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沙羅の木坂の家  作者: 美祢林太郎
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12 祖母の告白-3

12 祖母の告白-3


 私はこの家に来てからのことが頭に浮かぶと、それが一番私を幸せな気分にさせてくれます。今が私の人生の中で最良の時なのです。私はこの家に来るために生まれてくる運命にあったのだとさえ思えるのです。波乱万丈の私の人生は、こうして終着点にたどり着いたのです。

 親に捨てられ、養護施設に入り、馬鹿な男に味噌汁を顔面に浴びせられ、刃物で刺して怪我をさせ、刑務所に入り、体を売り、路上生活者になった、こうしたことすべてがこの家に来るための試練だったように思えるのです。まるで私はハッピーエンドで終わる映画の主人公になった気分です。映画の主人公は、長い苦しい日々を過ごして、最後の最後に幸せな時が訪れるでしょう。私の一生はまさにその通りになっているのです。

 言葉遣いも、昔はチンピラのような乱暴な言葉を使っていましたが、この家に来て丁寧になりました。慎吾に私の乱暴な言葉がうつってはいけないと思うようになって、意識して丁寧な言葉を使うようになったのです。丁寧な言葉を使うと、荒んだ心も徐々に浄化されてくるのですね。

 千恵さんが私のことを「おばあちゃん」と呼ぶのは、自然なことでした。血は繋がっていなくても、世間では、年寄りの女性のことを「おばあちゃん」と呼びますからね。

 私は路上生活者になってから、すれ違う不良高校生から「ばばあ」と呼ばれて、石を投げつけられていました。あの高校生たちもやり場のない、荒んだ心を持っていたのでしょう。覚えていないだけで、私も若くて荒れていた頃は、気に食わない年寄りの女性を「クソばばあ」と罵っていたことがあるかもしれません。そう言えば、刑務所の中では弱った老婆を「クソばばあ」と呼んで毒づいていました。反撃されることはありませんでしたから。今考えると、私が高校生から「ばばあ」と呼ばれたのは、因果応報だったのかもしれません。あの高校生たちも私のように人生の試練を受けているのかもしれません。彼らにも私のようにいつか素晴らしい運命の結末が待っていたらいいなと思います。このように、私は他人のことを思いやるゆとりが出ています。幸せって、ゆとりをもたらしてくれるのですね。

 ボランティアの人たちからは、優しく「おばあちゃん」と呼ばれるようになりました。私は「おばあちゃん」と呼ばれることに、何ら違和感を抱いていませんでした。でも、今思い返してみると、その頃の私はまだ50代半ばだったんです。私が普通の仕事についてまっとうに働いていたら、決して「おばあちゃん」とは呼ばれていなかった年頃だったはずです。

 私の身体や顔つき、行動、喋り方までも、それまで生きてきた自堕落な生活によって、ひどく朽ちていたのです。路上生活者になって、口紅もつけず、風呂にも入らず、体や髪、顔も洗ったことのない私は女を捨てていたので、「おばあちゃん」で十分でした。私はこの呼び方の優しさの方を嬉しいとさえ思っていたのです。「ばばあ」と口汚く罵られるのはいやでしたけど・・・。

 千恵さんが「おばあちゃん」と呼ぶものだから、息子の慎吾も自然に私のことを「おばあちゃん」と呼ぶようになりました。私は慎吾が本当に可愛かった。千恵さんが寝たきりで、母親に甘えることができなかったので、慎吾は淋しかったのでしょう。普通だったら、一日中母親にまとわりつく年頃だったのですから。母親の代わりに私に一日中寄り添って離れませんでした。

 慎吾は幼稚園に行っていなかったし、おとなしい子だったので、外に出て友達と遊ぶこともありませんでした。私は千恵さんの世話と家事に忙しかったので、慎吾を近くの公園に連れて行ってやることができませんでした。それゆえ、彼は近所の子供たちと交わることがありませんでした。私は彼と家の中であやとりや折り紙をして遊びました。あやとりも折り紙も養護施設にいた時以来です。私はあやとりや折り紙を習っていてよかったと思いましたし、子供の頃に習ったことを忘れずに何十年も覚えていたことに感動すらしました。

 ひらがなや数字を教えて、書けるようにしました。この子は頭の良い子で、教えたらすぐにそうしたことを覚えて行きました。教えがいがあるというものです。覚えが早いので、私がいらつくこともありませんでした。冷静に考えると、子供とは言え、私が他人様に勉強を教えるなんてチャンチャラおかしいことです。私、ずっとバカでしたから。

 学校では勉強ができなくて、先生によく叱られたものです。みんなの前で叱られるので、私はどんどん卑屈になっていきました。勉強なんか大嫌いになったのです。先生もバカな私を晒し者にして、自分の優位性を他の子供たちに誇示しているようにみえました。その先生はいつもはびくびくしながら生きていて、他の先生から見下されていましたから、弱者はより弱者を見つけていじめるものだということを子供ながらに知りました。私は誰もいじめる人がいないので、人間界の最底辺にいる人間だと思って生きてきました。いつか、自分よりも弱い人間を見つけたらマウントをとってやろうと思っていましたが、そんな日が訪れるとは到底思えませんでした。もしかしたら、刑務所で私が「クソばばあ」と呼んだのが数少ない私のマウントだったのかもしれません。老婆をいじめる私は、なんて卑劣な人間だったのでしょう。私はずっといじめられる側の人間でいた方が正解でした。試練とはそういうものじゃないですか。申し訳ありません、刑務所で出会ったおばあさん。

 それにしても、つくづくひらがなや数字が書けてよかった、と私は思いました。どんな簡単な知識でも、他人に教えることが手の内にあるっていうことは、とっても素敵なことなんですね。人生が終わる前に、こんなことを味わえるなんて思いもよらないことでした。こんな喜びを教えてくれたのも慎吾との出会いにありました。

 私は「ドングリコロコロ」や「こいのぼり」などの童謡を歌って聴かせました。慎吾もすぐに覚えて一緒に歌うようになりました。童謡を歌うなんて、いつ以来でしょう。子供の頃、童謡を歌って楽しかった記憶は全然ないのですが、慎吾に歌ってやると楽しいのです。童謡を習っていてよかったです。

 私は音痴だから、慎吾に音痴が移ったらどうしよう、と心配していたのですが、慎吾が歌をねだったので、私も居直って大きな声で何度も歌いました。慎吾は特に、「かえるの合唱」がお気に入りで、二人で輪唱をし、千恵さんに聴かせました。千恵さんも時々輪唱に加わりましたが、咳き込んで中断することが何度もありました。

 この頃、私は台所の仕事をしながら鼻歌が出てくるようになりました。ほとんどが演歌でした。「十五、十六、十七と私の人生暗かった ♬」って、気が付いたら口ずさんでいたのです。どうして自分の暗い人生を歌って、追体験しなくてはならないのでしょうね。歌っていて、笑ってしまいました。

 「あなた死んでもいいですか ♬」って、私はそんな殊勝な女ではありません。もしかすると、そんな言葉が出てくる素晴らしい男性と出会わなかっただけなのかもしれません。でも、この家で「死」という単語がタブーなことくらいは私でもわかっていました。千恵さんの前では決してこの歌を歌いませんでした。無意識に口から出ても、気づいたらすぐにやめました。

 この家に慎吾の父親の匂いはどこにもありません。てっきり慎吾は私生児だと思っていました。

 ある日、千恵さんが私に「結婚はなさっていますか?」と尋ねてきました。彼女には、私が結婚しなかったことや子供がいないことは、この家に来た時にすでに話しておいたはずなのですが、忘れてしまったのでしょう。私は「結婚していませんし、子供もいません」と答えました。すると、千恵さんは「結婚してすぐに慎吾ができました」と口を開きました。

 私の方からあえて詮索することはありませんでしたが、千恵さんは慎吾が寝た後に、ぽつぽつと昔のことを話してくれるようになりました。誰かに話しておかなければならないと思ったのでしょうか? 死が近くなってくると、今の私と同じように、過去のことを独り言のように話すようになるのが、世の常なのでしょうか。


    つづく

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