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沙羅の木坂の家  作者: 美祢林太郎
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3 シャネルスーツの女

3 シャネルスーツの女


 夕方の5時になった頃から、駅前のペデストリアルデッキの一角にたむろしている女子高生やOLがいる。場所取りをしているかのようで、その場所から一向に動こうとしない。そこにいる女性たちは、互いに言葉を交わすことなく、逆に互いを牽制しているかのようであり、互いに敵愾心を持っているかのようにさえ見える。

 彼女たちは、自作のアクセサリーの展示販売をしたり、ダンスパフォーマンスをするために場所取りをしているわけではない。彼女たちはみんな、この場所に決まった時間になると現れる人のために、自発的に場所取りをしているのだった。その人の登場をひたすら待ちわびながら、自分の中に閉じ籠って、下を向いて無意味にスマホをいじくっていた。

 その人が今日も二人連れで現れた。お目当ては美男美女のカップルの男の方だ。待っていた女性たちの視線が、瞬時に男に集中するのが、他の通行人たちにもわかった。一種異様なのだ。

 彼女たちが密かに守っていた場所を、道を開けるようにして、黙って男に譲った。若者がギターを担いでいるので、この場所で路上ライブを開催するのだろうということは、通行人たちにもわかった。手慣れたように若者は一人で準備を始めた。準備といっても、譜面台を設置し、ギターをケースから取り出し、空缶を置いて、椅子に座ってチューニングをするくらいだ。

 連れの女性は、いつものように、定位置である彼の斜め後ろの方に目立たないように立って腕を組んだ。目立たないと言っても、その美しい容姿から十分に目立っている。

 ペデストリアルデッキの中央に立つ銀色の時計塔の針が5時半を指した。それを合図に、若者の第一声が薄暗くなった空に、駆け抜けていった。今日は、いつもと違ってロック調の曲で始まった。

 かれが歌い出すのを待っていた人たちが、20人近くいた。常連がほとんどだ。歌い出すと同時に盛大な拍手が起こった。その拍手と彼の歌声で、何人もの人たちが歩く足を止めて、聴衆の輪の中に入って来た。今日の歌はのりがいい。

 若者の歌声に一人の女性が足を止めて、その歌声に聴き入った。高級なスーツを上手に着こなし、バリバリのキャリアウーマンを彷彿とさせる中年女性だ。路上ライブの聴衆には、これまでも会社勤めの女性はたくさんいたが、こんな高級な身なりをした巨大企業の幹部のような、社会的地位の高そうな女性が彼の歌を聴いてくるのは初めてだった。彼女のような女性は、オペラハウスでモーツァルトのオペラを観たり、ベルリンフィルによるベートーベンの交響曲を聴いたり、歌舞伎座で歌舞伎を観ているのが似合っているはずだ。そんな格式高い女性が、路上で名もない男の歌を立ち止まって真剣に聴いている。居合わせた人たちは、彼女の存在に誰もが同じような違和感を抱いているようで、聴く態度もいつもとは違って、どこか落ち着きがなくなってしまったように感じられる。

 彼女は、一曲目の途中からもっとも後で立ったまま聴き始め、それから最後の曲を聴き終わるまで、ずっと表情を崩さずに真剣に聴いていた。

 彼女は、朱美が百円玉を空缶に入れた後に、ルイビトンの財布から一万円札を出し、膝を折って誰にも見られないように、そっと缶の中に入れた。立ち上がって、ちらっと若者の恋人を見た。恋人が彼女に微笑んだように見えた。ハイヒールを履いた女は、その場を立ち去った。

 彼が少し遅れて缶の中のお金を確かめて、そこに一万円札が入っていることに驚いた。一万円が入っていたのは、初めてのことだったのだ。彼はあの高級な服を着た中年女性が、千円札と間違えて一万円札を入れたのだろうと推測して、彼女に一万円札を返そうと思って辺りを見回したが、彼女はすでにどこかに消えてしまっていた。

 コンサートが終わって、唐木は恋人と二人で道すがら話をした。

「きっと千円札と一万円札を間違えたんだよ」

「そうだね。いくらなんでも一万円はちょっと気前が良すぎるものね」

「だろう」

「でも、あのとびきり金持ちそうな女性でしょ。超高級な服を着ていたわよね。あれ、きっとシャネルスーツよ。間違いなく、上下で200万円以上はするんじゃないかしら」

「あの服が200万円? 200万円の服を着て歩くの? コーヒーなんか零して汚れたらどうするんだよ」

「やっぱり慎ちゃんは貧乏性ね」

「貧乏性じゃなくって、貧乏なの」

「世の中には、200万円の服が汚れても全然気にしない人種が、ゴロゴロいるのよ。あのパンプスにしたって、クリスチャンルブタンよ。20万円以上するわね」

「なに、そのパンプスって」

「女性用の靴のことよ。スーツもパンプスも、今年のトレンドじゃないけどね。大切に使っているのね」

「そんな高級な衣装を身に付けてても、銀座のママのようには見えなかったけどね」

「慎ちゃんも、しっかり見てたんだ。でも、銀座のママを知っているの?」

「知らないけどさ、テレビで見る銀座のママのイメージとは違うなって思って」

「水商売の人じゃないでしょう。高級ブランドの服を着る人がみんな銀座のママとは限らないわよ。きっとどこかの会社の経営者か、大企業の幹部ってところじゃないかしら。どちらにしても上級国民ね」

「それじゃあ、今頃は高級レストランでフランス料理を食べているのかな」

「そうね。三ツ星レストランでね。それとも赤坂の料亭で国会議員と会食しているかもしれないわよ」

「ぼくたちとは住む世界が違う人だね。ああ、ぼくたちって言っちゃったけど、美由の家族と彼女とは住む世界が同じか。美由だって本当はあっち側の人間だし」

「あっち側なんて言わないでよ。聞く人が聞いたら、反社の人間に思っちゃうじゃない」

「ごめん、ごめん」

「でも、パリの三ツ星レストランでフランス料理を食べてワインを飲んだことはあるかな」

「さすがだね」

「だから、そんな大金持ちだったら、一万円の投げ銭ってありうるかもしれないわよ。よっぽど慎ちゃんの歌を気に入ったのよ」

「そうかな。大金持ちだったら、世界の超一流のアーティストのコンサートにも特等席で聴いているんだろう? ぼくの下手な歌なんか聴いてもしょうがないと思うんだけど。最後まで付き合ってくれたよね」

「そう言う人だからこそ、慎ちゃんの歌が新鮮に響いたのよ」

「でも、一万円はいくら何でももらい過ぎだよ」

「本当に貧乏性ね。男だったら、一万円くらいでビビらないの。向こうにしたら私たちの百円くらいにしか思っていないんだから」

「どうみたって、ぼくの歌に一万円の価値はないでしょう。たった30分の立ち見のコンサートの入場料が一万円なんていうアーティストが、この日本にいる? いないでしょう」

「人それぞれだから。物好きな人がいたって不思議じゃないのよ。いつの時代も、価値は他人が決めるのだから。将来、慎ちゃんの路上ライブが伝説になっているかもしれないんだから。それに居合わせた人たちにとっては、一万円以上の価値になっているかもしれないわよ」

「ならない、ならない。そんな日はやってきません」

「世の中、先の事は誰にもわからないんだから」

「今度あの人が聴きに来たら、お金を返そうって思ってんだ。だから一万円、常に持ち歩くんだ」

(美由は、もしかしたら一万円札はあの女が慎吾に近づくためにわざと缶の中に入れたのではないか、という考えがちらっと頭を掠めたが、そのことを口には出さなかった)

「慎ちゃんはまじめよね。その一万円で千疋屋の高級メロンでも買って一気に食べちゃえばいいのに。でも、千疋屋だったら一万円ではメロン一個も買えないか」

「えっ、メロン一個が一万円以上もするの」

「二万円はするんじゃない。シャネルスーツの女性は、そんな高い果物を毎日食べているんじゃないかしら」

「ひえっ。そんな高いメロンなんか一生食べられないね」

「今度、家でメロンをもらったら、慎ちゃんの家に持っていこうか。美味しいわよ」

「涎が出て来たよ。おばあちゃんにも食べさせてやりたいな」

「うん。熟したメロンは柔らかいから、おばあさまもすっと食べられると思うわ。ところで、夕食、何を買って帰る」

「そうだね。何にしよう。おばあちゃんの好きなつみれ団子でも作ろうかな」

「つみれの団子、良いわね。私が作るから」

「つみれって知っているの?」

「バカにしないでよ。イワシをすり潰せばいいんでしょ」

「じゃあ、夕食はつみれに決まり」

「イワシが安かったらいいんだけどね」

「明日の朝に食べる卵も買って帰らなくっちゃあ」

 唐木慎吾と恋人の白石美由は、スーパーマーケットで買い物をして、おばあちゃんの待つ家に急いだ。


   つづく

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