17 未華子の同居
17 未華子の同居
美由と三枝は、美由が買ってきたショートケーキを食べながら、これからのことを話した。三枝は慎吾が退院するまでこの家に泊まり込んで、おばあちゃんの世話をすると言った。そんなに仕事を休んで大丈夫なのかと美由が訊くと、昨日関係するところにすべて電話をして、一部の仕事をキャンセルしたりしばらく休むことにしたが、ほとんどはこれまで通りオンラインで続けていけると言った。一人でやっているフリーランスの仕事だから、仕事は融通できるので支障はないそうだ。急ぎの仕事で、たまに昼間や夜に出かけることがあるかもしれないが、おばあさんの介護に迷惑はかけないから心配ないと言った。でも、彼女はパソコンを持って来ている風ではないし、パソコンを開いているのを見たこともない。まさかスマホですべてを済ませているのだろうか?
三枝は今朝になって、スーパーマーケットの店長に母が交通事故にあって大けがをしたのでしばらく休ませて欲しいと嘘の電話をした。店長はこちらは心配いらないから母親の看病をしてあげなさい、と言ってくれた。私はこのスーパーに勤め始めてから、一日も休んだことはないし、無遅刻無早退だから店長からの信頼も厚い。私は店長や同僚たちから、凄腕のレジ打ちだと評価されている。これも役者だった頃に習得した技術だ。私はとりあえず一週間の休みをもらった。
美由は、もし三枝に負担をかけるようだったら、プロの介護人を雇うから遠慮なく言って欲しいと申し出た。おばあさまの介護や食事にかかる経費についても、心配いらないと言った。美由は昨夜のうちに自宅に電話をいれて慎吾の交通事故の状況を説明し、母親が手伝うことがあったら何でもするからと言ってくれた。翌日、母からの電話で、父がお金のことは心配するなって伝えておいてくれと言われた。妹も病院に見舞いに行くと言っているらしいが、それは断った。
三枝は、自分一人でおばあさまの介護はできるから、心配いらないと言った。たしかに、台所もきれいに片付いているし、おばあさまの衣服やベッドのシーツもすべて取り換えて、きれいに洗濯を済ませ、丁寧にアイロンがけがされている。部屋の片付いた状態を見ても、慎吾のような男仕事よりもきめ細やかな女の仕事だということが一目瞭然だ。いままで家が片付いていなかったのは、私がだらしないからだ、と三枝は思っていないだろうか? 美由は三枝に軽い嫉妬をおぼえた。
この見事なまでの家事は、シャネルスーツを着た女からは想像もできない。そう言えば、彼女は自分の家から衣服を持って来て、この頃は汚れてもいいようなカジュアルな服を一日中着ている。カジュアルな服とはいえ高級なブランド品は巷に溢れている。それなのに、彼女が着ている服は安物売り場で山積みになって売られているものばかりだ。シャネルスーツとあまりにギャップがある。それに洗濯して干してある彼女の下着も高級な物ではない。バーゲンセールの安物を何年も着古しているような代物だ。おばあさまを介護する彼女の手を見ると、いつも水仕事をしているようにごわごわしていた。決して滑らかなきれいな手ではない。それに化粧っ気がなくなってくると、彼女からシャネルスーツを着た颯爽とした姿を思い浮かべることができなくなった。彼女はまるで専業の家政婦みたいだ。
美由は色々と用事があるので、これから自宅に戻ると言った。そして、当座のお金だと言って三枝に封筒をそっと差し出した。三枝が確かめると、封筒の中には十万円が入っていた。若いのに色々と気が利く女だ、と三枝は思った。三枝はお金は大丈夫だからと言って、現金をしまった封筒を美由に戻した。美由は当座の食糧品代だから、このお金を使っておばあさまに元気のつく物を食べさせて欲しい、と頼んだ。三枝へのお礼はまた別の機会にするので、と付け加えた。
こうしたことは慎吾から指示されたものではないのだろう。きっと美由がてきぱきと一人で決めたことだ。外見はどう見ても世慣れているようには見えないのに、どうしてこんなに気が利くのだろう。それもすべて嫌味がない。よっぽど頭がいいのだろう。三枝は大人しく封筒を受け取った。正直、三枝にはそれほどお金の蓄えがなかったのだ。
美由は昼間は大学に行って、その後は病院に慎吾を見舞って、おばあさまの世話を三枝がしてくれている状況を話した。おばあさまと食べた料理の写真を見せて、慎吾を安心させた。
美由は軽音研の友だちである山田勇太に慎吾の事故のことを話し、勇太に協力を求めた。勇太は快く頼まれごとを引き受けた。その頼まれごととは、慎吾が受講している大学の授業の担当の教員に会って、慎吾が交通事故に遭ってしばらく入院するので授業には出席できないことを、入院証明書を持ってかけ回ることだった。勇太自身が授業に出席していないにも関わらず、一生懸命に頼まれた仕事をこなしていった。美由はファミレスのバイトをやめた。
美由が慎吾の家に来たら、それが何時であろうと必ず道路に落ちた沙羅の木の落ち葉を掃除する。これはきっと自分がしてはいけないことなのだろう、と三枝は思った。三枝は美由と張り合う気持ちはさらさらなかった。美由とも良好な関係を築かないと、ここにはいれなくなってしまう。
交通事故に遭った翌週の月曜日、慎吾はまだ入院していたので、当然のごとく駅前での路上コンサートを開催することはできなかった。女子高生の朱美は午後5時半になっても現れない慎吾が心配になっていた。そこに美由が息せき切ってやってきて、慎吾が交通事故に遭って入院したので、残念ながら今日のコンサートは開くことができませんと、集まった人全員の前で説明した。居合わせたみんなは「ええっ」とびっくりした。「大丈夫なんですか?」「生きているんですか?」「どこの病院ですか?」と女子高生たちが矢継ぎ早に質問したが、美由は「ぴんぴんしているので、ご安心を。ちょっとした怪我ですから、もうすぐ退院できるので、再来週にはここでコンサートを再開できるだろうと、唐木が言っていました。またその時はよろしくお願いします」と言って美由は深々と頭を下げた。朱美は涙を流していた。美由は彼女に「心配してくれてありがとう。これからもよろしくね」と優しく言った。朱美は美由に抱き着いてさらに泣いた。
慎吾は事故から10日経って、予定よりも早く退院した。ギブスははずれたが、それでも歩くのは松葉杖を使わなくてはいけなかった。入院中にリハビリを初めて痛そうに歩行訓練をしていた。医者は若いから治りが早いと言って褒めてくれた。
退院する朝には、入れ代わり立ち代わり看護師がかれのもとに別れの挨拶にやってきた。かれは病棟で人気者だったのだ。かれに言い寄ろうと思った看護師もいたようだが、毎日見舞いに来ていた美由との仲睦まじさを見せつけられたら、誰も告白することはできなかった。一番下っ端と思われる看護師が「また来てくださいね」と元気よく言って、先輩の看護師にこっぴどく叱られた。みんなが笑った。
入院用のパジャマからジーパンとTシャツに着替え、髪に櫛を通した彼は、ベッドに寝ていた頃よりも一層輝いて見えて、看護師たちも思わずはっとした。どこにいても彼はスター性がある。
慎吾が美由と一緒に自宅に帰って来ると、真っ先におばあちゃんに「ただいま」と挨拶をした。おばあちゃんからは何の反応もなかった。それでも慎吾はおばあちゃんに会えたことがとても嬉しかった。おばあちゃんの様子は毎日美由から見せられる写真や動画でわかっていたのだが、それでもおばあちゃんに会って顔や髪に触れられるのが嬉しかったのだ。慎吾がおばあちゃん子だということが、美由は今更ながらにわかった。
慎吾は三枝におばあちゃんのお世話をしてもらったことの礼を丁重に言った。慎吾が久々に会った三枝は、以前のシャネルスーツを着たキャリアウーマンのような女性とはまったく違っていた。隣近所のジャージ姿のおばさんとそれほど違わないのだ。あまりに違和感があった。
三枝は、慎吾の足がまだ不自由なのだから、完全に治りきるまで、もう少しここに住み込んで、おばあちゃんの面倒をみると言った。それにおばあちゃんも私に懐いてくれていると言って、おばあちゃんの顔を撫でた。表情の変わらないおばあちゃんの顔からは、本当に懐いているかどうかはわからない。
慎吾と美由は顔を見合わせて少し困った顔をして、慎吾がそこまでしていただかなくてももう大丈夫だからと言ったが、慎吾の足では掃除や洗濯をするのも不便だろうし、大学にも行かないと卒業できなくなると心配してくれた。確かに、松葉杖をついた足では家事と学業を両立させるのは難しいだろう。
美由が快活に、「それでは、もうしばらく三枝さんに甘えることにしましょう」と切り出して、この問題は一件落着した。慎吾には学業と就職活動が差し迫っていて、おばあちゃんの世話をするのが無理なことくらい、美由にもわかっていたのだ。
三枝の料理はとても美味しい。病院食と比べているわけではないし、おばあちゃんの料理と比べているわけでもない。おそらくこの料理の深い味つけは高級料理屋に匹敵するのではないだろうか。どれも家庭料理の範疇なんだけど。そのことを美由に言うと、その通りだと同意した。美味しいものを食べ慣れている美由が言うのだからやっぱり当たっているのだろう。彼女はどこで料理の修行をしたのだろうか? 考えてみると、彼女は不思議な人だ。ぼくたちは詳しく彼女のことを知らない。
三枝はスーパーマーケットの店長に休暇の延長を申し出たが、電話の先の店長は不満な様子だった。一度顔を出して欲しいと言われた時は、そろそろ出勤しないと解雇されることを察した。解雇を言い渡される前に、自分の方から辞めることにした。
退職願を持参した日、店長からは形だけ慰留され、いつでも戻ってくるようにと言われた。三枝は、「その時はお願いします」と丁重に返した。
慎吾と美由がいつから路上コンサートを再開するか話し、美由が早くても再来週からで良いのではないかと言うと、慎吾はギターが恋しいから来週から開催すると言った。一度言い出したら覆らないことを知っていた美由は、それ以上反対しなかった。慎吾はギターをつま弾いて小さな声で歌い出した。「沙羅の花が散り、暑い夏に懐かしい魂が戻って来る ♬」と『沙羅の木坂』を歌いだした。
つづく