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31 新しい始まり

31 新しい始まり


 隼人は部屋で一人で寝ていた。

 居間で、富田は相当酔っぱらっている。三枝も富田に酒を勧められ、この夜はどうしたわけかかなり酔っていた。それまで調子よく飲んでいた富田が、突然三枝に隼人を甘やかせすぎだと絡んできて、三枝は富田が嘗て隼人を虐待していたことをなじり始め、二人は激しい口論となった。ぼくと美由で二人をなんとかとりなそうとした。

 「そんなことだから、女房が浮気して出て行くんだよ」と言った三枝の言葉に富田はプッツンと切れ、富田は何かを叫びながら、三枝に向かってビールの入ったガラスコップを投げつけ、三枝が避けた拍子に傍にいた美由の額に当って割れた。美由の額から血が流れ出し、美由は傷口を手で押さえたが、指の隙間から血がどくどくと溢れてきた。それでもなお富田が三枝に殴りかかろうとしたので、ぼくは富田の顔を右拳で力一杯殴り、反撃してきた富田がぼくに馬乗りになって、ぼくの首を両手で絞めてきた。ぼくの意識が遠のきそうになった時、美由が後方から富田の左腹部を果物ナイフで刺し、富田が振り向いたところを三枝がビール瓶で思いっきり頭を殴り、富田はぼくの上にどさっと倒れた。

 わき腹から血を流した富田は、ピクリとも動かなかった。血の付いた果物ナイフを持った美由が怯えた声で「死んだの?」と訊いた。三枝が恐る恐る富田に近づき、顔を覗き込んで、「白目を剥いてわ。死んでる」と言った。ぼくたちは黙った。

 富田を沙羅の木の下に埋めよう、と最初に提案したのはぼくだ。みんなが黙って頷いた。ぼくは物心ついた頃からずっと沙羅の木の下には父が埋まっていると信じ込んでいたので、こうした発想が瞬時に出たのだろう。ぼくは人生のジグソーパズルの最後のピースが埋まっていくような気がして、不謹慎にも、安堵する自分がそこにいた。

 雷鳴がとどろく中、富田を埋めるために、3人は外に出て、雨に濡れながら、ぼくがシャベル、美由がスコップ、三枝がフライパンを持って、沙羅の木の下を掘り始めた。しかし、すぐに沙羅の木の下は太い根がはっていて、とてもじゃないが掘り進めないことがわかった。そこで3人は、沙羅の木の根元から少し離れたところを掘り始めた。そこにも根は伸びていたが、その根をスコップで切りながら何時間もかけて掘り進めた。その間、誰も無言だった。時々雷が光り、みんなの鬼気迫る表情を浮かび上がらせた。美由は血の出た額をタオルで巻いていたが、それでもタオルに血が滲み出て、顔が血で染まって恐ろしい形相になっていた。稲光の後、真っ暗になって腹の底に雷鳴がずしりと落ちていった。

 ぼくたちは富田を埋めるのに十分な大きさの穴を掘らなければならないが、何時間掘ってもこれで十分な大きさだとは思えなくて、無言で掘り続けた。三枝が穴の下で掘った土をバケツに詰め込んで、それをロープを使って持ち上げていた美由が体勢を崩して、穴に頭から落ちた。ぼくが「大丈夫か」と言うと、「大丈夫」とニコッと血に染まった真っ赤な顔で笑った。ぼくは「これぐらい掘れば十分じゃないか」と言うと、三枝と美由は頷いた。ぼくたちは誰かが終了の合図を出すのを待っていたのだ。実際、穴は富田を埋めるに十分な大きさだったし、ぼくたちはすっかり疲労困憊していた。

「それでは」と言って、真っ先に富田の死体を見に行った三枝の「ないわ、どこにもない」という慌てふためいた声が聞こえてきた。あまりに大きな声なので家の外に漏れるのではないかと心配になったが、この雷雨の中、近所に聞こえている風ではなかった。

 声を聞いて慌てて、二人は居間に上ったが、そこにあるはずの富田の死体がなかった。全員、キツネにつままれたみたいな心境になった。

「死んでいたわよね」

「うん」

「ここにあったんだよね」

「血が残っているわよ」

「この血は確かに富田のものよね」

「美由のかもしれない」

「でも、私はこっちにいたから、これは富田のものに間違いないわ」

「それじゃあ、私たちが穴を掘っている間に、誰かが富田の死体を持ち出したの」

「いったい、誰が?」

「何のために?」

「まだ、この家に死体はあるかもしれないわよ」

「それとも生き返ったのかもしれないわ」

「生き返るなんて、そんなことある?」

 三枝は隼人が心配になって、部屋に走って行ったが、隼人がぐっすりと寝ていたのを確かめて、また居間に戻ってきた。

「本当に死んでいたの?」

「心臓は止まっていたの?」

「そんなの確かめていないけど、呼吸はしていなかったはずよ」

「はずじゃ、わからないだろう」

「白目をむいていたんだから」

 3人は気を取り直して、すべての部屋から風呂、トイレまでを探した。押入れの中を調べても、どこにも富田の死体はなかった。玄関から「こっちよ、こっち」という美由の声が聞こえた。3人が玄関に集まると、靴箱の上に「隼人のことをたのむ」という下手な字で書かれた血の滲んだ置き手紙があった。玄関には血が点々と残っていた。

 富田は生きていたんだ。そしてこの置き手紙を残して、家を出て行ったんだ。我々3人は人殺しにならなくてすんだんだ。そう思うと、3人は張りつめていた気持ちが一挙に緩んで、その場に腰から崩れ落ちた。

 何か楽し気な三枝が「これから風呂を沸かすわね」と言って、風呂の準備に取り掛かった。こんな時間に、知らない人が泥まみれになった我々3人を見たら、すぐに警察に通報されるかもしれない。いや、知り合いだって、我々を見たら不気味に見えるはずだ。ぼくたちは少し前まで、殺した男を埋める穴を必死で掘っていたんだから、狂気じみていないわけがない。

 美由は洗面所で顔を洗い、血をきれいに拭き取った。

 風呂が沸く間に、3人で居間の片づけをした。美由と富田の血が付いている床を水拭きし、三枝は残った血液の痕を漂白剤を付けて丁寧に消していった。彼女は、かつて経験があるかのように手際がよかった。

(私は一言も台詞がなく、ただ殺される役だった。劇の幕が開くと、いきなり名もない私が殺されて、そこから劇が始まるという不条理劇だった。私がどうして殺されたのか、ということが劇中で坦々と進んでいったのだが、私の名前も職業も人間関係もただの推測の域を出ずに劇は進んで行った。私は劇の最後まで床にうつ伏していた。ただそれだけの役だった)

 美由の割れた額は思った以上に深かった。一応、三枝が消毒をして薬を付けておいてくれたが、「明日、いえ、もう今日か。病院に行って診てもらった方がいいわね」と言った。転んで額を切ったことにして病院に行くと美由が言うと、この傷は石でついた傷には見えないから、窓ガラスを割って切れたことにして病院に行った方が良い、と三枝は言った。

 美由は病院で「どうしてすぐに来なかったのか」と言われたらしいが、医者は何も怪しんでいるふうではなかったそうだ。傷口を縫って、もしかすると治っても傷口は目立つかも知れないから、その時は美容整形に行ったら元通りのきれいな額に戻るから、くよくよしないことだと慰められたらしい。美由は、前髪の下に隠れるから気にならないし、額に傷があるなんていかしていると強がった。三枝は「女優になる前に、傷口をきちんと治さないとね」とさりげなく言った。ぼくはニコッと微笑んだ。

 朝が明けると、昨夜の暴風雨が信じられない程、良い天気になった。ぼくはいつものように新聞配達をし、家の前の道を掃除した。道路には沙羅の木の小さな枯れ枝がいつも以上に落ちていた。枯れ枝を掃除していると顔見知りの近所のおばあさんが、「昨晩は雨も風も雷も凄かったですね。いつも以上にたくさん枝が落ちているんじゃないですか」と言ったので、「そうですね」と応えた。昨夜の我家の騒動は近所の耳に入っていないことがわかった。

 三枝は起きてきた隼人を抱きしめた。隼人は富田がいないことを気に留めている風ではなかった。三枝が朝食の準備をしている間、彼女の傍にいて『かえるの合唱』をいつも以上に元気よく歌い、二人で輪唱をした。隼人は富田が出て行ったのをわかっているのだろうか? 父親のことは何も訊かなかった。隼人の顔は解放されたように、晴れやかだ。

 朝見ると、沙羅の木の横には巨大な穴が開いていた。そしてそばには土がうず高く盛られていた。慎吾はよくこれだけ掘ったものだと今更ながらに感心した。今日はこの土を一日かけて穴に戻そうと思った。

 今日は月曜日だ。美由と二人で路上ライブに行こう。ぼくの歌を待ってくれている人がいる。

 

     完


追伸

 この日の午後、三枝のスマホに美由が映画の主役に抜擢されたという連絡が入ってきた。

 そして、あの日以来、富田健吾の消息は誰もわからない。

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