24 母の過去
24 母の過去
トミタにどんな漢字を書くのか訊いたら、すんなりと下手くそな字で「富田健吾」と「隼人」を広告の裏に書いた。ぼくはやっぱり「ケンゴ」の「ゴ」の字が自分と同じなことにがっかりとした。ぼくはそれ以上名前のことに触れようとはしなかったのに、「おまえの「慎吾」という名前はおれの「健吾」からとって、おれが命名したんだ」、と教えてくれた。おかあさんも「良い名前ね」と喜んでくれたらしい。
ぼくはおばちゃんの昼食の準備に取り掛かったが、おおかたは三枝が作ってくれていた。三枝さんが家に住み込むようになって、おばあちゃんに昼食を作って食べさせるのが我が家の決まりになっていた。
富田と隼人には、ぼくがインスタントラーメンを作って食べさせた。隼人は正座をして「いただきます」と手を合わせから食べ始め、食べ終わると「ごちそうさまでした」と丁寧に手を合わせた。富田の子供にしてはしつけがきちんとしている。だが、父親の富田の様子を見ながらどこか怯えているようにも見える。ラーメンを食べ終わると、隼人は見ず知らずの家にきてよっぽど気が張っていたのだろう、テレビを観ながらその場ですぐに眠りに落ちた。富田は台所から勝手に日本酒を持って来て、飲みながらしゃべり始めた。
「千恵から、おれが女と出て行った、と吹き込まれたのか。冗談じゃない。浮気をしていたのは、おまえのおふくろの方だ。千恵は生来の男好きだったからな」
ぼくは黙った。この男は尋ねる家を間違ったのではないだろうか? ぼくではなく他の人と会うべきではなかったのか? それでも、おかあさんの名前が千恵であることは合っているし、ぼくの名前を唐木慎吾だということも知っている。だけど、おかあさんが男好きだったって、そんなバカな話があるものか・・・。
「千恵かそれともあのばあさんか、どちらに吹き込まれたか知らないけれど、おれと千恵は、俗に言う出来ちゃった結婚というやつをしたんだ。腹の中にいる子が、本当におれの子かどうか怪しかったけど、あの頃のおれは純情だったから、あいつの言うことを黙って信じることにしたんだ。おれの初めての女だったし、あいつ美人だったからな。くすんだおれと結婚してくれるなんて信じられないほどの光り輝くような女だったからな。これを逃す手はないと思ったものさ。
おれのおふくろはおれが8歳の時になくなって、父親一人で育てられた。そのおやじも、おれが16の時に亡くなって、おれはこのおんぼろの家に一人で残されたんだ。寂しくって、早く人並みな家庭が欲しかったんだ。千恵はそれがわかっていて、それに付け込んだんだな。
おまえは、おれがあいつと結婚しなければ堕胎させられて、この世に日の目を見ることはなかったんだぜ。おれに感謝した方がいいぜ。おれはおまえの命を救ってやったんだからな。そうした意味では、まさにおれはおまえの命の恩人ってところだ。いくら感謝してもしすぎることはないと思うけどな。
おまえと血のつながりがあるかどうかくらい、いくらバカなおれでも、おまえが生まれて最初に顔を見た時にわかったよ。おまえとびっきり可愛かったものな。それに、今おまえの顔を見て、おれの息子じゃないことを再確認させられたよ。おまえ、おれとは違って鼻筋の通った美男子だものな。おれの息子と言えば、この隼人みたいな顔をしているんだ。隼人の不細工な顔を見てみろよ。おれとそっくりじゃないか。団子っ鼻で厚い唇をしててよ。小さくて細い目だろう。性格だっておれに似て卑屈でな。びくびくしながら、おれの顔色ばかり見てんだぜ。でもな、おれとおまえは少なくとも戸籍上では親子なんだ。おまえ、戸籍謄本を見たことがないのか? 見ればおれの存在だって、ずっと前にわかったはずだ。
こともあろうに、おまえのおふくろは、おれと結婚し、おまえを生んでからも、浮気をやめなかった。淫乱だったからな。おれは、子供が生まれたら、男遊びもしなくなると期待し我慢もしていたけど、さすがに家にまで男を連れ込んで、その現場に出くわしてしまうとな。おとなしいおれでも、堪忍袋の緒が切れたよ。
あの日、おれは風邪で熱が出て、悪寒がしたので、職場を早退したんだ。「ただいま」って家に入ったら、まっ裸のあいつの上に乗った裸の男が激しく腰を動かしていたんだ。まさにこの居間の床の上でよ。その男の背中から尻にかけて、立派な龍の彫り物があった。千恵が結婚前から付き合っていた遊び人さ。あの彫り物を見たら、あいつは遊び人どころではなく、正真正銘のやくざものだっていうことがわかったよ。
おれは浮気の現場に遭遇して、頭に血が上って、テーブルの上にあった包丁を手に取って、あいつの背をめった刺しにしてやった。多分、龍の刺青を見て、興奮したんだろうな。
おれは殺しで10年ブタ箱に入れられた。やくざもんか、死んだよ。即死だったらしいな。男の名前は裁判の時に聴いたけど、もう忘れちまった。おまえのおふくろは、真っ赤な血の下で、半狂乱だったよ。どうしたわけか、おれは千恵を殺さなかった。どうしてだろう? 隣の部屋でおまえの泣く声が聞こえたからかな? もしそうだったら、千恵はおまえに命を救われたってわけだ。おれだって、千恵まで殺していたら、死刑は間違いなかったけどな。おまえの泣き声が千恵とおれの命を助けてくれたってわけだ。おまえにしても、泣いたおかげで、児童養護施設に入れられなくてよかったんだけどな。おれたち家族3人は、おまえが泣いたおかげで、救われたんだ。
おれが殺した男がおまえの血の繋がった父親かどうかは、今となってはわからない。父親の可能性もあるけど、千恵はたくさんの男と付き合っていたから、あの男がおまえの父親じゃないかもしれない。もしあの男がおまえの父親だったら、おれはおまえの本当の父親を殺したことになるな。万が一、あいつがおまえの父親だとしても、あいつが生きていたら、おまえもろくなことにはならなかっただろうから、おれに感謝した方がいいぜ。
おれは弁護士に言われるがままに、刑務所の中からすぐに離婚届をあいつに送ってやった。おまえの養育権を放棄して、この家と土地の権利も千恵にやった。この土地はおれの先祖代々の土地だったんだぞ。それにこの家はおんぼろになってしまったけど、おれのおやじが苦労して建てた家だ。それをおれはあっさり手放したんだ。そのくらいのことをしでかしたとおれは深く反省していたし、おまえの養育費の代わりだとも思ってな。これでもおれは、刑務所の中でしおらしく反省の日々を過ごしたんだ。
おれはあの男を殺すまで、他人にどつかれても、他人に暴力をふるうような男じゃなかったんだ。ひ弱で気が小さかったからな。
だがな、大事な話はここからよ。よく聞きな。
ブタ箱の中の一日は長いからな。おれはあの日のことを色々と考えたんだ。考えることといったらそのくらいしかないからな。そしてついに、このバカな頭で、千恵のとんでもなく恐ろしい計画に気づいたんだ。気づいた時には、真夏だったのに体がガタガタ震えたぜ。
あの日、おれは朝から風邪を引いて熱が出て頭がフラフラだったんだ。そもそも働きに行くのは無理な体調だった。それにも関わらず、おれを仕事に行くように強く促したのが千恵だった。「子供のために稼いでおいで」って笑顔で送り出したんだ。千恵は、おれが工場に行っている間に男を連れ込む算段だったんだ。
それどころじゃない。おれが高熱で工場から早退するのも、あいつは計算に入れていたんだよ。おれが家に帰る頃を見計らって、情事に耽っていたんだ。そんなにタイミングよく帰宅と情事の時間を合わせることができるかって思うだろう。それができるんだよ。当時、この家の近所のバス停のバスの発着は2時間に一本だった。いくら病気がひどくても、おれはタクシーで帰宅するなんて夢にも思わなかったからな。貧乏だったんだよ。だから、午後2時に合せるように、情事に耽ればよかったんだ。そんなに、難しいことじゃあない。あいつは、柱時計を見て時間を確かめながら、冷静に男を誘っていたのさ。
あいつはあの男との情事の場面をおれに見せつけたかったんだ。どうしてかって、おれにあいつを殺させるためさ。おれは思い出したんだ。千恵は、おれと目が合った時に、にやって笑いやがったんだ。そしておれの時には出さないような大きなよがり声を出し、腰を持ち上げたんだ。おれはその声に煽られて、冷静じゃいられなくなった。そしてテーブルの上にあった包丁で、おれは男を刺したんだ。
ご丁寧なことに、千恵はおれが男を間違いなく刺せるように、男の背中を両手でしっかりと抱きしめ、両足を男の両足に絡めて、あいつなりに男の自由を奪っていたんだ。男が抵抗したら、ひ弱なおれはすぐに反撃にあって半殺しの目にあっただろうからな。千恵は立派な共犯者だったんだよ。
包丁だって、おれが男を刺すように都合よくテーブルの上に準備されていたんだぜ。リンゴの皮を剥いたためだって、裁判で千恵は証言したよ。おとこの胃袋からリンゴが出てきたしな。そりゃあそうかもしれないが、そうすることによって千恵はおれが男を殺すための包丁を、あらかじめテーブルの上に置いておいたんだ。しかもご丁寧なことに、包丁の柄をおれが握りやすいような方向にまで合せてな。細工は上々だったのさ。
あいつはおれに包丁のありかを知らせようとして、テーブルの上の包丁に目を流したことを、おれはブタ箱の中で思い出した。それにおれは前の晩、あいつに包丁が切れなくなったから、研いでおくように言われて、しっかりと研いだんだ。熱があって、意識が朦朧としながらな。何もかも計算づくだったんだよ。千恵は殺人の首謀者で、おれは単なる操り人形だったんだ。
どうして千恵はおれを使って男を殺そうとしたかって? それはだな、千恵はそのやくざもんに暴力を振るわれ、金をせびられていたんだ。そしてあの頃はソープに売るぞと脅されていたんだ。このことは裁判の時に千恵が証言して、その証言によって、千恵は同情を集め、おれも情状酌量されたってわけよ。いずれにしても、千恵はそんな男との縁を切りたかったんだ。それでおれを利用して、殺人計画を立てたってわけさ。おれと違って、頭の切れる女だったからな。
このことに気づいたからと言って、今の今まで、誰にも喋りゃあしなかった。たとえおれが喋ったとしても、おれ一人の単なる妄想でしかないと笑われるのがオチだからな。何一つ物的証拠がないんだから。
おれが事件の全貌に気づいた時には、千恵は癌にかかって余命いくばくもないという噂が、ブタ箱にいるおれの耳にも入って来た。その話を聞いた時は、あいつに天罰が下ったんだ、と一人で大笑いしたよ。周りの奴らはみんなおれが気が狂ったと思ったようだったけどな。
千恵が元気だったら、出所して千恵を殺したかって? 殺してやりたかったけど、多分おれは反対にあいつに殺されていたな。あいつの方が、一枚も二枚も上手だからな。おれが千恵の命を狙ったら、千恵はおれみたいなバカな男をみつけて、おれを殺す計画を立てて、おれを殺させただろうな。あいつにはかなわないよ。
おれは出所してから、しばらくたって同じ飲み屋で働いていた娘と結婚した。また、できちゃった結婚だ。今度はほんまもののできちゃった結婚だけどな。ほどなくして隼人が生まれた。千恵と違って、田舎から出てきた純朴な女だった。今時、田舎は余計か。それなのに、隼人が幼稚園に上がる前に、店屋の客と駆け落ちをしやがった。おれ、それまで真面目に働いていたんだぜ。女に手を挙げたこともなかったし、浮気をしたこともなかった。今度こそ、二人で幸せになれると思っていたんだ。いったいおれの何が不満だったんだよ。おれって、よくよく女運がないんだな。
おれは荒れたぜ。当然だろ。それこそ飲む打つ買うの三拍子の日々だった。すぐに借金まみれになって、借金取りに追われて、アパートからも追い出されたから、この家に転がり込んできたというわけさ。ここはもともとおれの家だったから、文句ないだろう。20年もタダで住まわしてやったんだから、感謝して欲しいくらいだ。
千恵のことだから、てっきりこの家を売っぱらって、どこかにマンションでも買って引っ越していると思ってた。癌になって若くして死んじまったとはな。不幸な奴だ。ざまあみろ」
「母さんは不幸なんかじゃなく、幸せだったよ。おばあちゃんとぼくに看取られて亡くなったんだから」
「だから、そのばばあ、いったい何者なんだよ。財産を狙っていたのなら、千恵が死んだ後、すぐにこの家を売っぱらっちまったはずだ。それもせずに」
「それもせずに、必死で働いてぼくを育ててくれたんだ。あんたのような遊び人とはわけが違うんだ」
「おれが遊び人だって? 冗談じゃない。おれは真面目に働いていたと言っただろう」
「うだつの上がらないミュージシャンだったんじゃないのか?」
「おれがミュージシャン? チャンチャラ笑わせるぜ。楽器なんて弾けないし、歌だって音痴だ。誰がおれをミュージシャンに仕立て上げたんだ。おまえのおふくろか? おまえのおふくろは、そんなチャラい奴が好きだったからな。おれは高校中退の印刷工場のしがない工員さんだったよ。インクにまみれて毎日まじめに働いていたんだ。あの頃は、真面目なことが美徳だった時代だからな。それなのに、おれが働いている間に男を連れ込んで、ウハウハやっていたんだぜ。正真正銘の危ない男とな」
「私の名前は唐木慎吾ですけど、本当に私に会いに来たのですか? 訪ねる家を間違っているんじゃないですか?」
「なんだかんだ言っても、養育費を払っていなかったんだから、今更おまえに父親面をしようとはこれっぽっちも思っていないし、おまえに世話になろうとも思っていない。おれにはおれの血の繋がった本当の子供がいるんだ。おまえにしたら戸籍上の腹違いの弟だけどな」
この男の話はどこまでが本当かわからない。たとえ富田が言うようにぼくの戸籍上の父親だったとしても、人殺しなどしたことは本当だろうか? おばあちゃんの言うように、女ができてこの家を出て行ったのが関の山ではないだろうか。殺人は、かれの妄想でしかないのではないか。この気弱そうな男に人を殺せるわけがないと思った。
つづく