14 祖母の告白-5
14 祖母の告白-5
私は千恵さんの母だということにしました。そうすると、誰もがおかしいと気づくのが、私の姓が慎吾や千恵さんの唐木の姓とは違って、宮田の姓であることです。私が働いたり、国民健康保険証を申請して生きていくためには、唐木姓を名乗ることはできませんでした。そこで、千恵さんが子供の頃に私が亭主と離婚し、千恵さんが亭主の姓だった唐木をそのまま名乗り、私は旧姓の宮田を名乗ることになったことにしました。このような筋書きを、慎吾が小学校に上った頃に話しました。慎吾はそれを疑うことなく、今でも信じています。
千恵さんから慎吾への遺産相続はここの土地と家だけで、現金は丁寧に折りたたまれた千円札3枚と硬貨が10枚程度しかありませんでした。貯金はありませんでした。
こんなにぎりぎりの生活だったのに、私には毎日千円の賃金が滞ることなく払われていました。私はそのお金をこの半年貯めていました。それでも、随分慎吾にお菓子やおもちゃを買ってあげたので、私の貯金は3万円と少ししかありませんでした。
家は当時でも築50年以上は経っているおんぼろで、どうみても資産的価値はありません。一方、土地は30坪くらいしかありませんが、それでも東京の下町ですから少なく見積もっても百万円はするはずですから、土地を売れば三千万円にはなったはずです。
これまで、私はこの家に来てからのきれい事ばかりを話してきたようですが、私は本来そんなに心がきれいな人間ではありません。みなさんもきっと眉に唾をつけて聞いていたはずです。みなさんが推測されている通りです。
私は、この家に来た頃は、買い物に出かけると言っては、パチンコをしていたのです。ですが、この家には金がありません。パチンコをするための軍資金がすぐに底をついたので、思ったほどはできませんでした。
私は二人が寝静まってから、自分の部屋で焼酎を飲みました。本当はビールを飲みたかったのですが、千恵さんがたいした金を持っていないので、しかたなく焼酎です。それでも、宿なしになってからはほとんどアルコールを飲めませんでしたから、それは美味しかったです。若かった頃、キャバレーで飲んだ高級なブランデーよりもずっと美味しかったくらいですね。極楽ですよ。
私は焼酎を飲みながら、千恵さんが亡くなって落ち着いた頃に、ここの土地を売って、とんずらしようと計画していました。慎吾をこの家に置き去りにしてです。もちろん家の権利書のありかは千恵さんに聞いて知っていました。千恵さんが亡くなってしばらくチャンスを窺っていたのですが、家から出て行こうと思った日に限って、不思議と慎吾が熱を出したり、公園でジャングルジムから落ちて怪我をしたり、夜大声で泣き出したりと、そうしたことに構っているうちに、出て行くチャンスを逃したのです。
結果として、私は千恵さんの遺言を守ったことになり、家を売ることはできませんでした。私の邪悪な心がもっと強ければ、私は慎吾を殺してでも、あの土地を売って、全額をせしめて、どこかにとんずらしたはずです。私は千恵さんと慎吾の3人の生活で、知らないうちにそうした邪悪な心が洗われていたみたいです。ですが、それは決して私にとって悪い事ではなかったのです。もし、あの時、慎吾を置いて三千万円を持ってこの家を出て行ったら、その後の私の人生はどうなっていたのでしょうか? 今のような幸福な人生の最終章が訪れていなかったことだけは間違いありません。刑務所の中で、若い受刑者から「クソばばあ」と悪態つかれているのが関の山でしょう。
千恵さんが亡くなって二週間もすると、私は慎吾と二人で食って行くために、働くところを探し始めました。千恵さんの死を悲しんでいる暇などなかったのです。
住むところがあり、風呂に入り、毎日食事をして、誰が見ても健康体であったので、ハローワークに履歴書を書いて提出したら、すぐにスーパーマーケットの清掃の仕事を紹介してもらえました。住所不定ではこうはいきません。
慎吾は実の母のように私を慕ってくれました。親がいませんでしたが、彼は皮肉れることもなく素直に育ってくれました。
私は小学校の入学式や卒業式はもちろんのこと、参観日にもできるだけ出席しました。周りのお母さんたちはみんな若かったのですが、それでも結構親御さんと一緒に祖父母の方々も出席していましたので、私は自分が思っていたほど保護者の中で浮くこともありませんでした。
もし浮いていることがあったとすれば、晴れやかな日に相応しくない質素な服を着ていたことだったのかもしれません。一生懸命働いていたのですが、私にはそこまで金銭的な余裕がなかったのです。私がどんな服装をしていても、慎吾は私が出席してくれることが、心の底から嬉しそうでした。自分の席に座っていても、私がそこにいるのを確かめるように何度も振り向いていました。確かに私の服は質素でしたが、前日に洗濯して丁寧にアイロンをかけていましたから、私はそれだけで恥ずかしいとは思わなかったのです。
私は自分のためにではなく、慎吾のために必死で働いていました。か弱き子供への愛情は、かたちの違ったマウント行為なのかもしれません。こんなことは今思い浮かんだことなのですが、当時はそんなことを考える余裕もありませんでした。生活するのに必死だったのです。でも、親の愛情はいじめに繋がるマウント行為とは、本質的に違います。子供に対する親の愛情は、自分の利益でなく子供のために報酬も求めずに行われる行為だからです。もちろんそれは自分の不満のはけ口でもないのです。
職場では「おばあちゃん」ではなく「おばちゃん」と呼ばれるようになりました。路上生活者時代よりは、体も心もずっと若返ったからかもしれません。それとも社会では高齢の女性のことを「おばちゃん」と呼ぶ時代に変化していたのでしょうか。今思い起こせば、私はまだ56歳でした。職場の人たちはみんな親切にしてくれました。これも丁寧な言葉遣いのせいかもしれないと思いました。
慎吾におもちゃを買ってやったり、遊園地に連れて行ってやったりと、人並みの生活をさせてやりたくて、必死で働きました。私は、スーパーの清掃の仕事以外にも、時間があったら、道路工事の交通整理の仕事も入れるようになりました。それも慎吾が寝た深夜にです。家の近所だと慎吾の友だちや親御さんに見られる恐れもあったので、自宅からできるだけ遠く離れた仕事場を選びました。
日曜日や祭日の日中は、できるだけ仕事を入れずに、慎吾と遊んでやるように努めました。今思うと、そんな無理ができるほど私も若かったのですね。当時の私の楽しみですか? 慎吾と話をしながらちびちびと呑む焼酎ですかね。アルコールはやめられませんでしたね。
慎吾が小学一年生の時に、私の誕生日にクレヨンで描いた私の似顔絵をプレゼントしてくれました。私が他人からプレゼントをもらったのは、おそらくこれが生まれて初めてです。私はどんなに嬉しかったことでしょう。私は子供のように大泣きをしてしまいました。それを見て、慎吾はびっくりし、「おばあちゃんごめんね。今度はもっと上手に描くから」と縋りついて謝っていました。私は心の底から嬉しい時の表現の仕方を知らなかったのです。
慎吾は小学校4年生になったら、新聞配達をするようになりました。私は「おばあちゃんが働いているから、そんなことをしなくてもいいよ」と何度も言ったのですが、彼は早起きは健康にいいから、と言って始めました。かれは子供ながらに、私が身を粉にして働いているのがわかっていたのでしょう。私が働いて疲れて帰ってくると、(私はかれの前では疲れたことをおくびにも出さないようにしていたのですけど)、かれは私の肩を叩いてくれました。新聞配達をして初めてもらった給料で、湿布薬を買って背中に貼ってくれました。私が風呂上がりに一人で湿布薬を張っているのを見ていたのでしょう。
そう言えば、小学校の卒業式の前に、慎吾が新聞配達をして貯めたお金で私に服を買ってくれました。生まれて初めて愛する人に服を買ってもらいました。正直なところ少し派手で自分には似合わないと思いました。サイズが大きくて、後で補正しましたけれど、私は小学校の卒業式の日にその服を着て行きました。その服は十年近く経った今でも、箪笥に大事にとってあります。
近所の子供たちは、小学生になると水泳教室やピアノ教室などの習い事を始め、学習塾にも行っているようでした。私は塾に通った記憶はありません。私の時代とは違って、最近では、塾に通うのが普通なのだそうです。慎吾に「友達と遊んで来たら」と言うと、淋しそうに「ケンちゃんは塾に行ったから遊べないんだ」と言って、一人でトランプを出して遊び始めました。私は人並みに慎吾に学習塾や習い事に行かせてやりたいと思いましたが、家計に行かせるほどの余裕はありませんでした。二人で生きていくのに必死だったのです。
私は慎吾と赤の他人であることがばれ、彼と引き離されるのを恐れて、公的な機関に支援を求めることはできませんでした。相談する人もいませんでした。
慎吾は友だちの家でテレビゲームをして帰ってくることがありました。テレビゲームを買ってやりたかったのですけど、何万円もすることがわかったので、私はテレビゲームの話題に触れないようにしました。
そんなことがありながらも、慎吾は素直に育ちましたし、私が驚くほどの美男子になりました。嬉し寂しですが、私とは似ても似つきません。慎吾の母は癌の末期だったので、痩せ細っていて、健康な頃の顔だちはよくわかりませんでしたが、それでも目がぱっちりと大きくて、健康な頃はさぞかし可愛かっただろうことが、容易に推測できました。それに、慎吾の容姿から推測すると、父親もよっぽどハンサムだったのでしょう。慎吾には女を泣かせるような男にはなって欲しくないと思っています。
慎吾が大学に入学しました。私が手塩にかけた子供が大学に入学したのです。
つづく