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沙羅の木坂の家  作者: 美祢林太郎
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2 女子高生の朱美

2 女子高生の朱美


 一週間後、同じ時刻、同じ場所で、同じ若者の路上ライブが開かれていた。


 3曲目が終わって、ギターの弦のチューニングをしている時、立って聴いていた若いOLが彼に声をかけた。

「お名前を伺ってよろしいでしょうか」

その問いかけに対して、頭を上げて若者は答えた。

「カラキシンゴと言います」

 女子高生たちは、彼が自分のことは何も話さないものだと勝手に決め込んでいたけれど、それは自分たちの勝手な思い込みに過ぎなかった、ということがこの瞬間に判明した。訊かれれば何の躊躇もなく応える姿が、却って新鮮だった。カラキは口数の少ない恥ずかしがり屋な性格なだけで、自分のことを隠す秘密主義者であるわけではなかった。これまで歌を歌うのに必死で、名前を名乗ることまで気が回らなかっただけの話だ。

 恥ずかし屋の彼が見ず知らずの人の前に立っているのは、自分の歌をより多くの人に聴いてもらいたい、と単純にそう願ってのことだった。朱美は、人前に立つアーティストに意外と人見知りな人が多いということを、誰かから聞いたことがあった。

 朱美が「カラキシンゴだって、名前もかっこいいじゃん」と大きな声を上げると、その天真爛漫な声を聞いて、その場に居合わせたみんなが大笑いをした。朱美は顔が赤くなって、あたりを見回して恥ずかしそうに下を向いた。

 そんな朱美を無視して、姫香が「どんな漢字を書くんですか?」と訊くと、「中国の王朝の隋や唐の時代があったの、学校で習ったよね。その唐とツリーの木を書いて唐木で、シンゴのシンはりっしんべんにまことで、ゴは漢数字の五の下に口です」と説明した。聴衆たちの多くは頷いていたが、姫香は友だち2人に「えっ、えっ、どんな字? トウの時代の漢字ってどうだっけ? りっしんべんってどう書くんだっけ?」って訊いて、3人ともあたふたとした。その様子を見て、唐木はノートを取り出し、マジックで大きく「唐木慎吾」と書いて、みんなに披露した。女子高生は「そうか、そうだよね」と納得して、ほっとした。

 朱美は恥を掻いたことは忘れたことにして、勇気を振り絞って「プロのアーティストですか」と訊くと、彼は弦のチューニングをしながら「いえ、大学生です」と応えた。朱美が「プロになればいいのに」と不満そうに言うと、他の2人の友だちも「そうだ、そうだ」と同調した。その言葉に彼は静かにほほ笑み返すだけだった。祥子が「プロを目指しているんですか」と訊くと、「いいえ」と唐木は即座に否定した。朱美が「もったいないよ」と残念そうに言うと、居合わせた人たちも「うん、うん」と頷いた。

「CDは作っていないのですか。あったら買いたいんですけど」と右側に座り込んでいた高校生らしき男の子が言った。

「すみません。制作していません」

「じゃあ、ユーチューブに歌を上げていないんですか?」

「それもしていません」

「ユーチューブをしたら、人気が出ると思うんだけどな。もったいないですね」と後ろの方で誰かが言うと、みんなが「そうだ、そうだ」とこれも同意した。彼はそうした反応を楽しみながらも言葉で応じることなく、突然、前振りもなしに次の曲を歌い出した。居合わせた全員が、統制が取れているかのように、瞬時に沈黙した。

彼は歌い終わった。

 「今の曲は『待ち人来たらず』でした。みなさんも待っている人が来なかったことがあるかと思いますが、それを歌にしたものです。みなさんはどのくらいの時間、人を待っていた経験がおありでしょうか? 30分、1時間、あっ、そちらの方は3時間も待ったことがあるんですか。喫茶店で。それは結構ハードでしたね。それで待っていた方はいらっしゃいましたか? 訊くだけやぼですよね。私は十何年も待っている人がいます。もう、誰を待っているのかも忘れてしまいました。冗談ですけどね。そんな冗談ですけど、もし十何年も待っていた人が突然現れたら、自分の人生はこの人を待つためにあったんだ、と感激するかもしれません。そんな劇的な出会いがこれから待っているのでしょうか? もしかしたら、待ち人は一生現れてはくれないかもしれません。でもいつか現れてくれることを期待しようではありませんか。

 では、最後の曲になりました。『沙羅の木坂』をお聴きください。「今日もあなたなしの一日が過ぎて行く そこにモノクロームの一日が残って ♬」


 唐木の路上ライブがいつ頃始まったのか、正確な日にちを朱美は知らない。朱美が聴くようになってからは、毎週月曜日の夕方5時半から6時までの30分間だけ行われている。彼女は月曜日は唐木のバイトのない日だろうと推測したが、それでもバイトのないだろう月曜日にたった30分しか歌わない理由が分からなかった。この場所でライブを開いても聴衆が集まってこないなら話は別だが、歌うたびに聴衆は増えている。一度彼の歌を聴いた人たちが、彼のファンになっているのは、まぎれもない事実だ。

 歌う曲はすべて唐木のオリジナル曲ばかりなので、持ち歌が少ないので30分しかもたないと思っている人がいるかもしれないが、ライブのエンディングは『沙羅の木坂』で固定されているが、その他の曲は朱美が聴いている限りでは、毎回ほとんどの曲が違っているので、これまで聴いただけでも彼の持ち歌は20曲以上はあるはずだ。これだったら、オリジナル曲だけで2時間のライブを開くことができるだろう。彼が毎週5時半から7時半まで歌えば、この場所は黒山の人だかりになるだろうに、と残念に思った。

 唐木は、月曜以外はこことは違う、どっか他の別の場所で歌っているのだろうか? 大学のない土・日は、上野公園や新宿や渋谷の繁華街で歌っているのだろうか? それとも、どこかの喫茶店で定期的に歌を歌っているのだろうか? たまに小さなホールでコンサートを行っているのかもしれない? 歌仲間と大々的なコンサートだって開いているのかもしれない。

 そもそも、今日だって、バイトと称していたけれど、ここから次の場所に移動して歌っているのかもしれない。スマホで「唐木慎吾」を検索してみたが、歌を歌う唐木慎吾に相当する人間は、一件もヒットしなかった。やっぱり彼は無名なんだ。もしかして掘り出しものかも知れないないと思うと、朱美は嬉しくなった。

 当然のことながら朱美は唐木慎吾のことを何も知らなかった。だけど、少なくとも姫香と祥子よりもたくさんのことを知っていたいと望んだ。私が二人に唐木の存在を教えたのだから、これからも彼女たちより優位を保ち続けなければ、何か損をした気になる。今度、彼に他の場所で歌っていないか訊いてみよう。姫香は厚かましいから堂々と唐木に話しかけるから、私も負けてはいられない。私はかれを最初に発見した最高のファンなんだ。


 『沙羅の木坂』の歌が終わると、これまで以上に大きな拍手が起こった。観客の中の半数以上はリピーターであり、そのうちの4分の3は、朱美が毎回会う女の子たちである。彼女たちの中には、ライブが始まる30分以上前からこの場所に集まっている者がいる。朱美と同じように、彼の熱烈なファンであることに間違いはない。あそこにいる女の子は友だちを連れて来たようだ。私と同じようについつい友達に自慢してみたくなるのだろう。

 朱美は他の誰よりもこの場所に早く来るように心がけたが、そんな朱美を意識したようにもっと早く来る同じ年頃の女の子がいる。その派手な衣装から、多分この子は高校に行っていなくて、鞄をコインロッカーに入れて、トイレで服を着替えて、日中街をほっつき歩いている女の子だ。いくら何でも、普通の女子高生が何の時間的制約もない子と場所取りレースをしては勝ち目がない。ここの一番乗りはあっさりと諦めなくてはいけない。

 勉強の成績が悪い上に、早退や欠席を繰りかえしていたら、高校を退学させられてしまう。そんな度胸は朱美にはない。あの子にはそんな度胸があるのだろうか? 度胸がなくても高校を休んで街を徘徊することができるのだろうか? 高校を中退したら親がどんなに悲しむだろう。朱美はそれを考えただけで、自分は不良にはなれないと思った。親に黙って、塾を遅刻したり休んだりするのが関の山だ。

 隣のOL風の女性がスマホで唐木の写真を撮っているのを見て、急いで朱美もバッグからスマホを取り出して、写真を撮り始めた。唐木の歌っている素敵な写真が撮れたら、大きく引き伸ばして自分の部屋に貼ろう。ベッドの上の天井がいいかもしれない。もうジャニーズなんか卒業するのだ。ジャニーズのファンなんて、ガキっぽすぎるじゃないか。なんてったって、あまりに万人好みだ。無名のアーティストのファンなんて、なんてマニアックなんだ。高校生なんだから、そろそろニッチを狙わらないといけないよね。

 唐木慎吾の写真はどこか渋くていいだろう。それに、スマホの待ち受けにも良いかもしれない。スマホだったら、学校でもどこでも好きな時に唐木の顔を見ることができる。こうしたことが頭に浮かぶと、朱美は写真のシャッターを連続で切り始めた。

 シャッター音がうるさかったのか、隣の会社員風の男があからさまに朱美にしかめた面を向けて、彼女を威嚇した。その顔を見て、朱美は渋々写真撮影をやめた。それでも、良い写真が撮れたみたいで、後から見るのが楽しみになった。

 ふと気づくと、斜め向かいの女性が、スマホで動画を撮っているのが見えた。頭にきたけど、シャッター音がするわけではないので、朱美も同じように動画を撮り始めた。と言うよりも、この時、かれの歌を録音して毎日聴こうと思ったのだ。スマホの待ち受けから唐木の爽やかな歌声が聞こえてきたら、どんなに素晴らしいことだろう。どうしてこんなことをもっと早く気づかなかったのだろう、と朱美は少し残念に思った。

 たしかに歌はライブが一番いい。だけど、一週間でたった30分しか聴くことができないのは、あまりに寂し過ぎる。ここでCDを売っているんだったら、間違いなく買って、毎日聴くんだけど、残念ながら売っていない。自分で録音して簡単にCDを作れる時代なんだから、作って売ればいいのにと思う。

 朱美はこのところ唐木の歌のことを考えると、授業も上の空になる。もともと勉強が好きなわけでもなかったし、スポーツも苦手だ。でも、みんながそうするように、適当な大学に進学して、適当な会社に就職して、適当な男と結婚して、適当な中古マンションに住んで、子供を一人もうける。それが高校生の朱美の考えている人生だ。これ以上だいそれたことを朱美は考えられなかった。テレビに出てくるような華やかで金持ちの人間は、彼女の周囲には一人もいなかった。ロールモデルがいなければ、現実味がない。朱美は想像力が欠落していたし、向上心の欠片もなかった。

 唐木の歌はそんなつまらない人生のスパイスのようなものだ。唐木の歌が自分の閉塞した人生を、少しでも明るくしてくれると期待するようになった。

 朱美は時々『沙羅の木坂』の一節を口ずさむことがある。「いとおしい人よ 夢の中で語り合おう 心が癒されるまで ♬」。口ずさんでいるのを聞いた同級生からは、好きな人ができたんだとからかわれるようになった。確かに唐木に対してファン以上の思いがあるのかもしれないが、唐木の恋人の存在が、唐木と自分との間にこれからも何も起こらないことを教えてくれていた。それでも、これからは自分で撮った写真と録音した歌で、毎日唐木と一緒にいられる。朱美はそれだけで幸せな気分に浸ることができた。

 歌が終わると、朱美は誰よりも早く、他の客たちにこれ見よがしに空缶に百円玉を入れた。ほかの聴衆も、彼女に促されたかのように、硬貨や千円札を入れて去って行った。

 唐木は今日も美人の彼女と一緒に帰って行き、その背を朱美たちは見送った。

「ねえ、沙羅の木って実際どういう木なの? 見たことある?」と姫香が訊いてきた。

祥子がスマホで検索した。

「ほら、これだよ」

「あっ、見たことあるかもしれない」

「どれどれ。清楚な花だね」

「姫香、清楚なんて言葉を知ってんだ」

「いいじゃん。唐木さんにぴったりの花だね」

「もしかして、彼女のことを歌っているのかな」

「考えない、考えない。そんなこと考えたらもうあの歌聴けないよ」

「朱美、録音できたの?」

「あっ、バレてた?」

「そりゃあ、バレバレだよ。あとで私のスマホに送ってね」

「私もよ」

「わかった、わかった」


      つづく

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