20 勇太の事情
20 勇太の事情
慎吾の入院の話を聞きつけた友達の山田勇太が、「よう、元気か」と4人部屋の病室に見舞いに来てくれた。ぼくは松葉づえをついて勇太と談話室に行った。
勇太はお見舞いだと言って、たい焼きの袋を出し、ぼくはそれを受け取って二人の間に置いた。勇太はぼくが元気なのがわかると、持参したたい焼きの袋をおもむろに手に取り、袋を開けて「温かいうちに食べようぜ」とぼくに差し出した。ぼくは「おう」と応えて一個手にした。たい焼きはすでに温かくはなかった。
交通事故の状況を訊かれたので大まかな説明をし、それが一段落すると、勇太は大学の授業の話を始めた。出されているレポートの題名や提出期限を教えてくれた。レポートは病院でもパソコンで書けるだろうから、書いたらメールに添付して自分のところに送ってくれれば、プリントアウトして先生に提出してくれると言う。必要な本があったら病室まで届けてやるから気兼ねなく言ってくれ、と言われた。試験日までには退院できるだろうから、松葉杖をついてでも試験は受けるようにと言ってくれた。相変わらず面倒見のいい奴だ。
勇太は他人の面倒を見ることはできても、自分の面倒はからっきし見ることのできない奴だ。勇太は大学に入学してしばらくすると授業に出席しなくなり、夕方になって軽音研に現れて、部室でギターを弾き、サークルの事務仕事をこなした。ぼくたちが3年生の時は、勇太は軽音研の部長もやった。大学生としては劣等生でも、軽音研生としては優等生なのだ。まるで、軽音研に所属するために大学に入学してきたようなものだ。
今回のぼくの授業の件だって、こいつが授業に出席して得た情報ではなく、わざわざぼくのためにぼくと同じクラスの奴らに聞き回ってくれて入手した情報なのである。他人の心配をするくらいなら自分の心配をした方がいいと思うのに、それができない奴なんだ。
勇太はよっぽど腹が減っていたらしく、1個目のたい焼きを食べ終わるとすぐに2個目に手を付けた。ぼくに向かって、おまえもそろそろ本腰を入れて就職活動をしなくてはいけない、とたい焼きを頬張ったままぼそぼそと話した。
ぼくのことはともかく、勇太は卒業単位が足りないので来年の3月に卒業できないことは、本人も重々わかっているはずだ。3年が終わった時点で1年生の単位もほとんど取れていない。留年という制度がなく、自動的に4年生にまでなれるので、彼も一応4年生ではあるのだが。
彼は授業には出席せずに、夕方に起きて部室に顔を出す、自堕落な生活を送ってきた。バイトをするわけでもなく、実家からの仕送りだけで生活している。時々、彼の実家から送られてきたラーメンや干物、饅頭、煎餅、駄菓子をぼくに分けてくれる。干物やラーメンを勇太の部屋で部員全員で食べたこともある。どうしたわけか、ぼくは入学した当初からこいつと馬が合う。かっこつけずに話すことができる奴だからだろう。当然、ぼくの家の事情は何から何まで知っている。
勇太が辺りを見回して、小さな声で「実は、この前、実家に帰って役場の試験を受けたんだ。親父が強引に勧めるからさ。スポンサーである親父の手前、このくらいはしなくっちゃあいけないだろう。仕送りしてもらっている子供の義務だよな」と切り出した。
「だけど、万が一合格しても、卒業できないんだから、勤めることはできないんだろう。卒業できないことがばれたらまずいんじゃないのか」とぼくもつられて小さな声になっていた。
「それがさ、ネットで調べたんだけど、公務員試験に合格したら、大学を卒業していなくても採用されることがあるんだってよ。大卒が必須条件じゃないそうなんだ。それに、そもそもおれが合格できるなんてありっこないしさ。
親父は一次試験に合格さえすれば、町の議員に頼んでおいたから、二次試験の面接は大丈夫だって言うんだ。おれの田舎はまだそんなことがまかり通っているんだぜ。日本全国どこでも田舎は同じようなものかもしれないけどさ。
おれ、議員の家に土産を持って行って土下座して頼み込む親父の姿を想像して、申し訳ないなって思っているんだ。いつも寡黙で、他人に頭を下げるようなおやじじゃなかったからな。
でも、一次試験の問題が解けなくってさ。おまえ、サイン、コサイン、タンゼントなんて今でも覚えているか?」
「まあ、ぼんやりと。少し勉強すりゃあ思い出すだろう。試験勉強しなかったのかよ?」
「一応、地方公務員受験のための対策本はそろえたんだけど、かったるくて一日で見るのを止めたよ」
「おまえ、これからどうするんだよ。留年してでも、いつか大学を卒業するんだろう」
「俺の成績が親父にばれたら、こっぴどく叱られるな。新入生と同じくらい真っ白だからな。来年から仕送りストップされるだろうな。田舎に連れ戻されるんじゃないかな」
「おまえの家、何してたんだっけ」
「フィッシャーマン。漁師さ。おれ、前におまえに話したことあるよな」
「ごめん、ごめん。そうだったな」
「じいさんと親父二人で小さな漁船に乗ってんだ。それに夏はおふくろとばあさんで海水浴客目当ての民宿をしている。おまえたちいつか行く行くって言ってて、結局来なかったな。海だけはきれいだぞ」
「夏は民宿忙しいんだろ。みんな遠慮したのさ」
「それなら、冬だってよかったんだ。冬の海は夏よりももっと澄んできれいだぞ」
「でも、冬は泳げないものな」
「まあ、そうだけどよ。こう言うおれも、役場の試験を受けるまで、ずっと実家に帰ってなかったものな。この前も一晩泊まっただけだし。ろくろく家の者と話をしなかったしな」
「大学を卒業する気がないなら、田舎に帰って漁師になるのか」
「おれが漁師になれるのかね。このなまった体で。漁師の体は半端じゃないぞ。じいさんの腕なんて、今でもこんなに太いんだぜ。高校3年生の時にじいさんと腕相撲したけど、コテンパンに負けてしまったからな。70過ぎのじいさんにだよ。かわいくないじいさんだよな」
「どうせおまえのことだから手加減したんだろう」
「そんなことするわけないじゃん。漁師は凄いってことよ。沖で荒波にあって転覆すりゃあ、すぐ死んでしまう世界だからな。漁師は毎日命をかけてんだ。おれ、そんな漁師になれるわけないし。そもそも肉体労働したくないものな。おやじも自分の代で漁師は終わりだって言って、おれを東京の大学に送り出してくれたんだぜ。山口から東京は遠いぜ。おやじもおれに相当期待していたと思うんだよな。今さら田舎になんか帰れないよ。大学を卒業できなかった息子なんて、恥ずかしくていらないよ。このまま、東京に残って適当な会社に就職するか? バイトで暮らすのもいいかな。おれの田舎は、漁師と公務員以外に仕事がないからな」
「そろそろおまえも自分の将来のことを真面目に考えた方がいいんじゃないか。ぼくも偉そうなこと言える立場じゃないけど、退院したら就職活動に励むことに決めてんだ」
「おれとデュオを組まないか。一緒に芸能界にデビューしようぜ。おれなんでも下働きをするから、おまえは歌を作って歌ってさえいればいいからさ」
「何言ってんだ。ぼくは子供の頃からサラリーマンになるって決めてんだ。ずっと言ってきただろう」
「もったいないよ。おれがおまえくらいの才能があったら、絶対にプロになるのにな。サラリーマンなんていつでもなれるから、とりあえず二人でプロを目指そうぜ。デュオがいやなら、おれはおまえのマネージャーになるからさ。おれ、口上手いだろう。交渉事はおれが全部するからさ。そもそもサラリーマンのどこがいいんだよ」
「安定しているじゃないか」
「安定か? この日本、どこにも安定なんてないと思うけどな。だけど、おまえ毎週路上ライブをしているじゃないか。一二度観に行ったけど、結構お客さんがいたじゃないか。お客さん、おまえの歌に聴き惚れていたぜ。プロになっても絶対うまくいくって」
「あのくらいのサイズの路上ライブが丁度いいんだよ。アマチュアとプロでは全然レベルが違うって。万が一プロになって一発当たったとしても、安定して食って行けるかどうかわからないだろう。浮き沈みの激しい世界だしさ。そもそも派手な世界は合わないから」
「自分で決めつけるなって。おまえは容姿だって十分に恵まれているんだから。そんじょそこらのタレントと比べても遜色ないって。専属のメイクさんや衣装さんがついたらビッカビッカに光ると思うぜ」
「煽てても駄目だよ。ぼくはおばあちゃんと二人で地道に生きてきたんだから、これからも同じように堅実に生きていくんだ」
「おばあちゃんだって、そう長くはないんだろう。これからは美人の彼女と2人で生きていくんだろう。第二の人生は華やかだって」
「そんなことはないよ。おばあちゃんは、まだまだ元気だ」
「いや、いや、そうむきになるなよ。そんなつもりで言ったんじゃないんだから」
「もう、この話はいいだろう。ぼくたち、大学4年生なんだぞ。そろそろと言うか、今すぐにでも現実的に考えないとな」
「近頃の若者は野心というものがないのかね」
「おまえに言われたくないよ」
「美由もおまえがサラリーマンになるのを望んでいるんだろうな」
「そうだな。ぼくが何になってもいいんだろうけど」
「それはおのろけか? ごちそうさま。ところで、今は誰がおばあちゃんの面倒を見てるんだ? 誰か介護人を雇ったのか?」
「いや、そんなお金はないよ。知り合いが世話をしてくれてんだ」
「おまえにそんな知り合いいたっけ? いくら何でも美由じゃないよな」
「彼女じゃないよ。彼女だって授業があるから。最近路上ライブで知り合った親切な人さ」
「人って、やっぱり女性だよな。おまえ、三角関係になってるんじゃないだろうな。美由を泣かせたら、おれが美由を奪っちゃうぞ」
「邪推はよせよ。ぼくやおまえの母親くらいの年齢の女性で、とっても親切な人なんだ。彼女がいるからぼくも安心して入院できているんだ。そうは言っても、ぼくもそろそろ退院しないとな。いつまでもその人の世話になっているわけにはいかないし」
「おばあちゃん、元気なのか?」
「元気というわけにはいかないだろう。相変わらずだよ。美由が定期的におばあちゃんのビデオレターを送ってくれるから、安心してんだ」
「そうか」
「おまえ、他人の心配より自分の心配をしたらどうだ。そろそろ真面目に授業に出て、一年、いや二年や三年遅れても大学を卒業しろよ。単位を少しでも取って、心を入れ替えたところを見せれば、親父さんもこれまで通り仕送りをしてくれるって」
「それが、心が入れ替えられないのが、おれっていうものよ。そろそろ潮時かもしれないな。東京に住んだ記念に、おれもおまえのように一発路上ライブでもやってみるか」
「ああ、やってみなよ。楽しいぜ。手ごたえがあるからな」
「おれの場合、手ごたえなんてないと思うけどさ」
「彼女とデュオで歌うのもいいんじゃないか。うまくハモっていたじゃないか」
「だれだ、その彼女って」
「1年生のアキちゃんだよ。この四月から2年生になったか」
「ああ、アキとはあの後すぐに別れたよ」
「またか。おまえは続かないな」
「女運がないんだよ」
「女のせいにすんなよ。彼女の方が男運がないって嘆いているよ」
「嘆いちゃいないだろうけどな。あれで結構さばさばした女だ。それにしても、おれが飽きっぽいだけかもしれないな。おれ、そろそろ帰るわ」
「今日はありがとう」
「たい焼き、あと2個残っているから、美由と食べてくれ。電子レンジもそこにあることだしな。そのうち実家から新鮮な魚が送られてくると思うから、退院祝いにおまえの家に持って行くわ。それまでには退院しろよ」
「おう」
気の許せる唯一とも言っていい友だ。勇太にはきっとぼく以外にも知らない所でたくさんの親しい友がいるのだろうが、ぼくには彼が唯一といっていい友だった。
つづく