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沙羅の木坂の家  作者: 美祢林太郎
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1 路上ライブ

1 路上ライブ


 早春の日没は、冬がまだ未練がましさを残しているようで、期待しているよりも早い。


 東京下町の駅前は学校や仕事を終えた人たちの往来で賑わっている。人々は脇目も振らず、誰かとの待ち合わせ場所に急いでいる。彼ら彼女たちの待ち合わせ場所は、公園かもしれないし、喫茶店かもしれないし、仕事場かもしれないし、ラブホテルかもしれないし、家族の待つ自宅かもしれない。はたまた、誰も待たない部屋なのかもしれない。

 約束の場所に待っていてくれる人はいるのだろうか? そんな一抹の不安を抱えて、先を急ぐ。こうして、駅前はいつもと変わらない残像が積み重なっていく。

 駅から延びたペデストリアルデッキの一角に小さな人だかりができていた。人垣の間をアコースティックギターの優しい音色と爽やかな歌声が、夕刻の冷たい風を薄っすらと温めるように通過してきた。人々の描く半円の中心には、簡易のパイプ椅子に座った学生風の男がギターを抱くようにして一言一言丁寧に歌っていた。最前列の観客は、その歌に感情移入をしているようだった。その中には涙を流している少女もいた。

 薄暗くなった空の下、喧騒の駅前にあって、この開かれているようで閉じられている一角だけが、一瞬の安息を与える聖なる空間を醸し出していた。

 歌が終り、ギターの繊細な音がフェィドアウトしてゆき、それが完全に聴こえなくなるのを待っていたかのように、居合わせた人たちの精一杯の拍手が起こった。拍手とともに、それまで俯いて微動だにしなかった若者が、ゆっくりと顔を上げていった。透明感の声に違わぬ端正な顔立ちをしていた。男の子は立ち上がり、照れくさそうに頭を下げて、観客に礼を伝えた。その照れくさそうな表情がまた初々しく、女性の琴線をくすぐった。

 彼のすべての所作が、公衆の面前で歌うことに慣れていないことを示しているかのように、おっかなびっくりの風情があった。おそらく路上ライブを開くのは今日が初めてか、経験があったとしても、まだ数回目というところだろうか。

 一人のOLが前に出てきて、財布から五百円硬貨を取り出して、膝を折って地面に置かれた空缶の中にその硬貨を音がしないようにそっと置いた。彼女は膝を伸ばして、腕時計を見て、足早に駅の改札口に向かった。あの急ぎようを見ると、約束の時間が迫っているのかも知れないし、すでに過ぎてしまったのかも知れない。若者はその女性の背中に向かって小さな声で「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げて礼を言った。その態度からも、彼の誠実な人柄が読み取れるようだった。缶の中には、3枚の百円玉と1枚の十円玉、それに今入れられた五百円玉が入っていた。

若者が聴衆に向かってぽつぽつと話し出した。

 「今歌ったのはぼくが作詞作曲した『あの橋の向こう』です。

次が最後の曲になります。最後の曲は『沙羅の木坂』です。

 沙羅の木は、別名夏ツバキともいい、いやおそらく夏ツバキの方が通りがいい名前ですね。みなさんのおうちの庭にシンボルツリーとして植えられていたり、生誕の記念に記念樹として植えられているかもしれません。家だけじゃなく、公園にもたくさん植えられていて、6月から7月にツバキに似た白い花がたくさん咲きます。みなさんもどこかで目にしたことがおありですよね。夏ツバキという名前がついていますが、春に咲くツバキとは何の縁もないようです。

 夏ツバキが沙羅の木と呼ばれているのは、仏教を開祖したブッダが沙羅双樹の木の下で亡くなられたことにちなんでいるそうです。日本の沙羅の木は、ブッダが亡くなった熱帯の沙羅双樹の木とは違うらしいのですが、日本では平家物語が成立した鎌倉時代の頃から、夏ツバキのことを沙羅の木と呼んでいるようです。この豆知識は、ネットの受け売りです。

 沙羅の木の花言葉は「はかない美しさ」です。沙羅の木の花は朝咲くと夕方には散ってしまいます。そんなはかない美しさと悲しさを歌にしました。聴いてください」

 真ん前でしゃがんで聴いていた3人組の女子高生が、互いに目を見合わせて嬉しそうに頷き合った。彼女たちの一番のお目当てはこの歌のようだった。

 「誰が名付けたか沙羅の木坂 今日も一人悲しみを連れて登っていく ♬」と歌い始めると、彼の透き通る声は闇夜に沁みて解けていくようだった。先を急いでいた無表情な通行人たちの耳にも、その歌声が自然と浸みて行くようで、通行人は小さな人だかりの方に、はたと顔を向けた。誰もが気になる歌であり歌声だった。ペデストリアルデッキの上で立ち止まって、その歌に聴き入る人が増えていった。聴いている人たちは、この日にあった嫌なことを一瞬でも忘れ、心が洗い清められるような思いになった。

 曲が終わった後、盛大な拍手が起こった。最前列の中央で聴いていた女子高生の朱美が「ねっ、ねっ、私が言った通り、素晴らしい歌だったでしょ」と興奮した面持ちで傍にいた友だちの姫香と祥子に同意を求めた。同意を求められた二人も興奮したようで「凄いよ、凄い」と大いに感動しているようだった。「塾を休んで正解よね」と姫香が言い、朱美が「それは内緒だからね」と小声で言ったが、二人の会話が耳に入って来た隣の中学生の男の子がくすりと笑った。

 「今日はどうもありがとうございました」と、歌い終わった若者が、解放されたように清々しい表情で言うと、どこかから「アンコール」という声がかかり、居合わせたみんなが手拍子をとりながら「アンコール、アンコール」と合唱した。

 若者は困ったようだったが、「いつか、いつかきっとアンコールに応えたいと思いますが、今日はこれで終わりにさせてください。また、ぼくの歌を聴いてくださることを楽しみにしています。本日はありがとうございました」と観客に向かって深々と頭を下げた。

 多くの人たちが財布から取り出した硬貨を空缶に入れ、一人のおばあさんが「頑張ってくださいね」と声をかけてくれたので、若者はにっこりと笑って明るく「はい」と応えたが、ふと自分は何を頑張ればいいのだろう、と不思議な感覚にとらわれた。ライブにだろうか? それとも生きていくことにだろうか? おばあさんは杖をついて足を引きずるようにして去って行った。駅前の時計台から6時のチャイムがなった。

 みんなが去った後もその場に居残っていた女子高生の朱美が「まだ6時だよ。5時半から始めてたった30分しか経っていないよ。もっと歌ってよ」と言うと、若者は「ごめん。これから用事があるんだ」と応えた。朱美は「前回も用事があるって言って、早く帰ったけど、アルバイトでもしてんの?」と友だち二人に彼との親しさを見せつけるように、若者に馴れ馴れしい口をきいた。実際に話すのは今日が始めてだったのに・・・。「そんなところだよ。またね」と言って、投げ銭の入った空缶に蓋をして、デイパックの底に押し込んだ。ギターをケースにしまい、譜面台と椅子を片付けて、デイパックとギターを担いで歩き出した。

 若者が歩き出すと、片隅で静かに路上ライブを聴いていた長い髪のワンピース姿の美しい女性が、ニコニコとほほ笑みながら彼にスーッと近づいて来て、彼の隣に並んで二人で楽しそうに会話をしながら、駅の改札の方に向かって歩いて行った。残された女子高生3人が2人の背を見つめ、いくぶん口を尖らせて話し出した。

 「ねえ、ねえ。あれ、彼女なの?」

 「多分、そう。前回も一緒に帰って行ったから」

 「悔しいけど、美人ね」

 「悔しいけどね」

 「でも、私だって大学生になったらあのくらい美人になれんじゃないの。まだ丸々2年あるわよ」と朱美が言った。

「無理、無理。元が違うから。そのダンゴッパナ、鏡で見てみなさいよ。それが高くなるなんてありえないから」

「ひどいこと言うな。でも、友だちだから許してやる。よし、こうなったら、整形するか。高校卒業したら春休みの間に鼻を高くするんだから」

「整形したら、友だちやめちゃうからね」

「どうしてよ」

「私よりブスがいなくなっちゃうじゃない」

「あっ、それ最低」

「こんなこと言ってくれるのは私くらいよ。ともだちに感謝しなさい」

「まあ、まあ、これくらいにして、久しぶりにプリクラを撮りに行こうよ。鼻を高くして美人になろうよ」

「目もぱっちりと加工しようね。17歳の私たちのリアルな顔は、永遠に記録に残らないんだ」

「残せるような顔じゃないし」

「それもそうね」

 朱美が鞄を夜空に放り投げてキャッチし、「ああ、これで一週間が終わっちゃった。また退屈な一週間が始まるんだ」と大げさに言った。祥子が「そうよね」と同意すると、姫香が「祥子は彼氏がいるからいいじゃない。毎日楽しくって仕方がないんじゃない」とはやし立てた。

 朱美は「親ガチャで、私の容姿なんてこんなものよ」と投げやりに言った。姫香が「私がお母ちゃんに親ガチャだって言ったら、即座に子ガチャだって言い返してきたんだ。まあ、お互いさまじゃないの」と言い、朱美が「それもそうか」とおとなしく同意して、三人は大きな声で笑った。「早くプリクラに行こ」と祥子が言った。

 三人が歩いていると遊び人風の若い2人の男が声をかけてきたが、3人は彼らを適当にあしらって、繁華街の方に急いだ。


     つづく

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