第2話
職場を後にしたコーデリアは、帰宅してすぐに革のトランクに荷物を詰め込むと、二時間後には王都行きの飛竜に乗って、空の上にいた。
長距離移動のための飛竜便は高くつくが、馬よりもはるかに早く目的地に到着できるのだ。
飛竜の背に揺られて王都まで数時間。観光に出かけるのなら、この空の旅も心躍るものだっただろう。
『君も、王都に来てみるといい』
ふと耳の奥で、以前聞いた「彼」の声が蘇る。
『君の好きそうなレモンケーキを出してくれるパティスリーも多い。服がほしいなら流行の仕立て屋もいる。興味があるなら案内しよう』
『身の丈に合いませんし、気持ちだけで十分です』
彼女はそんな感じで言葉を濁したものだった。彼女には地元にいたい理由があったし、彼女が会いたい人は毎月王都から来てくれたから。
……目の奥がじんわりと熱を持ったので片手で乱暴にこする。
空の旅を終え、王都の駅亭に着いた。飛竜と別れて辻馬車を拾う。「ウォルシンガム宰相邸へ」と御者に告げる。
御者は黙って馬車を走らせた。
訪れた屋敷前には記者と思しき男たちがたむろっている。時々、屋敷の使用人が出てきて、彼らを追い払っているようだ。
コーデリアは記者たちが散ったタイミングで、使用人のひとりに話しかけた。
「ウォルシンガム宰相と面会したいのですが」
「はあ? だれだ、あんたは」
若い男の使用人は、あやしむ視線を隠しもしない。
「コーデリア、と申します。宰相閣下の……知人、です」
彼女は懸命に己を奮いたたせた。
「お話ししたいことがあり、参りました。宰相閣下にお取次ぎ願えないでしょうか?」
「ふう……ん?」
男は、コーデリアの頭の先から爪先までじっとりながめると、「はっ!」と鼻で笑った。
「なんだ、閣下のファンか。妄想はなはだしいぞ。おまえのような粗末な女と旦那様が知り合い? そんなわけないだろ」
「本当です。閣下に、私の名前をお伝えいただければわかると思います。コーデリアです。閣下とは毎月、お会いして……」
「失せろ失せろ!」
男は聞く耳持たず、コーデリアの肩をぐい、と押した。その拍子にコーデリアは石畳の上に尻餅をつく。
使用人の男は、彼女に唾を吐きかけ、顎でしゃくった。帰れ、ということだろう。
コーデリアが俯いていると、前方できい、と門扉が大きく開いて、馬の蹄の音が聞こえてきた。
「何をなさっているの?」
声だけで、場が華やいだ。声の主が馬車から降りて近づいてくる。
薄紫のドレスをまとう女性だった。袖飾りのレース、真珠のイヤリング、つやつやとした金の髪……。ぱっちりとした眼まで、うっとりするほど美しい。
「こ、これは、ガプル公爵令嬢!」
使用人の男が慌てて頭を下げた。
――とてもきれいな人。この方が、ガプル公爵令嬢……。
相手に見下ろされたコーデリアは、打ちのめされた。何もかもが彼女と違いすぎた。色白で、上品で、愛らしくて。
彼女と比べたら、コーデリアなど路傍の石だ。美しい宝石とは扱いが違う。
――そうよね。あの人が選んだ女性だから……。
「あら……? あなた、泣いているの?」
「いいえ、泣いていません」
コーデリアは目元を擦った。
「おかしなことをおっしゃるのね。……なにか事情があるのかしら?」
魅惑的なゼニスブルーの瞳からは、猫のような好奇心が垣間見えた。底にある、値踏みの色も。安易な誤魔化しなど効かないだろう。
実は、と言いかけた時、例の使用人がコーデリアを羽交いじめにした。
「あーだめだ、これ以上は俺が許さん。もう一言も口を聞くな、死ね! ……ご令嬢、失礼しました、この者、頭がおかしいのです、片付けておきますので、早くお行きになってください!」
「あら、そう。……ごめんあそばせ」
使用人の言葉で令嬢の目から好奇の色があっさり消えた。貴婦人がコーデリアの前を通り過ぎていく。彼女にとってコーデリアは道端の石ころになった。
使用人が高らかに叫ぶ。
「ご結婚おめでとうございます! 我々、宰相閣下の使用人一同、心からお祝いしとります!」
令嬢は微笑みを浮かべると使用人に先導されて再び馬車の人となった。
コーデリアは通行を邪魔しないように立ち上がり、門の脇にどく。背中で馬車が通り過ぎる音を聞きながら、スカートについた土埃を払う。
「クローヴィス、本当はね、私……」
呟きかけるも下唇を噛み締め、門向こうの屋敷を見上げた。しばらくそうしていたものの、結局は宰相邸前から去った。
同時刻。宰相邸の書斎にて、ウォルシンガム卿クローヴィスは眉間のシワをほぐしながらもう何十回目ともしれない自身の結婚記事を読んでいた。
執事が慌てた様子で入ってきた。
「今、使いの者が戻ってきたのですが、お会いできなかったそうです。急に仕事を早退し、どこかへ出かけたようです。おそらくは」
「この王都へ私を訪ねてくるか……使用人たちにも伝えておいてくれ」
「承知いたしました。……使用人の中にはあの方を知らない者もおります。入れ違いにならなければよいのですが」
「あぁ。必ず見つけて引き留めてほしい」
宰相は拳を額に当てて、大きく息を吐く。
――どうしてこのようなことに。コーデリア……。
彼らは、コーデリアがすでに屋敷前から立ち去ったことを知らなかった。