23 トミタケンゴ
23 トミタケンゴ
ある日、いかにも冴えない中年男と小さな男の子が、ぼくの家の玄関の前に、ポツンと立っていた。
中年男は唐木慎吾の父のトミタケンゴと名乗った。咄嗟に、ぼくの頭の中に、ケンゴとシンゴが重なり、ケンゴと言う名前の「吾」の字が浮かんできた。ぼくの名前は「ケンゴ」から由来するのだろうか? こんな男に名前が由来すると思うと、これまでなかなかカッコいいと思っていた自分の名前が、なぜか薄っぺらく感じられた。
トミタはぼくに「慎吾、大きくなったな」と不器用に微笑んだ。ぼくは親し気に名前を呼ばれたことに、ある種の腹立たしさをおぼえた。
トミタに「兄さんに挨拶しなさい」と促された男の子は、直立不動の姿勢で「朝霧幼稚園たんぽぽ組のトミタハヤトです」と兵士のように礼儀正しく答えた。男は大きなキャリーバッグを引き、男の子は帽子から靴まで幼稚園であてがわれた服を着て、黄色いリュックサックを背負っていた。
ぼくの頭の中は、いま目の前で何が起こっているのか、焦点が定まらずにボーっとしていた。死んだはずの父が生きている? 父が子供を連れて帰ってきた。すると、この子はぼくの弟? そもそもこの男は本当にぼくの父なのか? ぼくは今日の今日まで、確たる証拠はなかったが、父はおかあさんとおばあちゃんに殺されて、沙羅の木の下に埋められているものとばかり思い込んでいた。殺されたはずの父が目の前にいる? 信じられずに、彼の前に茫然と立ちすくんだ。何かの悪い冗談だ。そもそも、この男にはぼくと似たところが一つもない、うだつの上がらない労働者風の男だ。ぼくが勝手にイメージしてきたような、不良っぽい遊び人風のミュージシャンには見えない。体から危ない毒気が立ち上ってこない。それとも、これまでの苦労してきた日々によって、体中から毒気が抜き取られてしまったとでもいうのだろうか?
簡単な挨拶が終わると、気弱そうなトミタは手のひらを返したように厚かましくなり、靴を脱いで玄関に上がろうとし、ハヤトに「おまえのうちなんだから、遠慮せずに上がれ、上れ」と声を掛け、ハヤトの靴を脱がせて上ろうとした。慎吾は男をとめようとしたが、彼は何の逡巡もなく、キャリーバッグを持ち上げて居間に入って行った。居間に入ると、ハヤトが「うんちくさ」と言って、小さな鼻を右手の親指と人差し指で摘まんだ。トミタが「黙ってろ」と子供の右手を乱暴に引っ張った。ハヤトが両手で頭を押さえて、「ごめんなさい、ごめんなさい。もう言わないので、許してください」と過剰なまでに謝った。
トミタは隅に重ねておいてあった座布団を一枚出してきて、その上に胡坐をかいて座った。ハヤトは彼の隣に行儀よく正座して背筋を伸ばして座った。あれよあれよという間だった。トミタは思っていたよりもずっと厚かましい男だ。油断してはいけない。
ぼくがトミタに対座して座ると、彼は旧知の不動産屋から、この家と土地を売却して立ち退くように、ぼくを説得して欲しい、と頼まれて来たそうだ。ぼくは厳しい顔をして、おばあちゃんが生きている限り、この家を立ち退く意志はないと言った。トミタが「それは、どこのおばあちゃんだ」と言うので、「おかあさんの母です」と言うと、「おまえのおばあさんということだな。そのおばあさんなら、十数年前に千恵の兄貴に看取られて亡くなっているよ」とぶっきら棒に言った。この男の口から「千恵」というぼくのおかあさんの名前が自然に出てきたことが、凄く不愉快だったが、そのことには触れないようにしようと思った。
「それはあなたの母親のことを言っているんじゃないですか」とぼくが質すと、「おれのおふくろは今でも伊豆の下田で、一人でぴんぴんとして暮らしているよ」と言った。ぼくは何がなんだかわからなくなってきた。こいつはぼくを混乱させようとしているのだろうか?
トミタが「そのおばあちゃんというのはどこにいるんだ」と言うので、ぼくが「別室で寝ています」と言うと、「そのおばあちゃんという奴から話を聴かせてもらおうじゃないか。起こしてこいよ」と言った。ぼくはおばあちゃんが認知症になって寝たきりになっているので、起きてはこれないことを説明した。「それならそのおばあちゃんとやらのお顔を拝ましてもらおうじゃないか」と言って立ち上がって、家探しをしそうな勢いだったので、仕方がないのでおばあちゃんの部屋に連れて行くことにした。
おばあちゃんの寝ている顔をまじまじと見て、「誰だこいつは」と呆けたように言った。ぼくは「こいつ」という言葉を聞いて、なんて下品な奴なんだろう、と不快感を増した。「だから、ぼくのおばあちゃんじゃないか」と少し怒った口調で言うと、トミタが「どこのおばあちゃんなんだ」と繰り返した。「だから、おかあさんの母親で、母が亡くなってから一人でずっとぼくを育ててくれたおばあちゃんだ」とぼくの言葉は更に怒りに満ちてくるようになった。
トミタは「おれの知る限り、おまえの肉親にそんなばあさんはいないよ」と投げ捨てるように言った。「それでそのばあさんの名前はなんて言うんだ」と訊くので、「宮田花子」ってぼくはふて腐れたようにおばあちゃんの名前を教えた。するとトミタは、千恵の名字は唐木で、宮田とは違うだろうと難癖をつけてきた。そこでぼくは、おばあちゃんは若い頃離縁したので、おばあちゃんは旧姓の宮田を名乗って、おかあさんは父方の姓の唐木を名乗ったから、違っていても何も不思議ではない。それにおかあさんは父と離縁して旧姓の唐木に戻った、とも付け加えてやった。ぼくはこの男をまだ父親だと認めていないので、「あんた」と離縁したとは言わなかった。トミタは「誰から吹き込まれたか知らないが、それは全部作り話だ」と言って鼻でせせら笑った。千恵の両親が離婚したなんて、そんな話は聞いたことがない、と言った。「なんなら山形の実家に電話をしてみようか」、と言ってきたが、トミタは電話番号を知らなかったので、それはできなかった。だが、ぼくを動揺させる効果は十分にあった。
おかあさんがトミタと結婚していた頃は「富田千恵」で、ぼくは「富田慎吾」だったと言った。それは戸籍謄本を取り寄せれば、すぐにわかることだと言った。そして離婚しておまえたちは千恵の旧姓の唐木に戻ったと言い、これだけはぼくがおばあちゃんから教えられたことと違いはなかった。
もしトミタのいうことが本当なら、こんな粗野な男とおかあさんが別れたのは正解だった。ぼくはこんな男をおとうさんと呼びたいとは思わない。もしこの男が父親だったら、ぼくはどんな育ち方をしたのだろう? きっとぐれて、荒んだ生活をしていたのではないだろうか。決して今のように、穏やかな生活にはならなかったはずだ。ぼくは、おばあちゃんに育てられて正解だった。
「この女、もしかして、ばあさんのふりをして、財産を狙ってうちに入ったんじゃないだろうな」と言い出した。ぼくが「家には財産なんて何もない」と言うと、トミタが「ここの土地があるだろう。売れば数千万円にはなるはずだ。もしかすると億までいくかもしれないな」と言ったので、「財産狙いはあんたの方じゃないのか」と反論すると、「もともとはこの家はおれのものだぜ。それを千恵に奪われたんだ。今さらこの家を取り戻そうとは思っていないけどな。古い知り合いから、おまえたちが立ち退かなくて困っているから、おまえを説得してくれって頼まれて来たんだ。ずっと会っていないおまえと会うのは気が進まなかったけど、そいつには昔世話になったから頼まれたら嫌とは言えないので、来たというわけさ。さすがに親子の久々の感動の対面というわけにはいかなかったな。おれも期待していなかったけどな。用がすんだらさっさと帰るからさ。この土地を手放して金を手に入れた方が、そのばあさんもうんちの臭いのしない施設に入れていいんじゃないのか。おまえもこんなくさい家を出て、マンションに住めるぞ。近所じゃあ、この家が立ち退かなくて、みんな困ってるそうだな。ここらが再開発されれば土地代も高騰するからな」
「好き勝手に言っているけど、そもそもあんたがぼくの父親なのかどうか怪しいじゃないか」と言うと、男は「戸籍謄本を取り寄せればすぐにわかることさ。おっと、こんなこともあろうかと思って、写真を一枚持って来たんだ」。そう言って男は上着のポケットから一枚の写真を撮り出して、ぞんざいに慎吾の前に投げ出した。
「あそこに飾られた写真には、千恵とばあさんとおまえの3人が写っていて、おれが出て行ったあとに撮った写真だな。千恵が亡くなる直前か? 千恵随分痩せてんな。だけど、おれの写真なんてこの家には一枚も残ってはいないんだろう。おれがこの家から出た後、全部処分したんだろうな。だからおまえはおれのことがわからないんだ。おれは三脚を立てて、3人の写真をいっぱい撮ったぞ。おまえが生まれて嬉しくってな。まあ、いいや。そんなこともあろうかと思っていたから、写真を持ってきてやったんだ」
写真の中の可愛らしい女性はおかあさんなのだろうか? 目元が亡くなる前のおかあさんと似ていると言えば似ている。でも、ぼくの知っているおかあさんよりもずっとふくよかだ。女の人に抱かれている生まれたばかりの赤ちゃんはぼくだろうか? そして女の人のそばに立っているのは、若い頃のこの男だろうか? そうだ、この男はトミタに間違いない。20年前のこの男は、当然のことだが、こんなに若かったのだ。だけど、この男はミュージシャンのようなアロハシャツを着ていない。どこにでもいる冴えない真面目そうな若者だ。それでも、この写真の中の若夫婦は幸せに満ちている。
「もしあなたがぼくの父だとして、ぼくたち母子を捨てて、どの面下げてぼくの前に現れることができるんですか。あなたは女と出て行ったんでしょう」
「そのように千恵から聞かされてきたのか。そんなことだろうな。おれがこの家を出て行った事情については、この際だから、あとでゆっくり話をしてやろう。ハヤトが寝た後にな。今日はここに泊って行くからな」
「そんな、勝手な」
「もともとはおれの家だ。おまえもおれが出て行った理由を知りたいんだろう」
トミタはにんまりと笑って、ぼくの耳元で、小さいがどすのきいた声で「おれは人を殺してブタ箱に入ってたんだ」と告げた。
慎吾は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
つづく