第16話
深夜にさしかかるころ、クローヴィスは書斎机で未決裁の書類に目を通していた。
終わったものには署名して、決裁済みの箱に入れていく。
――また、翠玉が啼き出すかもしれない。
慣れない場所に来ていることもあり、翠玉も神経質になっていた。
先ほども彼女の元に行き、慰めてきたばかりである。
翠玉は、煌びやかな宝石の視線で、ある方角に行きたいのだと訴えかけていた。
『……今回はコーデリアの家には行けないよ。我慢してくれ』
そう告げても、彼女は不満げに、びたん、と尻尾で地面を叩いていたから、ふたたび啼き出してもおかしくない。
今回どころか、次また会えるかもわからない。
復興式の出席者には彼女の名もあったが、遠目で見ることしか叶わないだろう。
だれも、コーデリアとの関係を知らない。
大手を振って会いに行けすらしない。
今回の件で傷ついただろう彼女に、何もしてやれない。
――コーデリア……。
彼女の手紙に滲んでいた別れの覚悟を思うと。
胸元からせりあがってきそうな気持ちを無理に押し込める。
それでも彼の眼前に「仕事」が積まれていく。
クローヴィスが再度、万年筆を手に取った時、外からノックの音が響いた。
遅い時間のため、書記官もすでに自室で休んでいた。彼は自ら歩いて、扉を開きに行く。
それは、意外な人物だった。
「失礼いたしますわ」
彼女はためらいもなくクローヴィスの横をすり抜け、中に入る。
緩やかなシルエットのドレスにショールを肩にまとわせた、くつろいだ服装だった。
「ご令嬢、このような夜更けにどうされましたか?」
「夜のお誘いに」
「ご冗談を」
「ええ、冗談ですわ」
ガプル公爵令嬢は、来客用のソファーを見つけて腰を下ろした。
「部屋の外に侍女を待たせておりますの。だからご心配には及びません」
クローヴィスの抱く懸念などお見通しの様子で高貴な令嬢は微笑んでいる。
彼は令嬢の正面のソファーに腰かけた。
「あなたがこのような行動を取られるのは珍しい。お話なら伺いますが」
「ありがたいわ。その前に、何か飲み物をくださる?」
「あいにく水しかありませんが、それでも?」
「構いませんことよ」
ふたりの間に、クローヴィスが入れた水のグラスがふたつ置かれる。
公爵令嬢はそのひとつに口をつけてから、ドレスの隠しポケットから四つ折りの紙を取り出した。
「わたくしにも様々な交友関係がございますの。……そのうち、ある情報筋から明日の復興式について不穏な動きがあると耳にしまして。すぐに閣下にお伝えしなければと思った次第ですわ」
自信満々な笑みを浮かべたガプル公爵令嬢は驚くべき話をしはじめた。
「国王の暗殺計画があるかもしれない、と」
「ええ、こちらの紙にある住所に行けば、痕跡が残っておりますのですぐにわかりますわ」
公爵令嬢からメモの紙を受け取ったクローヴィスの息は止まりかけた。
「いかがでしょうか。わたくし、宰相閣下のお役に立ちまして?」
「……ええ、もちろんですとも。すぐに警備計画を見直させましょう」
「よかったですわ」
「一体、これはどこから調べられたのですか?」
「ふふ、内緒ですわ」
ガプル公爵令嬢は人差し指を自らの口元に当てた。
「女にも秘密はあるもの。ただ、宰相閣下のお役に立ちたいだけのけなげな女心ですわ」
「そうですか。感謝いたします」
「つれない方ね」
「本命でもないのに気をもたせてもかわいそうでしょう」
ガプル公爵令嬢の頬が一瞬、強張った。
クローヴィスは住所が書かれたメモにある字をそっと撫でた。
「我々はただ与えられた役割をこなしているだけです。……ご令嬢、何か隠していることはございませんか」
わずかな沈黙が落ちた。
「ありませんわ」
いつもどおり、魅惑的な微笑みを浮かべるガプル公爵令嬢。ゼニスブルーの瞳がきらめく。
「隠していることがあるならば、あなたへの恋心ぐらいのものですわ」
彼女はそう言い捨てて、自室に戻っていった。
部屋の前で見送ったクローヴィスは一度室内に戻ると、グラスに残った水を一気に煽り、手の中に残るメモを見つめた。
そのメモの筆跡は、クローヴィスにとって見覚えのあるものだ。
どういう経緯で、彼女がこの事実を知り、どうやってメモがガプル公爵令嬢の手に渡ったのかわからない。
しかし、彼女も自分の場所で懸命に「やるべきこと」を進めていたのだ。
――まだ、私たちは同じ道の上にいる。そうだな、コーデリア?
愛しい人から意図しない励ましをもらった。その幸せを噛みしめて、クローヴィスはメモを丁寧に折り畳み、胸ポケットに入れた。
きびきびとした足取りですぐ部屋を出た。
時刻は深夜であるが、警備の者をはじめ、寝ていない者もいる。明日には国王陛下も現地に到着する。復興式は、明日の昼間だ。
とにかく、対応を協議しなければならない。
彼はこの晩、一睡もしなかった。
コーデリアがようやく自宅に帰ってこられたのは、夜半過ぎだった。
居間に寝室、台所に物置、小さな井戸。
両親から受け継いだ家はたいして広いものではない。
辺りは牧草地で開けていて、近くに小さな教会があって、両親と兄がいる墓地も歩いてすぐだ。
毎日、家と職場の往復をこなし、休日には必要な買い物をする。コーデリアを取り巻くささやかな日常だった。
コーデリアは革のトランクケースを床に置いた。
――あとは、早朝に郵便局へ行って、アロンに手紙を……。
手元のランプを引き寄せて、万年筆を手に取る。
最後、これだけは。気力を振り絞って手紙を書く。
連日、多くのことがありすぎて、睡眠不足に陥っていた。泥のように眠りたかった。
――ラヴィニア様は書類を渡してくださったかしら……。
一縷の望みをかけて、コーデリアはガプル公爵令嬢に経緯をまとめたメモを渡していた。
『私が作成したものとお伝えいただかなくとも結構です。今は官吏としてお話ししていますので、このメモをもとにしかるべき対処をしていただけたなら問題ございません』
『本当に、それでもよいと?』
『はい』
面会できたのはわずかな時間だ。それでガプル公爵令嬢という人物を理解できたとは思わない。アロンへの手紙は言わば、クローヴィスに情報が渡らなかった時の『保険』のひとつだ。
明日はコーデリアも式典に出席する。その時点に至ってだれも対策をしていなくとも、出席者でもあるコーデリア自身が警備の者に注意を促せるかもしれない。
――もう二度と、言葉を交わせないとしても。私はあなたの役に立っているでしょう?
学院時代と、官吏時代。あまりにも遠すぎる人を好きになり、懸命に追いかけた。
彼は結局、コーデリアを選んでくれなかったけれど、その過程で得られた力で、クローヴィスの手助けができる。それはなんて幸福な結末なのだろう。
手紙の末尾に「コーデリア」と震える文字で綴った。
――幸せな恋をさせてくれてありがとう。……さようなら、クローヴィス。
目を瞑れば、涙が一粒、ぽたりとテーブルに落ちた。
コーデリアにはこの先の記憶がない。
「コーデリア? ……寝てしまったのか」
「いろいろと奔走して疲れているのに、監察局への通報の手紙まで……」
「もう少ししたら、君のところに帰ってこられるから」
「待っていてくれ、と頼んでもよいだろうか……?」