5歩目 そこまで思い詰めなくてもよくない?
窓辺とその下に鉢植えのある、可愛らしいアパートメントが少尉の下宿だった。
訪れて顔を合わせた大家さんから、少尉が数日ほとんど下宿のまかない料理に手をつけず、出てこないことを聞く。
それじゃ体も壊してしまうわ。
わたしは、彼の部屋のドア前に陣取ってノッカーを鳴らし続ける。もう何度目になるか。
「少尉、ライリー少尉! 聞こえているのでしょう。ひどい、わたしは恋人なんじゃないの? みんな心配してるのに、わたしも心配なのに、知らんぷりしないで」
ドアもその向こうも沈黙を保ったまま。
ものすっごく、ムカムカしてきたわ。出かけてないって大家さんが言ってたからには居るはずなのに、居留守を続けて!
「出てこないならここで騒ぎ立てるから! 近所迷惑よ! それに……そうよ、出てこないなら服を一枚一枚脱ぐわ! 裸になってここで喚くの、男性が通り掛かろうと、何隠さず見られても構わな──」
ぱっと開いた扉から伸びた手に、私は中へ引き込まれてしまった。
強い力で壁に体を押し付けられて、ドアはすぐ閉じて、カーテンは閉め切りなんでしょうね室内には光源がなくて薄暗い。
壁へと手を押し付けられ、覆い被さるようにわたしを縫い止めるのは、部屋の主のライリー少尉。
でも……、驚いた。彼の姿に。
泣き腫らしたのか涙袋は赤く腫れてるし、目の下はクマが濃い。
ツヤツヤでさらっと整っていた髪はボサボサだし、シャツもクシャクシャで、襟元が大きく開いている。
こんなに、乱れて荒れているなんて。
らしくなさすぎるよ、少尉。
「会いたくなかった! こんな……情けない姿、あなたに知られたくなかった……っ」
そんなふうに絞り出すように言わないでよ。このカッコつけ。
「何言ってるのよ、少尉。わたし恋人なんでしょ、だったらこういう時ちゃんと力になりたい。何があったか聞かせてよ」
「ふ……っふふっ。……いいでしょう、お入りなさい」
自嘲して不気味に笑う少尉が、私を奥へ通してくれた。
少尉の家は初めてだ。
落ち着いたワインレッドのパターン壁紙に、リトグラフが掛かり、重厚でセンスのいい部屋だ。
腐っても少尉、当然かしらね。部屋の中は几帳面な彼らしくとても整頓されている。
なのに部屋の隅のデスクの上だけ乱雑。
飴色をした木の天板に同じ装丁の本が何冊も──
「って、何これ。『ディアモストロ幻想記』中巻が三冊それに……下巻も四冊!?」
居室にはなんと探していた本が、複数冊積んであった。
ナニコレ、どういうこと。
「……ふ、バレてしまいました。この地域にあった『ディアモストロ幻想記』の中巻と下巻、死に物狂いで探し出して買い占めたんです」
はあ? 少尉、そんな真似をする理由って。
「中巻が見つからず本を探し出した私とまた会ってくれるように。下巻を見つけられず……私と探し続けてくれるように。どうです、最低でしょう? 本当に、最低だ。どうぞ、お持ちになってください、そして二度と私と会わなくていいです」
まあけっこう最低だわね。でも。
「そんな、本が見つかったからもう少尉と恋人やめるってことないから。なんでそんな急に全部なげやりになったの? それを聞きにきたのよ、恋人として」
わたしはカウチに掛けて、俯いて組んだ手ばかり見ている少尉の手をとる。
「少尉、ねえ、少尉ったら」
「その少尉ではもうなくなると思います」
「え?」
「大佐から直々に任された例の案件で……私は重大な失態を犯したのです。……大佐は今、秘匿任務中ゆえ私を裁きませんでしたが、戻られ次第、罰されることでしょう。少尉の身分を剥奪されても不思議はない」
「そこまでの……失敗を?」
ポツポツと、嗚咽をこらえつつ少尉は語りだす。
「護衛の案件で……勘違いの末、感情を制御できず、対象者を害しかけたんです。しかも極秘任務で身なりを変えていたとはいえ、大佐だと気づかず……大佐に殴りかかってしまって」
あ……なんか詳しいことはわかんないけど、とてもマズイ気はする。それでこんなにも、落ち込んだのね。
任務失敗だけじゃなく、憧れの大佐を間違って殴りそうになったって、プライドの高い少尉にはキツいな。
「ミルフィさん、あなたとのお見合いの話は私の『少尉』の身分前提で進んだもの。もう……私は身分と同時にあなたに求婚する資格も失いそうなのですよ」
「でも、それくらいでわたしの気持ちは──」
「私にはもう未来はありませんから」
「ちょ、少尉なんでそんなこと決めつけるの」
「ないんです。大佐にお詫びのしようがない、己が恥ずかしくて恥ずかしくて、もう耐え難いんです。かくなるうえは」
ギッと前を向いたライリー少尉の目には、恐ろしい気迫がこもっている。
「死ぬ他ありません」
「は?」
え? すごい本気を感じるけど、死? 死ぬ気?
少尉いよいよ思い詰まっちゃってるよ!
「待って待って! 極端すぎるよ。なにそれ!どうしてそこまで一気に突っ走っちゃうの!!」
「大佐は私の顔など見たくないはず、直にお詫びにうかがうのも失敬だ。ですから死んで魂を捧げ詫びとするのです」
「ええっ!? 重いよ! たぶん大佐、少尉の魂なんていらないと思う。わたしならすごく迷惑」
「そんな……、これしかないと思ったのに」
「だいいちっ、そんなあっさり詫びのために死なれちゃって、わたしはどうすればいいのよ」
虚を突かれたように、少尉がわたしを見た。
やっと、わたしの存在を考えてもらえたわね。さっきからずっと大佐、大佐大佐だもの。
「ミルフィさん? ……本の下巻はそこにあるし、お見合いからの交際が崩れるのなら、もう無関係になるのでは」
ああ、これは怒りが湧いたわ。この人、わたしが色々譲ってでもそばにいたかったこと、ぜんっぜん気づいてないんだ。
本当、最初からここまでずっと面倒くさくって、困った人。
「あなたが好き、って言ってきたのに。無関係になんてなれない。あなたが死んでしまったらわたし、悲しくてもう本も読めなくなるよ」
「ミルフィさんが、本を読めない……くらい落ち込むのですか」
「あなたがいなくなってしまったら」
いつものように、おでこをくっつけた。微笑いあうことはできないけど、彼の悲しみや絶望を吸い取ってしまえたらいいのに。
「ミルフィさん、泣きそうなのですか。目に涙が溜まっています」
「あなたが、死ぬ他ないとか言うから。少尉が死ぬなんて考えるだけで、泣きたくなる」
「ミルフィさん……」
「大佐にはちゃんと謝りに行って普通のお詫びをすればいいじゃない。わたしも一緒に行って謝ってあげるから。だから、わたしのために生きてよライリー少尉」
ぶつけ合っていた額を離して、わたしはそこに唇を当てた。
おでこにでも、キスは初めて。少尉が弱っているからできたようなものね。
嫌だったかな、とにかく唇嫌いそうだったし。
「…………っ、?……」
ほら、眉間を寄せて困った顔している。でも、どんどん顔が赤く染まっていってる?
少尉がわたしの顔に顔を近づけて、またおでこを当てあう、と思ったのに。
おでこはついっと上に逸れてしまった。
代わりに、ふわっと、やわらかくて面積の小さいものが当たる。
うそ、これって少尉の……。
余韻に浸るまもなく、額から降りてきた唇が、頬にくっついて。
少尉の手に反対の頬を包まれて、数回ほっぺにキスされた。
少尉……唇をつけられるのも、つけるのあんなに嫌がっていたのに。
至近距離のまま、少尉が見つめてくる。
薄青の瞳が再び近づいて、唇でぬくもりと優しい触れ心地を感じた。
わたし、いま少尉と……キスしてる……。
唇を離した彼は酔っているみたいにうっとりとした表情で、かすれ気味に甘く囁く。
「…………好きだ」
「しょ、少尉」
目をぱちりと瞬かせて、少尉が慌てはじめた。
「す、すみませんっ。思いの外……気持ちよかったというかですね。……好きです」
どうしよう泣きそう。少尉、キスしてくれた。すごく、心がぽかぽかする。
今まででいちばん嬉しいキスだった。
「えっ、ミルフィさん……!? そんな、泣くほど……?」
「う、嬉しくて。少尉、わたしとのキス嫌がらずしてくれて、……それで」
「…………っ」
ぐいっと肩を押されて体を離された、少尉……せっかくキスをくれたのに。
「……ミルフィさん、私は死んだりしませんから、後日大佐にお詫びに行きます。できたら、あなたに横についていて欲しいです」
「あ、はい、いいよ。一緒に行く」
「ではっ、つきましては今日はこれでお引き取りくださいっ!!」
「そんな、少尉急にどうしたの。わたしまだ少尉といたい……」
「あなたがっ、その……可愛すぎて。ミルフィさん……私は今、あなたにとって安全ではなくなってしまったのです」
顔を真っ赤にした少尉は顔を逸らして、つらそうだ。
「え? あの少尉それって?」
「ですからっ、私は今あなたに、性衝動を感じてるんです。……屈辱です、こんな、制御を失うようなもの初めてで、抑えるのに手一杯なんです。早く帰っていただかないと、私はあなたに、とんでもないことをしでかしそうなんです!」
「なんだ、それくらい。いいよ」
「そう、それくらいいい……違います!! 婦女子が抑制を切らした男の元にいるものではありません! お引き取りください!!」
すごい剣幕で怒られた。面倒くさいなあ、少尉、いつも通り。
でもわたし、小賢しいから。これは貴重なチャンスだと思う。
どこまで出せるかわからない、でも精一杯の色気をのせて微笑んでみる。
「だから、いいよ。だって少尉だから」
「……ミルフィさん! …………もう、私を甘やかさないでください」
「あなたは自分に厳しすぎ。わたしくらい、甘やかしてあげないと」
「ミルフィさん。…………ミルフィさんっ」
抱き寄せられて重ねられた唇が熱い。
ドタっと音をたてて、わたしの背はカウチの座面に押さえつけられ、少尉の重みを感じた。
少尉は熱いな。
すべらかな肌が、わたしよりずっと熱い。