16 慎吾の交通事故
16 慎吾の交通事故
月曜日の路上コンサートが終わって、慎吾と美由と三枝が喫茶店から出て、よっぽど話が会ったのか、慎吾の家で3人で食事をすることになった。もちろんおばあちゃんが寝たきりであることを三枝にも話をしたし、家が排泄物で臭いことも話をした。ぼろ屋なので、高級な洋服が汚れるかもしれない、とも話した。それでも、三枝は行くことに躊躇はなかった。三枝はバツイチの独り者で、夜は気ままなのだと言った。慎吾と美由も話し足りなかったので、買い物をして家で食事をしながら話の続きをすることになった。
スーパーマーケットで、三枝は手際よく惣菜と飲み物を見繕った。美由は三枝が独り者なので、買い物は手慣れているのだろうと思った。買い物の代金は、すべて三枝がルイビトンの財布から出したクレジットカードで払った。美由は三枝の出したカードが「プラチナカード」や「ゴールドカード」ではなく、楽天の「一般カード」であることが少し不思議に思えた。三枝は美由が見ているのを感じて、カードを急いで財布にしまった。慎吾はそんなことを気に掛けず、楽しくて仕方がない様子だった。
家に入ると、三枝は便臭にも嫌な顔一つせずに、寝たきりのおばあちゃんに丁寧に挨拶をした。慎吾がおばあちゃんに水を飲ませて、風呂に入れ、着替えをして、食事を与えている間、美由と三枝が二人で手際よく部屋を片付け、サラダを作って、惣菜を盛り付けて、食卓に並べた。3人は食事をしながら歓談した。
慎吾は三枝から音楽性を高く評価されたので、気持ちがかなり高揚していた。美由や友だちの勇太に褒められても慣れっこになっていたし、これまで世代の違う人に面と向かって称賛されたことはなかったからだ。それにこの三枝という人が音楽関係の仕事についているプロならばなおさらのことだった。
舞い上がっていた慎吾のスマホに、フードデリバリーの営業所から配達の仕事の知らせが入った。かれはちょっと仕事をしてくるから、と言って出かけて行った。
彼が出かけて1時間近くが経った。美由と三枝は芸能人の話などをして、楽しく会話した。遠くから救急車のけたたましいサイレンの音が聞こえてきたが、都会では珍しい事ではなかった。病院から美由のスマホに連絡が入ったのは、さらにその1時間後だった。
自転車に乗った慎吾が車と接触事故を起こして、救急車で病院に運び込まれたというのだ。時計は11時を回っていた。美由がタクシーで病院に行き、三枝が家で留守番をすることになった。
警察の報告では、慎吾は配達の仕事が終わって自転車で帰宅する際に、左折する車に接触して転倒したそうだ。かなり遠くまで飛ばされたそうだが、幸い他の車に轢かれることはなかったし、縁石などで頭を打つこともなかったようだ。警察官の横には、気弱そうな中年の男が項垂れて立っていた。きっとこの男が慎吾に怪我を負わせたのだ。慎吾にもしものことがあったら、私はこの男を許さない、と美由は思った。
当面の検査では、脳や内臓には異常はなく、左足の大腿骨にひびが入っているだけだった。慎吾は予定では2週間入院することになった。左足にギブスをしてベッドに横になっていた慎吾は、美由の顔を見ると右手を上げて「やっちまったよ」とはにかみながら言った。美由はいつもと変わらない彼を見て胸を撫で下ろし、涙が溢れてきた。美由のために簡易ベッドが準備され、かれのそばで寝た。
翌朝、三枝が病院に来た。慎吾はベッドに横になったままで、右足や他のところも痛かったのかもしれないが、彼女たちにはいつもと変わらない元気な表情を見せた。
看護師が慎吾に保護者の方はいないのかと訊いてきたので、彼は祖母がいるが寝たきりなので、自分の世話をしてくれるのは「ここにいる恋人の美由です」と、看護師に紹介した。こうした時、許嫁ならともかく恋人というのは公に通じる称号なのだろうか? そう美由は思ったが、我々の関係は恋人以外の何物でもない。最近の呼称では「パートナー」と言うのかもしれないが、やはり二人には「恋人」の方が妥当だと思った。
慎吾は、おばあちゃんの世話をしなければならないので、すぐに退院すると医者や看護師を困らせた。大腿骨にひびが入っているし、他の内臓器官だってこれからどのような障害が出るかわからないので、もっと詳しい検査をしなければならない、と医者が強い調子で言った。美由がおばあちゃんの面倒は私がみるからと言ったが、美由には大学があるだろうから一晩や二晩は面倒をみることができたとしても、これから二週間は無理だ、と慎吾が言った。美由もそのことはわかっていたが、美由は慎吾もやってきたことだから、私だってできるからと言って、慎吾に食い下がった。慎吾は、病院にいるのも家に居るのも同じだから、検査が終わったらすぐに退院したい、と医者に何度も言い寄った。
そこに、三枝が自分で良かったら責任を持っておばあちゃんの面倒をみます、と申し出た。自分は独り身で一緒に暮らしている者は誰もいないし、大きな仕事が一区切りついたので、近頃は暇になっているし、在宅で仕事ができるから十分可能だと言った。それに自分は認知症の母親の介護を何年もしてきた経験があるから、手慣れたものだと言った。
三枝の突然の申し入れに慎吾と美由は驚いた。シャネルスーツを着た上級婦人が、老婆を世話するなんて思ってもみなかったことだ。慎吾は今日初めて会った人におばあちゃんの介護を頼むわけにはいかないと断ったが、三枝はこれも何かの縁だから気にすることはないとさっぱりとして言った。三枝は丁重だが、引き下がる気配はなかった。慎吾と美由は二人で見合って、当面は三枝に頼むことになった。
美由は、いったん三枝と一緒に慎吾の家に戻ることにした。三枝は昨夜もそうだったが、家に入って便臭に顔を顰めることはなかった。三枝は祖母の傍に行き、「あらためまして、私は三枝未華子です。今日からここに住むことになりました。よろしくお願いします」、と祖母の顔に自分の顔を近づけて、頬を両手で柔く挟んで挨拶した。美由には介護になれている人の話し方のように思えた。
美由は三枝の「ここに住む」という言葉が引っかかった。たしかにこれから何日か住むことに間違いはないのだけれど・・・。その言葉になぜか永遠に住む、というニュアンスが含まれているように思ったからだ。
(自分はここには住んでいない。それなのに、彼女はここに住むと言った。ただの言葉の綾だろうか、それならば良いのだが・・・。)
本当は、三枝はこれまで介護をした経験はなかった。田舎を飛び出して実家に帰ったことがないのだから、母の介護をしたというのは口からの出まかせに過ぎない。兄が母のために顔を見せるだけでいいから帰ってこい、と何年かに一度連絡をくれるが、「そのうちね」とだけしか応えていない。母はまだ健在なのだ。
三枝はかつて役者だった頃、介護人の役をやったことがある。役作りのために、と言ってもその他大勢の一人だったが、何冊か介護関連の本を読み、ユーチューブを観て勉強し、養護老人ホームにもボランティアで行った。その時はそうした経験が後に役立つとは思ってもいなかったのだが・・・。
三枝には役が決まったら、その役の勉強をとことん極める習性があった。それが役者としてもっとも大切なことだと考えていたからだ。だけど、役者をやめてから、そうではないことがわかってきた。勉強することは大切なのだが、それ以上に、役について想像力を働かせることが重要なのだ。一流の役者は、人を殺したこともないのに、殺人者以上の殺人者になる。でも、三枝は当時の役作りの勉強が、今頃になって役に立ってきた。
美由は三枝に、自分もできるだけおばあちゃんの世話をするので何でも言ってくれるように言った。美由と三枝は電話番号とアドレスの交換をし、LINEを結んだ。
午後になって、美由は実家に帰って着替えをし、大学に出かけ、それから再び病院に行って泊った。新聞配達屋やバイト先のファミレスには、事故のあった当日のうちに、慎吾がすでに電話を入れておいたそうだ。
事故のあった翌々日の昼間、三枝はおばあちゃんの介護と家事を済ませた後、自分のアパートに帰り、バッグに当座の服や身の回りのものを詰め込んで、スーパーマーケットで食料の買い出しを済ませ、夕方にはおばあちゃんの家に戻って、料理を作った。
まもなくすると、美由がやってきて、大学に出た後、病院に寄って慎吾の様子をみて、それから警察に寄って事故の書類を作ってきた、と三枝に報告した。慎吾は左足以外悪いところはなく、いたって健康であるそうだ。入院の書類などはすべて提出し、交通事故についても、相手側の保険屋と会って話をつけてきたとのことだ。報告から判断すると、思っていた以上に美由は頭が良くて、事務処理能力が高い。そう言えば、事故の一報が入った時だって、彼が車に轢かれたにも関わらず、彼女は取り乱すことはなかった。可愛い顔をして結構肝っ玉が据わっている。
つづく