22 慎吾の進路
22 慎吾の進路
三枝はおばあちゃんの介護や家事があり、それほど日中に自由な時間があるわけではなかった。介護や家事は完璧に遂行されなければならなかった。
三枝は時々昼に自分のマンションに帰ってくると言ったり、仕事があるからと言って家を抜け出した。食費代だと言って、定期的に家に金を入れてくれるし、買い物も彼女の金でやっている。決して慎吾に経済的負担をかけるようなことはなく、却って援助してもらっているくらいだ。もちろん、おばあちゃんの介護のバイト代も慎吾に請求することはなかった。
三枝はとにかく忙しく働いた。夜遅くまで、電話をしたりメールを打ったりしていた。芸能関係者は夜遅くまで働いているようだ。深夜にタクシーで出かけた三枝は、芸能関係者と飲んで商談したり、かれらとの交渉をスムーズにするために、かれらと寝た。また、金を稼ぐために出会い系サイトで知り合った男とも寝た。それでも新聞配達に間に合うように、明け方にタクシーで帰って来た。そんな彼女なので、日中ウトウトしておばあちゃんの布団の上に頭を伏せることもあった。
三枝は月曜日の路上ライブに参加することはなかったが、時々、家で慎吾に歌を歌ってくれるように頼んだ。三枝は慎吾の歌を覚えて、電気掃除機をかけながら口ずさむようになった。
三枝は慎吾と美由の3人で商店街に買い物に行った時、八百屋の店員から二人のお母様ですか、と声を掛けられたことがあった。慎吾と美由はすぐにそれを否定したが、三枝は満更でもなかった。三枝は、慎吾だけでなく美由の母親にもなったと思った。これで美由を覚せい剤付けにしてAV業界に売ることはできないと思うと笑えてきた。
三枝は演劇をやっていた頃の後輩に電話をかけた。まだ役者を辞めて数年しか経っていないのに、彼女は過去の人になっていた。芸能の世界は新陳代謝の激しい世界だ。もう何十年も会っていないかのように、相手は私を大げさに懐かしがるふりをした。私は現役の頃、自分自身を売り込むこともできないほどシャイな性格だったが、他人のことだから強気で慎吾を売り込むことができる。
一度、音を送ってくれと言ってきたので、送ったが、それっきりなしのつぶてだった。こちらから聴いてくれたかと催促の電話を入れると、丁度今連絡を入れようとしていたところで、申し訳ないけどその音はどこに行ったかわからなくなってしまったから、また送って欲しいと言われた。私は怒りもせずに「仕方がないな」と柔らかく言って、また送った。怒ってしまったら終わりだ。もしかしたら、向こうはそれを待っていたのかもしれないが。昔の私だったら、もちろん激怒している。
他の音楽関係者にも連絡をとった。一緒に路上ライブに行って、慎吾の歌を聴いてもらった。予想通りに、その男は慎吾の歌に感激し、ライブが終わってから、慎吾と美由を交えて4人で喫茶店で話をした。慎吾に自作の曲が何曲あるかとか、SNSで発信しているかとか、大学を卒業したらどうするのかとか訊いてきた。慎吾が就活をしてサラリーマンになる予定だと言うと、それはもったいないとその男が言った。その男が言うには、慎吾には凄い才能があり、絶対に成功する、と目を輝かせて言った。かれはこうして何人もの若者を口説いてきたことだろう。そのうち一人でも日の目を見た者はいるのだろうか? この男はただのお調子者であるかもしれないし、秘宝を探して一攫千金を狙うロマンチストなのかもしれない。その男が慎吾のマネージャーをやらせてくれと言い出した。三枝は突然切れて、「マネージャーは自分だ」と主張した。慎吾も美由も彼女の剣幕にあっけにとられた。彼女のこんなに激しい感情の表出を見るのは初めてだった。もちろん、この男との話はご破算になった。
(慎吾を芸能関係者に会わせていれば、今は乗り気でない慎吾でも、そのうちアーティストになろうかという気持ちが芽生えてくるだろう。今はそれで十分だ。布石を打って、慎吾がその気になった時に、一気呵成に攻めればいい。)
慎吾が本命の会社の最終面接の日の朝、おばあちゃんが腹痛を訴え、腹を下した。三枝は珍しく用事があるからと、おばあちゃんの食事を済ませた後、そそくさと出かけていった。美由も授業があるからと朝早く出かけてしまった。自分もそろそろ出かけようと思っていた慎吾は、おばあちゃんの世話をすることになって、最終面接に出席することができなかった。その会社は当然のように不合格になった。
おばあちゃんの腹痛は、三枝がおばあちゃんの食事に下剤を混入したためだった。三枝は慎吾がまともな就職をすることを望んでいなかった。三枝は午後になって帰宅すると、まだ下痢のとまらないおばあちゃんのおむつを替えながら、涙を流した。そしておばあちゃんに「ごめんなさい」と泣きながら謝っている姿は、慎吾には三枝が不可抗力で病気にさせたことを謝っているように聞こえた。それを三枝の優しさだと思った。三枝は役者だ。
三枝は過去にも他人の食べ物に下剤を混入した前科がある。芝居の役を取りたくて先輩役者の飲み物に下剤を混入したのだ。みんな彼女のことを疑っていたようだが、何の証拠もなかった。そこまでしたのに、三枝に役は回ってこなかった。そんなことをした三枝は罪の重さに苛まれて、何日も寝られなくなった。その時はもう二度とこんなことはやめようと固く心に決めたのに、三枝はまたやってしまった。三枝は自分が生来の性悪女だと思って、自分が恐ろしくなった。
だが、今回は慎吾も美由も私のことを疑っていない。おばあさんだけが私を疑いの目で見ているように感じるのは、後ろめたいせいだろうか。そう言えば、おばあさんは下剤入りのスープをスプーンで口に運んだ時、口をつぐんで食べようとはしなかった。私はそれを無理やり口の奥に運んだ。ボケていると思っているおばあさんは、あの時正気で、私の両眼が尋常ではなかったことに気づいていたのかもしれない。
三枝は慎吾の誕生日にマーチンの高級ギターを買ってプレゼントした。慎吾はそのギターのおおよその値段を知っていたので、さすがに恐縮したが、もう返品することはできないから受け取って欲しい、と三枝に言われた。
(これはメルカリで買った私の服とは違って、銀座の楽器店で買った正真正銘の新品の高級ギターだ。このギターを買うために私は何人の男と寝て、ハリウッド女優のような演技をしたことだろう。)
三枝は「慎吾さんの歌にはこれくらい高級なギターの音色が必要です」と言った。でも慎吾は、今のギターは自分が高校生の時、アルバイト代を貯めてやっと買ったもので、とても愛着があると言った。彼が弾き比べた音は、音楽に素人の三枝でもわかるほど雲泥の差があった。もちろん音楽のわかる美由は、マーチンの音の素晴らしさに驚き、目を輝かせた。慎吾は何度もマーチンを弾き、それに合わせて歌を歌った。
この日の美由からのプレゼントは手編みのセーターだったが、その夜の話題は高級ギター一色になった。
慎吾の路上ライブがSNSで評判になっていることがわかった。女子高生がアップしたらしい。好意的なコメントがたくさん寄せられていた。三枝が女子高生の朱美に、彼女が以前隠し撮りをした動画をSNSにアップするように勧めたのだ。三枝がコメント欄にアカウントを替えて、あらん限りの絶賛する言葉を書き込んだ。SNSによって、慎吾は幻のアーティストと呼ばれるようになっていった。朱美は登録者数が増えて、友だちに自慢した。
芸能関係者と話がついて、小さなホールでミニコンサートを開催できることになった。路上ライブで宣伝したのも功を奏して、小さなホールは満杯になった。入口には芸能人の名前が書かれた花輪が並んでいた。こうしたことも三枝が手配したのだ。いかにも慎吾は有名な芸能人と親交があるように見えた。
慎吾と美由は会場が満杯になったのは、慎吾の力だと思っているようだったが、客のほとんどは、昔の後援者であった酒屋の店主に電話をして集めてもらったものだった。このスケベな男が久しぶりに関係を迫ってきたので、関係を持ってやった。まだまだ利用価値のある男だ。慎吾が集客は自分の力だと思っているのは、それはそれで好都合なことだ。かれには少し調子に乗ってもらいたいのだ。
小さなFM局にテープを持って行き、かけてもらうことにした。こうした地道な活動で、慎吾は徐々に知られる存在になっていった。
こうした合間にも、慎吾は色々な会社の就職試験を受けて行ったが、三枝が裏で手を回して、すべて不合格にさせた。それで、慎吾も自信をなくし、現実逃避するようになっていった。慎吾は残された道はミュージシャンしかないかと思うようになった。
美由も慎吾には地味なサラリーマンよりもミュージシャンの華やかな世界が向いていると思うようになったし、自分もその華やかな世界の住人を夢見るようにもなっていた。彼の生い立ちも、おばあさまの介護も、交通事故も、自分との出会いも、すべてが彼の華麗なサクセスストーリーになると考えるようになっていた。
三枝はメールの返事をよこさない劇団時代の後輩たちに対して、匿名の誹謗中傷メールを矢継ぎ早に送った。いつかかれらを潰すのだと誓った。
慎吾の足が治って松葉杖がいらなくなった頃、勇太が授業に出席しないと卒業が危ないと教えてくれた。慎吾は必死で授業に出席して単位を取ろうとしたが、試験の日、決まって腹を下して試験を受けられなかった。これも三枝の仕業だった。彼は教授に再試験や代替のレポート提出を願い出たが、ほとんどが却下され、留年が確定してしまった。これで来年の奨学金は出なくなり、バイトだけではやっていけないので、中退するしかないと思った。
慎吾はおばあちゃんに申し訳なかった。美由の父が来年度の授業料や生活費をすべて出してもいいから、大学だけは卒業するようにと申し出てくれたが、かれはそれを頑なに断った。彼はこれまでおばあちゃんと二人で誰のサポートを受けずに生きてきた誇りがあった。慎吾は、こうなったらプロのアーティストとして食っていくことにしようと腹をくくった。
こうして3人は同じ目的を共有することになった。
つづく