4 慎吾の生い立ち
4 慎吾の生い立ち
最近は、ライブの常連客も増え、投げ銭も多くなった。一日に最高15,320円にも達した日があった。たった15,320円と小ばかにする人がいるかもしれないけど、ぼくの路上ライブは夕方の5時半から6時までのたった30分間だけだ。30分で15,320円は凄いだろう。でも、この時はたまたま1万円札を入れてくれた人がいたんだ。もちろんこれまで1万円札を入れてくれるような人がいなかったから、こんなに収入があったことはない。
一万円札に気づいた時、ぼくは慌ててその女性を呼び止めようとしたけど、見失ってしまった。あれは大金持ちそうな身なりの良い中年の女性だった。たとえ大金持ちだって、千円札と間違えて一万円札を入れてくれたとしたら、申し訳ないだろう。今度その人に会ったら、一万円札を返そうと思っているんだ。美由はもらっておけば良いと言ってるけど、ぼくは美由ほど肝っ玉が太くないんだ。
投げ銭の一日の総額は普通千円から五千円といったところじゃないかな。硬貨ばかりでこれだけ稼ぐって凄いと思わないか? 百円玉ばかりじゃなく、五十円玉や十円玉、五円玉まで混じっているんだぜ。時には財布の中の小銭全部を入れる人がいて、一円玉まで入っているんだ。一円玉だって立派なお金だよ。感謝しなくっちゃあね。
投げ銭は硬貨が多いから、最近、美由が投げ銭用の丈夫な巾着袋を作ってくれたんだ。空缶に口を広げた巾着袋を入れて、ライブが終わってから缶からその袋を引き出して、口を紐で結わえるんだ。その場では勘定しないけど、重量でその日の投げ銭の額が推定できるんだ。ずっしりと重い時が、これまた嬉しいんだ。いやらしいかな? 少しいやらしいよね。
30分で千円なら時給にしたら二千円になるだろう。下手なバイトよりこっちの方が分がいいよね。
それなら、ファミレスのバイトをやめて、路上ライブを毎日やったらいいんじゃないかと思うだろう。でも、屋根のあるところでライブしているわけじゃないからね。雨が降ったらどうするんだよ? 音楽はあくまで趣味なんだから、ファミレスのバイトとそれプラス、スポットでウーバーイーツの配達の仕事を入れた方が、気が楽でいいんだ。なんてったって、決まった金が入ってくるからね。それにさ、お金目当てに歌ったら、観客に媚びるようになってしまわないかと心配するんだよね。考え過ぎかも知れないけどさ・・・。
「プロにならないんですか」、って訊かれることはあっても、スカウトされたことはないよ。アイドルじゃあるまいし。たとえプロになれるとしても、プロになる気はさらさらないけどね。
プロにならないなら、よりによって就活に忙しいこの時期に、どうして路上ライブなんか始めたのかって? 大学時代の思い出作りだよ。就職したら路上ライブなんてできないだろう。たしかにもっと早く始めておけばよかったんだけど、おばあちゃんの世話でずっとあたふたしていたからね。やっとおばあちゃんの世話の方も落ち着いてきたから、路上ライブを始める余裕ができたんだ。
これから就職活動に本腰を入れないといけないと思っているんだ。あと数日で4年生になるからね。この時点で就職活動をしていないということは、完全に出遅れているからね。みんなは、去年の12月頃には企業研究とか言って、会社訪問を初めていたからね。すでに内々定をもらっている同級生もいるしさ。そんな話を聞くと少し焦ってくるんだけど、バイトが忙しくて就職活動がままならなかったんだ。これでも一応苦学生なんだ。
就職はできるだけ大きな会社で、安定したところがいいんだ。地味なサラリーマンがいいんだよ。音楽関係の会社に入る気はさらさらないよ。あくまで堅実なところがいいんだ。社会人になったら歌はカラオケボックスで歌えばいいだろう。たまに路上ライブを開いてもいいかな? それともサラリーマンは会社の規則でそうしたことが禁止されているのかな? 面接の場で、休日に路上で歌うのは許されますか、って訊くのもおかしいだろう。就業規則を破ってまで歌いたいとは思っていないけどね。とにかく就職して今借りている奨学金を返していかなければならないしね。
きみも知っているように、ぼくの家は決して裕福な家ではないんだ。ぼくはおばあちゃんと二人で暮らしている。ぼくが小学校に上がる前、お母さんが癌で亡くなって、それから母の母であるおばあちゃんと二人で、今のおんぼろの家に暮らしているんだ。
おんぼろとは言っても、自宅があるって良いよね。食べる物がなくても、路頭に迷うことがないんだもん。もし自宅がなくて金がなかったら、アパートにも住めないだろう。我家は貧乏だったから、食べる物を買う金も事欠くことがあったよ。ぼくにだけパンを買ってくれて、おばあちゃんは何も食べない日があったことを覚えているもの。ぼくが小学校に入学する前のことだよ。お母さんの葬式代にお金がかかったんだよ、きっと。そう言えば、葬式って、したっけ? 火葬だけじゃなかったかな。その火葬に誰も来た記憶がないけどね。おばあちゃんとぼくの二人でお母さんを見送ったんだ、きっと。
残念なことに、お母さんが生きていた頃の記憶はまったくないよ。我家の箪笥の上に、小さな写真が入った額が立てかけてあるんだ。写真には、ぼくとお母さんとおばあちゃんの3人が写っているんだ。その写真を時々見ているから、お母さんの顔は、その写真を通して、ぼくの頭の中に刷り込まれているんだけどね。おばあちゃんが言うには、お母さんはとっても優しい人だったんだって。写真の顔を見ると、癌でやせ細っているけれど、優しい人だというのは、一目瞭然だよ。写真の中のお母さんはいつもにっこりとほほ笑んでいるものね。お母さんはおばあちゃんに「慎吾のこと、くれぐれもよろしくお願いします」と言って亡くなったんだって。おばあちゃんは「心配しないで。私が立派に育てるから」と約束したそうだよ。その約束をおばあちゃんはずっと守ってきたんだ。
お父さんのことはまったく知らない。お父さんはぼくが生まれてまもなくして、お母さんと出て行ったらしいんだ。お母さんが亡くなった時も家に来なかったんじゃないかな。会った記憶がないもの。もしかしたら、おばあちゃんが、お母さんが死んだことをお父さんに知らせなかったのかもしれない。
家の中にはお父さんが写った写真が一枚も残っていない。表に飾られていないだけじゃなくて、押入れの中のアルバムにも一枚も残されていない。多分、お母さんかあるいはおばあちゃんによって、お父さんの写真は全部捨てられたんじゃないかな。ぼくたちを捨てて出て行ったお父さんによっぽど腹を立てているのか、ぼくにお父さんの存在を教えたくなかったのかもしれない。ぼくはお父さんと会ったことはないし、おばあちゃんの前でお父さんのことを話題にすることもなかったんだよ。
ぼくが小さかった頃、おばあちゃんにお父さんのことを訊いて、えらく叱られたことが、かすかな記憶として残っているんだ。それからぼくはお父さんの話題に触れることをしなくなったんだ。お父さんに触れることは我家のタブーなんだよ。今では、お父さんのことを考えることもないし、お父さんがいなくても寂しいと思ったことはないよ。
おばあちゃんは本当に優しい人だ。おばあちゃん一人でぼくを育ててくれたんだ。おばあちゃんは、ぼくの母親と言ってもいい存在だ。家があったから、住むところにはずっと困らなかったけど、それでも食べる物や着る物や学校の体操服や修学旅行代がいるから、幼かったぼくから見てもおばあちゃんはよく働いたよ。おばあちゃんはスーパーマーケットの床やトイレの掃除をして、時々道路の交通整理をして、真っ黒になりながらぼくを育ててくれたからね。小さくて細い体なのにね。おばあちゃんは自分の趣味や楽しみが何もなかったんじゃないかな。ぼくを育てることだけに全精力を傾けてくれた。そのことは子供心にもよくわかっていたよ。
おばあちゃんは風邪で熱を出しても、働きに行った。ぼくが「休んだら」と言っても、休むことはなかった。本当に働き者のおばあちゃんだ。
ぼくが小学生の時は、授業が終わって帰宅すると、テーブルの上にパンかおにぎりが乗っていて、それを食べていたんだ。わびしくなんかないさ。どこの家もそんなもんだと思っていたからね。
小学4年生になってからは、掃除や洗濯はもちろんのこと、家計を助けるために新聞配達を始めたんだ。新聞配達は大学生になった今でも続けているんだ。キャリアは今では10年になるから、新聞配達はプロだね。
高校生になってからは、放課後や土・日にコンビニでバイトをするようになった。主な目的は家計を助けるためだったけど、正直に言うと、友だちと遊ぶ金も少しは必要だったからね。
高校1年の夏休みに入る前に、友だちと二人で岡林信康のコンサートに行った。新聞屋のおばさんにチケットを2枚もらったんだ。昔、岡林はフォークの神様って呼ばれていたそうなんだけど、友だちもぼくも岡林信康なんて知らなかったものね。会場は近くの小学校の体育館で、観客は床に座って聴いたんだ。これが、ぼくが生まれて初めて聴きに行ったコンサートだったのさ。
でも、ぼくはおったまげたよ。ギター一本で自分の考える世界を歌う岡林の姿に衝撃を受けたんだ。自由な表現ということを始めて知ったんだ。ぼくは高校一年生の夏休みに必死でバイトをして、安い中古のギターを買って、すぐに作詞作曲をするようになった。いつも真っ先におばあちゃんに作詞作曲した歌を聴いてもらったんだけど、おばあちゃんはいつも褒めてくれた。
ぼくは高校を卒業したらそのまま就職をしようと思ったんだけど、おばあちゃんとぼくと担任の三者面談で、先生が大学に行った方がいいと強く勧めるので、進学校で中の上の成績だったぼくに、おばあちゃんも大学に行くように言ってくれた。先生が言うには、自宅通学ならば奨学金を借りればお金のことは心配いらないとのことだった。こうしてぼくは大学に進学することになったんだ。
つづく