21 退院祝い
21 退院祝い
慎吾の退院祝いが彼の家で行われた。
勇太は何度も慎吾の家に来たことがあり、勇太は上がり込むとすぐに寝ているおばあちゃんに優しく「今晩は」と挨拶をした。
勇太が退院祝いだと言って、実家から送られてきた宅急便のでっかい箱を持参した。開封すると、立派なブリと、その周りにアジとサバとカマスとイカの干物が並んでいた。
勇太は「台所を借りるな」、と言ってブリを手際よく三枚に下し、刺身にした。頭とカマは塩焼きにし、同時にあら汁も作っていった。美由が「プロの料理人みたい」と褒めると、勇太は得意そうに「子供の頃から、魚をおろしていたからね。刺身包丁を持って来ればもっとうまく切れたんだけど」と言って、持参した大きな皿に上手に刺身を盛りつけていった。慎吾も彼の包丁さばきを見て感心した。
この夜、勇太は初めて三枝を紹介された。三枝がフリーの芸能関係者であることに勇太は強い関心を示した。
準備が終わると、ビールで乾杯と言って、みんなで一斉に刺身に箸をつけた。真っ先に三枝が「これは美味しいですね」と目を丸くして言った。みんなも頷いていた。三枝は「こんなに美味しいブリを食べたことがありません」と言い、二切れ目を箸に摘まんでいた。美由も「新鮮ね。プリップリッじゃない」と頬が緩んでいた。慎吾は「こんな贅沢していいのかな」と喜んだ。勇太は「親父が日本海で捕まえた魚だからな。日本一だよ」と得意げに言った。
ビールを飲み干すと、三枝はラベルに大きく「響」と書いてある国産の高級ウィスキーを取り出して、大人の女の雰囲気を醸し出そうと、オンザロックにした。慎吾と美由も「響」をグラスに注いだ。
この「響」だって、いきつけのディスカウントショップで安く買ったものだ。もしかしたら、中身は安物のウィスキーに入れ替えられているかもしれない、と三枝は思った。どうせ自分にはウィスキーの味はわからないし、ここにいる若者たちもわからないだろうと思った。
勇太は持参した一升瓶の日本酒を湯呑茶碗に注いだ。勇太だってそんなに酒が強いわけではない。彼もかっこをつけていたのだ。
しばらく刺身で盛り上がった後、勇太が隣の席の三枝に向かって話し出した。
「もったいないですよね。慎吾のような才能がある奴はプロになったらいいと思うのですが、三枝さんは慎吾がプロになれると思います? 慎吾の歌を聴いたことがありますか?」
「路上ライブで聴きました。家でも何度か歌って聴かせてもらっています。間違いなく一流のプロになれると思いますよ」
「そうですよね。それなのにこいつときたら、サラリーマンになるの一点張りなんですよ。三枝さんからも何か言ってやってくださいよ」
「こればっかりは、自分の一生ですから。いくら才能があっても誰でもがプロになって成功できるほど楽な道ではありませんからね。無理に進めるわけにはいかないのですよ」
「そりゃあ、そうでしょうけど。ぼくはプロになる気満々なんですけど。なんなら慎吾の代わりにぼくをプロにしてもらえませんかね」
「おまえ、少し酔っぱらっているぞ」
三枝が勇太に酒を注いでやって、「いいじゃないですか。それで、音楽活動は何かなさっていますか? 路上ライブは?」と勇太に訊いた。
「いや、路上に立つのは恥ずかしくって。でも、近いうちにやろうとは思っていますよ。とりあえず、慎吾のライブにゲスト出演する話を進めているところです」
「それ本当?」と美由が慎吾に確かめるような眼を向けた。
慎吾は困ったように、「調子いいな。まだ何も具体化していないじゃないか」と否定した。
「それじゃあ、他のお友達とコンサートをされたことは?」
「学内で新入生歓迎コンサートとクリスマスコンサートをサークルのみんなでやりました。もちろん慎吾も出ましたよ。美由もキーボードを演奏したよな」
「はい、出させていただきました」
「美由のキーボードもなかなかのものですよ」
「それで、勇太さんは自分で作った曲は何曲くらいあるのですか?」
「まだ3曲ですが、プロになれるならこれから必死で作ります。構想は練っていますから」
「一曲歌ってもらえますか」
「えっ、ここでですか」
「慎吾さんのギターを貸してもらって、歌ってもらえたらうれしいんですが」
勇太は慎吾から古いギターを渡され、チューニングを始めた。
「では歌います」
勇太は唯一の自分の持ち歌を歌い出した。慎吾と美由はこれまでどれだけこの歌を聴かされてきたことだろうかと思った。何度聴いても、ありふれた詩とメロディーに変わりない。心地いいわけではなく、ただ幼稚なだけだ。「浜辺で夕焼けに向かって君に好きだと叫んだ ♬」なんて、高校生の時に作った歌だろう。聴いている方が気恥ずかしくなる。
勇太は初めのうちは恥ずかしそうに歌っていたが、そのうちいつものように乗って来て大きな声を張り上げた。歌い終わると本人は満足そうだった。全員が約束事のように拍手をした。
「どうでした?」
「他人に感想を求めるほどの歌ではないですね」
「えっ、そんなきつい事、ストレートに言います」
「自分でもわかっていらっしゃるでしょう。自分の歌のレベルくらい」
勇太は黙った。
「自分の歌のレベルがわからないようでは、努力のしようがないでしょう」
「それではもう一曲聴いてもらえませんか? 次の歌は自信があるんですよ」
勇太に他の曲があることを慎吾と美由は知らなかった。かれはいつもプロの楽曲のカバーをしていただけだったから。
「もういいですよ。今度にしましょう。今日は慎吾さんの退院祝いなので、おいしくお酒を飲みましょう。まだ、刺身が残っているじゃあ、ありませんか。本当にこのブリの刺身美味しいですね。こんなに美味しいブリの刺身、初めていただきました。イカの一夜干しも絶品ですね。実家のお父様が釣った魚とイカですか」
「そうです。そうですけど、ぼくは田舎に帰りたくないんです。田舎で漁師なんかやりたくないんです」
勇太は歌って一挙にアルコールが回ったようだった。
「別にミュージシャンにならなくても、色々な職業があるのですから、立派な大学を卒業されるんですから、仕事なんて選び放題でしょう」
「ぼくは音楽が誰よりも好きなんです。慎吾よりも、他の部員よりも、誰よりも音楽が好きなんです。この指のタコを見てください。これを見ればぼくがどれだけギターの練習をしてきたかわかるはずです」
勇太は手のひらを開いて、みんなに指の先のタコを見せた。それを見れば、相当ギターの練習に励んでいたことが、一目瞭然にわかった。勇太はただのんべんだらりとした日々を送っていたと今の今まで思っていたが、ここで勇太の別の面を見たようで慎吾は驚いた。
「慎吾なんて、おばあちゃんの世話やバイト、授業で、たいしてギターや歌の練習をしていないんですよ。ぼくの方が何十倍も何百倍も練習してきたんだ。学業を犠牲にしてまでね。それなのに、慎吾がプロになれて、おれがなれないなんて不公平じゃありませんか」
「世の中、そんなものです。努力の量を売り物にしてはおかしいのです。どの分野も同じなのかもしれませんが、芸能関係は努力して当たり前の世界です。努力が必ず実るとは限らないのです。でも、成功を信じなければ、努力なんてできませんけどね」と言って、三枝は自分が俳優になれなかったことを思い出していた。
三枝は昔の自分を勇太の中に重ねて見ていた。若い彼を才能がないと決めつけて、音楽の道から無理やり外させることはできない。十中八九、無駄な試みだとわかっていても、とことんやった末に、自分自身でやめることを決断しなければ、後でどうして音楽の道に進まなかったのか、一生グジグジと後悔することになるだろう。私は花が咲かなかったけれど、自分があきらめるまで役者の道を歩んできてよかったと思う。泥の中で足掻くことがあったとしてもだ。もし、役者の道を歩まなければ、私の人生はなかったはずだ。成功だけが人生ではない。
「あきらめきれないんだよ。おれは音楽を諦められないんだよ。一年生の時、慎吾の歌を聴いた瞬間に、おれに才能がないことがわかったんだ。おまえなんかと会いたくなかったよ。同じ大学に入学するんじゃなかった。田舎じゃあ、ギター弾けるだけで凄かったし、おれの歌で泣いてくれる女の子もいたんだからな。おまえの才能に対抗するためには練習しかないと思って、おれは自分の部屋で一人で頑張って練習してきたんだ。おまえからいいところを盗もうと思って、親しくしてきたんじゃないか。おまえがいなかったら、おれはもっと幸せに生きてこれたはずだ。おまえに対する対抗心がなければ、もっと早く音楽を飽きらめていたかもしれない」
「今日のおまえはおかしいぞ。少し飲み過ぎたんじゃないか。少し横になった方がいいよ」
「おまえはいつもいい奴だ。どうしておまえは悪い奴じゃなかったんだ。おまえの根性がひん曲がっていたら、おれはどんなに安心できただろう。くそ、くそ」
勇太はぼろぼろと涙を流した。三枝は勇太の若さを羨ましく思った。自分もこんな時期があった。劇団の仲間と酒を酌み交わしては激論を吐き、やるせない夜を幾度も過ごした。この歳になったら、こんなに真っすぐな感情を表に出すことはできない。先輩にも同僚にも。ましてや後輩に感情をみせるなんてありえない。
みんなが寝静まった後、三枝は勇太を抱いた。
翌朝、三枝は朝刊を配り終え、道路の沙羅の木の枯葉を掃き終えた美由と一緒に朝食の準備をした。勇太はどことなくよそよそしく、三枝の様子を伺うように、ちらちらと彼女に目をやった。勇太は慎吾や美由に自分が昨夜何を言ったか覚えていないと言った。きっとしらばっくれているだけだ。だけど、彼のプライドを傷つけないためにみんなが「別にたいしたこと言っていなかった」と言った。勇太は「そうだよな」と明るく振舞った。
つづく