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沙羅の木坂の家  作者: 美祢林太郎
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19 未華子の決意

19 未華子の決意


 未華子はなんとかこの家に居座り続けたいと考えた。


 私は別に慎吾に対して男としての興味を抱いているわけではない。私は独り者だけど、特段男に不自由してはいない。体を絡ませたくなったら、スナックで隣の席の男に色目を使えばいいだけだ。今までもそうしてきた。美人じゃなくったって、色目の使い方は、そんじょそこらの女には負けない自信がある。なんてったって、私は25年近くも役者をやってきたんだから。

 慎吾は自分の子供のような年齢だ。私は彼に性的な魅力を感じたことがない。寝てみたいと思ったことも一度もない。彼も私を女としてはみていないだろう。それでも、美由が心配しているのはありありとわかる。それが女として普通の感覚だろう。夜の聞こえよがしの喘ぎ声は、「私から慎吾を奪うな」、という警告だということはよくわかっているよ、美由。あんた、抱きしめたくなるほどかわいいね。

 だけど、美由のような世間知らずの小娘は私の敵ではない。いざとなったら、昔の知り合いに頼んで、シャブ付けにしてAV女優に売ることだってたやすいことなんだ。美由のようなお嬢さんは脇が甘すぎるからね。でも、美由がAV女優になったら慎吾の精神状態はおかしくなってしまうだろうね。慎吾を私はおかしくはしたくない。そうならないように、くれぐれも美由は大人しくしておいて欲しいんだ。努々私をこの家から追い出そうなんて画策してはいけないよ。よがり声くらいは許してあげるからさ。

 私がこの家に居続けるためにはどうしたらいいんだろう。慎吾と肉体関係を結んで美由から彼を奪うことは、それほど難しいことではない。慎吾はこれまで女の体のとりこになったことがないだろうからね。おそらく美由が初めての女だし、彼女以外の女を知らないはずだ。だけど、かれとはそんな関係になりたくない。どうしてだろう。私は男が嫌いなわけではないし、若い男も好きなはずなのに。慎吾の風呂上がりの無防備な裸の上半身を見ても、私は何も感じない。あの女子高生たちだったら彼の上半身裸を見ただけで、周りの人間が恥ずかしくなるほど発情するはずだ。

 私は彼の歌を聴きたいだけだ。彼が今のような透明度の高い歌を作って歌い続けるには、中年女の締まりのない体に溺れない方がいい。歌が濁って来る。とにかく、私は慎吾の歌を愛しているんだ。

 いや、正直に言うと、それだけではないような気がしてきた。かれの歌を聴きたいだけなんて、そんなの嘘っぱちだ。それなら、彼との同居を望まなくったっていいはずだ。かれの路上ライブやコンサートに行ったらそれですむはずだし、それ以上を望むなら、同居している今だったら一緒にカラオケに行くことだってできるではないか。

 私は慎吾を世に出したいのだろうか? 確かに慎吾の才能には興味がある。だが、私は裏方になろうなんて劇団にいる時からこれっぽっちも思ったことはない。私は自分自身が目立ちたかったのだ。私がスターになりたかったのだ。もしかして、年を取るとそうした考えが変わってくるとでもいうのだ ろうか? 自分が知らないうちに。

 私はかれをどこかで自分の子供のように思っているのではないだろうか。多分、間違いない。昔、好きでもない男との間にできた赤ちゃんが今生きていたら、丁度慎吾と同じくらいの年齢になる。赤ちゃんは早期に堕したけど。それ以後、その子のことを思い出すことはなかったけれど、慎吾を始めて見た時、恐ろしいことに、私が堕した名もない子のことがパッと頭に浮かんだ。それは彼の歌う『沙羅の木坂』という歌を聴いたせいもあるのだろうか。「降りしきる坂の上 あなたを待っています ♬」って。あなたって私のことじゃないのはわかっているけど、感情移入しちゃったんだよね。

 もしあの時堕さずに人並みに育っていれば、慎吾のような明るい若者に成長していたのだろうか? 私のことをお母さんと呼んでくれているのだろうか? 慎吾がおばあさんを慕うように、私の息子は私を慕ってくれているのだろうか? 二人の生活はいったいどんなものだったのだろうか?

 でも、私、堕しちゃったんだよね。母と呼ばれるような資格はないか。私はついつい慎吾を私の息子の生まれ変わりのように思ってしまった。そう言えば、堕した子は男の子だったか女の子だったか、医者に訊かなかったっけ。

 慎吾の見舞いに病院に行った時に、看護師さんに「お母さんですか?」と訊かれたのがよっぽど嬉しかったのだろうか? 私はあの時、慎吾のお母さんになりたいと思ったのだろうか? 私、これまでそんな母親願望なんてなかったのに。小劇団を辞めて、スーパーのレジ打ちになっても、それなりに楽しかったものね。週一のシャネルスーツへの変身もあって、一人で暮らしていても何の不満もなかった。

 慎吾がおばあさんを慕うのは、おばあさんが慎吾を育てたからだよね。育ててもいない慎吾を息子のように思うのは、少し調子が良すぎるよね。いいとこどりだけだものね。

 慎吾と美由と私の3人で良好な関係を築き上げるためには、どうしたらいいのだろう?おばあさんの面倒を看ることだ。私抜きではおばあさんの世話ができないと思わせるくらいに、完璧な介護をすることだ。これまで一日二食だったところを、一日三食にしよう。あの二人にはこれは無理だ。日中もこまめにおむつを替えてあげよう。床ずれがしないように、何度も体の向きを替えてあげよう。何度も髪を梳かしてあげよう。もっと美味しい流動食を研究しよう。

 おばあさんと私と慎吾が3代続く疑似家族になれればいいのだが、そんなことが本当に可能なのだろうか?

 一人住まいの私には、たいした貯金がない。そもそもスーパーの定員の収入は知れたものである。それでも生活費を切り詰めることで、なんとか今までやってこれた。給料を少しずつ貯めて、たまに中古のブランドの服やバッグを買って身に付ける。こんな贅沢くらいは許されていいはずだ。

この家では、足を怪我したために慎吾が働くことができなくなり、私が一人増えたことで食費が重なり、家計のやりくりはじきに大変になるはずだ。美由の家からの持続的な支援を慎吾は望んでいない。当座は私のなけなしの貯金を崩すにしても、それだけではすぐに破綻してしまう。この家に同居するためには、私はどこかからお金を捻出してこなくてはならない。おばあさんの面倒を見ながらでは、私にそれほど時間に余裕があるわけではない。今さらスーパーマーケットで働くことはできない。そもそも、スポットでスーパーマーケットで働くことはできない。時間をかけずに、空いた短い時間でお金を手に入れるためには、体を売るしかない。まだ私の身体は売れる。美由が恐れるほどに、私の体は熟れている。

 これまで私は体を売ったことはない。劇団員だった頃、劇団幹部と劇団の後援者との宴席に私は連れて行かれた。私はそこで泥酔させられて、小劇団の後援者の酒屋の店主に抱かれた。この中年男には3人の子供と妻がいた。きっと、チケットを売るために劇団幹部が私を後援者に貢物として差し出したのだ。私は泥酔させられたと言ったが、正直に言うと、私がこの日貢ぎ物になることは薄々気づいていたので、自ら強い酒をがばがばと飲んで酔い潰れたのが真相だ。しらふのまま好きでもない男に抱かれたくはなかった。私は事を荒立てることなく、その後もこの男と関係を持った。男は私を抱いた後に、必ずわずかばかりの金をくれた。そのうちその男は私に飽きたのだろう。劇団の若い女とできて、我々二人の関係は終わった。私には何の未練もなかった。

 おばあさんは余命幾ばくもないだろう。おばあさんが亡くなった後も、慎吾と美由との疑似家族の関係を保つためには、どうすればいいだろう。おばあさんが死んでから考えるようでは遅い。もう考えておかなければならない。私にできることと言ったら、慎吾をプロのアーティストにして、私が慎吾のマネージャーになることくらいだろう。これが一番現実的な方策だ。慎吾にはプロになる才能がある。それに美由だって・・・。

 なにがなんでも、慎吾をプロのアーティストにしよう。彼なら絶対になれる。劇団のかつての知り合いの中には、テレビタレントとしてそれなりに売れている後輩や、芸能界に入り込んでマネージャーとして成功している輩もいる。そうした人間の伝手を頼って、慎吾をプロの歌手にするんだ。そして私が彼のマネージャーになれば、慎吾とは切っても切れない関係になる。家族の関係よりもビジネスの関係で結び付いておいた方が、二人の関係は長く続くはずだ。慎吾がミュージシャンとして成功し続ける間は、この家に居続けることができるんだ。

 成功したら何もこのおんぼろの家に住み続ける必要はない。このおんぼろの家を取り壊して、鉄筋コンクリートの3階建ての家を建てよう。それとも、3人でタワーマンションに移ってもいいだろう。マネージャーになったら、私は新品のシャネルスーツを何十枚も買うんだ。

 当面はおばあさんの介護がメインになる。おばあさんを介護することによって私は良い人でいられるんだ。そのことをくれぐれも忘れてはいけないし、ことを急いでもいけない。

 一か八か私はこれまで住んでいたアパートを解約することにした。背水の陣で事に臨むのだ。でも、中古の高級スーツや靴が多かったので、小さなレンタル倉庫を借りてしばらくの間、それらをそこに収納しておくことにした。

 慎吾は松葉杖をついて、大学に行くようになったが、さすがにまだバイトは休んでいた。三枝は慎吾の代わりに新聞配達をするようになった。慎吾の代わりに新聞配達をする人が見つからずに困っていた新聞屋のおばさんに泣きつかれたからだ。三枝は慎吾と同居できるならば何でもする覚悟があったので、喜んで新聞配達を引き受けた。収入が目当てではなく、慎吾と美由に認められたい一念からだ。シャネルスーツの三枝のイメージはどんどん崩れていった。

 三枝は出会い系サイトで知り合った男と、日中時間が空いた時にホテルに行って金を稼いだ。ホテルのトイレで衣服を着替え、化粧をした。上流家庭の身持ちの硬そうな女に扮して、高級なイメージの女に変身した。見も知らない男と同じ寝るなら単価が高い方がいい。服装や化粧だけでなく、振る舞いや口のきき方を含めた変身の仕方は、役者時代に身に付けていたし、中古のブランド物の衣服やバッグ、靴の小道具は、これまでに十分買い溜めてあった。

 冷静に考えれば、身を売って収入を得るならば、何も便臭のする慎吾の家に住み続け、縁もゆかりもない赤の他人の老婆の下の世話までする必要はないだろう、と誰かに言われても不思議ではない。三枝はいったい自分が何をしようとしているのだろうか、とはたと考えることがあった。自分は倒錯しているのではないだろうかと。

 自分はそこまでして家族ごっこがしたいのだろうか? 少し前までは、そんな人間関係は煩わしいだけだったではないか。それなのに、私は自己犠牲を払ってまで、家族ごっこをしたがっている。何が私を引きつけているのだろう。慎吾か? それならば、かれと同じ年頃の男の子は巷にたくさんいるではないか。この家か? それも便臭が立ち込め、今にも崩れそうな、寝たきりの老婆付きのこのおんぼろの家か? そんなことはない。よっぽど一人で住んでいた前のアパートの方がましだ。

 それとも、この家に似つかわしくない見事な沙羅の木か? おそらく、この沙羅の木が慎吾の歌う沙羅の木なのだろう。沙羅の木が私を誘っているのだろうか? 私は沙羅の木の精に憑りつかれたのではないだろうか? 頭が整理されなくても、私はこの家に住み続けるのだ。


     つづく

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