#5.咲が来る前のこと
ここの学校では主に、テーブルマナー、国の歴史、統治の仕方、詩、音楽、ダンスのレッスンがあわるようでもう既に卒業式が間近な最近では、授業というより最後の学生生活を満喫している方が近いらしい。特に女子学生は結婚をするとなると遠い僻地へ嫁ぐ事もあるので、滅多に会えなく事もある。
「そういえば、シーラはもうご婚約はされてるのかしら?」
「それは......」
アナの方を見て言い淀んでいるところを見ると、もしかしたらエラが関係しているのかもしれない。
「大丈夫よ、私の事だったら気にしないで」
「わかったわ......でも、貴方があんなことになった日に私の婚約が決定した手紙が届いたでしょ............悲しんでるエラにそんな手紙を送ってしまって、本当に申し訳ないと思ってるの。ただ、婚約が決まった時1番に知らせたいのが貴方だったから......貴方のことも考えないで本当にごめんなさい」
潤んだ瞳で謝る彼女は、首をうな垂れた。何故だかズキンと微かに痛む胸に首を傾げながら、咲は彼女の瞳を覗き込む。
「ねぇ、シーラ。手紙を書いた後どんな事が起こるかなんて誰にもわからないのだし、私は貴方が1番に伝えてくれたって事本当に嬉しいわ。いつだって貴方の幸せが私の幸せよ。きっと私達はずっとそうだったんだわ」
その言葉にまるで花が開いたような笑顔を咲かせて、シーラはホッとした様子だった。シーラとエラの友情が、美しいものだったことは咲にもわかる。純粋な友情を咲が語るのに気恥ずかしさはあったが、この純粋な少女に愛されたエラならそう答えるはずだ。シーラの様子を微笑ましく思いながら、咲はアナの方に向き直る。
「ねぇ、アナ。どうして私が婚約破棄になってしまったのかちゃんと説明してもらえないかしら。私、知っておく方が良いと思うの」
「......辛いお気持ちになられるかもしれません。それでもお嬢様は真実をお知りになりたいと申されるのですね」
深い海の底のような青い瞳に見つめられ、どこまでも沈んでいきそうだ。でも、知らなければならない。どんなに辛い事実でも。しっかりと頷いた咲を見て、アナは遠くを見つめた。意を決したようにゆっくりと目を閉じると深呼吸をした。
「申し訳ありません、シーラ様。一度退席していただいて、エラ様からお伝えしていただく形でもよろしいでしょうか。私にもどこまで話してよろしいのかわからないので」
「ええ、もちろんよ。どこまで聞いたら良いか決めるのはエラだもの。じゃあ、私は部屋に戻るからまた夕食の時で良いかしら」
了承するとシーラは名残惜しそうに咲の隣を見た後、部屋を出て行った。
「それでは、お嬢様が目を覚まされた前日のお話をさせていただきます」
ゆっくりと瞬きをしてこちらを見つめてくる青い瞳に吸い込まれるように、咲はエラに何が起こったのか知るのだった。
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その日、私はいつものように学校のメイド室で目覚め支度を整えると、エラ様の為に朝の紅茶を届けに行っていた。ノックをするも返事がなかったので扉を開けて見ると、既に部屋の中からエラ様の温りは消え、空気は冷え切っていた。エラ様の痕跡を探すと、サイドテーブルに綺麗なアメジスト色のインクで書かれた書き置きが残されていた。
「レオナルド様にお話があるとお呼び出しを受けたので中庭の東屋へ行って参ります。図書室へ寄っている暇がなさそうなので本を返して、ユージーン様の著書をお願いします。 追伸、貴方の紅茶が飲めなくて本当に残念だわ」
エラ様の可愛い追伸に、思わず顔が綻ぶ。しかし、今日のエラ様との朝のティータイムがなくなるのはアナとしても少し残念だ......。
ティーポットの蓋を開けると、行き場のなくなった綺麗な青い紅茶が揺らめいて見える。この紅茶は特別なもので、レモンを入れると綺麗な紫色に変化する。最初にエラ様に出した時、私とエラ様の目の色みたいだととても喜んだ。それからは2人で飲む朝のティータイムは決まってこの紅茶にしている。
エラ様とメイドである私が一緒に紅茶を飲んでいるなんて、奥様や旦那様には口が裂けても言えない。あの紅茶は2人だけの秘密そのものだ。
普通の紅茶ならこういう飲めなくなった時、同僚達へ差し入れしに行く事が多いが、この紅茶だけは何故だかそうはしたくなかった。
仕方がないのでいつもより少し濃いめに淹れた紅茶を、氷の詰まったガラス瓶に注ぐ。これでアイスティーとして美味しく飲めるだろう。忙しいエラ様は朝紅茶をゆっくり飲めない時もあるが、そういう日は午後のティータイムを部屋で私ととってくださる。
紅茶を片付け、本を図書室へ持っていっていると中庭の東屋がよく見えた。エラ様の他に居るのは婚約者であるレオナルド様だろう。何故だか、不穏な空気を感じた。滲み出る冷や汗が垂れるのをそのままにして、小走りで近くの茂みへ隠れる。
「......もう一度仰っていただけますか?」
「っだからわからないのか! 僕は君に興味なんて一切ない! 僕は真実の愛を見つけたのだからな!」
エラ様の顔は、ツルリとした仮面を付けたように無表情だった。その表情が癇に障ったのか、レオナルド・キングストンはエラ様を睨みつけている。
「僕は君の、その何を言われても平然としているところが堪らなく嫌いなんだよ! 全ての教科で成績優秀、妃教育を任せた教師も口を揃えてお前の事を褒めちぎる。おまけにお前のように完璧になれだと!? 俺は王になる男なんだぞ!!!」
堰を切ったようにエラ様にどす黒いものをぶつけている。あれが王たる器の人間のする事か。
「......はっ、いい気味だよ、お前はもうどう頑張ったところで妃になどなれないんだからな」
感情に任せて話すキングストン様とは逆に、エラ様の方はとても落ち着いている。静かに細く息を吐き出すと、アメジストのような瞳でキングストン様を見つめる。綺麗な瞳は朝日を吸い込み、宝石のように輝いているというのに冷たく突き放すようだ。
「それで、レオナルド様は妃候補の方を見つけたと......」
「その通りだよ、その子はお前と違い俺を馬鹿にすることもないしな! 他の者はお前の美貌を褒めるが、どんな時でも微笑みを絶やさず、表情の変わらないお前なんて人形と変わらないっ! お前なんて僕の妃に相応しくないんだよ!!」
キングストン様の言葉に一瞬、エラ様は笑ったように見えた。しかしそれは、朝日の光の加減だったのか夜露のように消えいつもの表情に戻った。
「かしこまりました、殿下。今この時をもって婚約を破棄させていただきます。正式な書状はまた後ほど。それではこれで失礼致します」
非の打ち所のない綺麗なカーテシーを見せると滑るようにエラ様は移動した。1人残された王太子へは目もくれず、アナが急いで部屋に戻ると、エラ様は特に何事もなかったような平然な顔をして、アイスティーも美味しいわねと世間話を始めてしまう。
「エラ様! 紅茶の事より......あの、先ほどのキングストン様の話は一体......!!」
「聞いてしまったのね、アナったら。良いのよ、殿下に他に好いたお人ができた。それだけの事よ」
綺麗な笑顔にエラ様の気持ちは隠されて、少しも読み取れない。
「悔しくは、悲しくはないのですか......?」
幼い頃に婚約が決まったエラ様は、大人でも投げ出したくなるような辛い妃教育を、泣き言も言わずにこなしてきた。それどころか、2人で良き王と妃であるために沢山の分野にまで手を出してきた。その努力が、あの男の哀れな考え一つで意味のなかったものになってしまう。
「どうして? 憎しみ合う人が国王とその妃になるよりずっといいわ。国を治める人間達が不穏だと民衆も不安になるもの......」
そのままゆっくりと椅子に腰掛けると、エラ様はアナが借りてきた新しい本の世界に入られてしまった。仕方がないのでアナは、旦那様に簡単な報告とすぐ帰宅する旨を記した手紙を出しに行った。
「アナちゃん今日はなんだか顔色が悪そうだけど大丈夫かい?」
郵便受付の、人の良さそうなお婆さんにそう言われてしまう。ドキリと心臓が鳴ったがいつもの顔を装い取り繕う。
「昨日少し夜更かしをしてしまいまして。これハインド家に急ぎでお願いします。1番良い早馬をお願いね」
「待って待って。まったくアナちゃんが届けた方が早馬より早そうだよ......エラ様に手紙が届いているよ」
慌てて出ようとするアナの袖を引っ張り引き止めると手紙を渡してきた。手紙には、レモングラスの香りと百合の模様が押されていた。この香りと模様は、シーラ・パティンソン様からの手紙だ。
シーラ様はエラ様が1番心を通わせているご友人だ。きっとこの手紙を届ければ喜ばれるだろう。そう思うと足が早まった。まさかその日の夜エラ様が自ら意識不明の重体になろうとも知らずに。