらにその翌日、新聞は大きな見出しでガプル公爵令嬢の婚約発表を報じていた。
『ガプル公爵令嬢、帝国皇室に輿入れ決まる。両国融和の象徴となるか』
『本人のコメント――「王族の末端にいる者として恥じない生き方を。誇りを胸に旅立ちます」』
『厳重に秘匿されてきた婚約劇の内幕――‘冷血宰相’の手腕光る』
そして今日の記事は――。
『王室脅迫犯、確保』
『式典襲撃――長官は操られるがまま宰相をおびき出す』
『ウォルシンガム宰相、近く退陣の意向示す。「権力は果実、腐る前に引く」』
ここ数日、多忙のあまりに日課の新聞チェックすらできていなかった男が興味を引かれた記事たちである。
「俺たちが一所懸命に働いていても、世間は容赦なく動いていくよなあ」
自分の席でぼやく。
目の前には大量の書類はあるものの、休憩中の今だけは忘れていたかった。
「ダンカン長官は不正工事の件で更迭されちまうし、報告を受けながら黙殺しようとした課長は謹慎中だし。例の事件の後始末はまだ終わらない。尻ぬぐいは俺たちの仕事だとさ。変だよなぁ、コーデリア」
隣席のコーデリアは、男が指し示した記事たちを熱心に読み耽っていた。とはいえ、今回は、突然の休暇を申し出ることなく、いつものように冷静さを保っている。
「仕方がありません。仕事ですから」
やがてコーデリアは広げていた新聞を畳みながらいう。
よく見れば、彼女の顔にも疲労がにじみ出ていた。
彼女は一度着替えをとりに自宅に帰って以来、ほとんど寝ていないはずだ。自分も似たようなものだが。
彼女には監察局からの聞き取り調査も来ていたようだ。
例のダンカン長官の件に、コーデリアが関わっていたともっぱらの評判である。
しかし、だれも彼女へ直接確かめる勇気はない。
冷たくあしらわれると知っていてもなお、たわいもない雑談を投げかけるのは、神経の図太さを自覚する男ぐらいのものだった。
「コーデリア、今日はもう帰ったらどうだ」
「どうしてですか」
彼女は目を丸くした。
「そろそろ定時じゃないか。……今日は十六日だろう? 毎月、何がなんでも早く帰っていたじゃないか」
「そうですけど」
珍しく、彼女の瞳がうろうろと彷徨う。男は肩を竦めた。
「我々は地方官吏だが、一方で人間でもある。山場は越えただろ? 俺たちだって休んでいいころだ。今日は任せろ。明日は子どもが寝る前に俺が早めに帰るさ。お互い様だろ?」
そう言っているうちに、定時の鐘が響いた。
同時に、窓際にいた官吏たちがざわざわしだした。
「今、敷地内に入ってきた男、見覚えがないか?」
「ん? あ、たしかにそうだな。喉まで出かかっている。おまえわかるか?」
「……わかった! 宰相閣下だよ! ウォルシンガム卿クローヴィス!」
庶務課が一気にざわつきだして、窓辺に人が張り付きだした。
男も興味を引かれ、首を伸ばした。
「へえ、宰相閣下がねえ……本物かな。どう思う、コーデリ、ア……あれ、どこいった?」
気づいたら、彼女の席は空になっていた。
廊下へ彼女は飛び出している。普段の彼女からしたら信じられないほどの大慌てぶりで。
――なんだなんだ。
不思議に思いつつも、同僚よりも宰相閣下らしき男の方が気になる。
男も窓辺でたむろする同僚たちの隙間から、顔をねじこみ、眼下を見下ろした。
‘冷血宰相’は先日見かけたのと同じいかめしい顔つきで建物へ歩いていた。だれが見ても、本物だとわかる威厳である。
そこへひとりの女性が正面玄関から飛び出した。コーデリアだ。
彼女はまっすぐに駆けていく。宰相閣下を目指して。
そして‘冷血宰相‘もまた、彼女を見つけて、足を早めた。
持っていたステッキさえ投げ捨てる。
両腕を広げた。
そこへためらわず飛び込むコーデリア。
堅く抱きしめ合うふたり。
だれがみても、遠く離れていた恋人同士の再会である。
男はぽりぽりとこめかみのあたりを掻いた。そして、同僚たちの肩をつぎつぎと叩く。
「俺たちは仕事に戻ろう。変にプライベートの時間を覗き見るものでもないさ」
たしかに、と口々に彼らは言いつつ、窓辺から離れていく。
だれにだって大切な人はいるし、共に過ごす時間が何よりもかけがえのないものだと――みんなが知っていた。
……コーデリアは、勢いでクローヴィスに抱きついた後、我に返って離れようとした。
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「いや、いい。私がそうしたかったんだ」
クローヴィスがコーデリアを離さなかった。
「今日は十六日だが、君はまだ仕事をしているだろうと思ったから、迎えに来た。……コーデリア、帰ろうか。待たせてしまって、すまなかった」
クローヴィスの手が、コーデリアの頬を滑っていく。
コーデリアの視界いっぱいに、クローヴィスがいた。
「クローヴィス……」
コーデリアの手が彼のそれに重なる。
「私、怖かったの……。私たち、月に一度逢っていたけれど、何かあっても、私から逢いにいくことができなくて。他人から見たら、私には何の権利もない……」
ウォルシンガム邸で追い払われた時も、ガプル公爵令嬢と邂逅し、引け目を感じた時も。
コーデリアは何度も打ちのめされていた。
しかし、それでも失えない気持ちがあった。
「だからね、クローヴィス――私に、あなたと一緒にいる権利をください」
小さな声が震える。心臓がどくどくと波打った。
「そんなものは」
クローヴィスはゆっくりと噛みしめるように続ける。
「とっくにあった。私が、うまく伝えられなかっただけで。……私は、コンラッドの代わりに君を見守っていけたらそれでよかった。だが、いつしか――それ以上に、君のことが……。君がいるところが、私の家になっていた」
「本当ですか……?」
「ああ、本当だ」
「もう、どこにも行きませんか? 一緒にいてくださいますか?」
「いる。私の残りの人生、ともにいたいと思うのは、君だけだ、コーデリア」
「うれしい……」
コーデリアはクローヴィスの胸に頭をこすりつけた。
「約束ですよ? 守ってくださいね」
「もちろん。……今度、指輪を贈ろう」
「指輪?」
クローヴィスを見上げると、彼の目が優しく細められていた。
「婚約指輪だ。その時、君の前にひざまずき、結婚を乞うことにする。君は、うけてくれるだろうか?」
「……受けるわ」
そうか、と彼はさらに相好を崩し、コーデリアの手を引いた。
「コーデリア、帰ろうか、家に」
「ええ、帰りましょう。我が家に」
手を繋ぐ。
遠ざかるふたつの影が伸びていく。
両親と兄が眠る丘の下に、コーデリアたちの家がある。
次話から少しだけ後日談等が続きます