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狼は春を唄う  作者: ほたる
砂敷村(さじきむら)
24/32

3


佑真は思わず歩くのを辞めた。足元を乾いた風が通り過ぎていった。


砂埃が舞い上がった少し先で、泉桜が振り返った。逆光で、その姿が眩む。


「なあ」


佑真は考えていた。自分にはよく分からないと思っていた、人間のことを。椿と同じ生き物である彼女のことを。笑ってばかりいる、狼のことを。


「本当は今日、怖かったのじゃないか」


泉桜が小さく息を飲む音がした。


「そんなこと……」


「俺にはある」


否定しようとした泉桜に、佑真は被せた。


「俺にはある。怖いこと」


例えば、あの雪深い森。


例えば、あの銃弾の雨。


例えば、椿を失ったあの日。


場面場面に恐怖は芽吹いていて、今でも佑真を雁字搦めにしている。


恐怖とはいつもそこかしこに種を撒いていて、芽吹く時を待っているのだ。


あの日街道で泉桜に降りかかったこと。軍人であった自分ですら、爆弾や銃撃は恐ろしかった。恐ろしいと思うことは許されたことではなかったが、現にそれらが椿の命を奪っていったのだ。


一介の民間人である少女にとって、それはどれ程の脅威だっただろうか。


「俺だって怖いんだ」


とても怖いことなんだ、と佑真は言い聞かせた。


「だからお前も怖がっていい」


俺に無理して振る舞うことはない。


急に静けさが街道を襲った。泉桜が自分達が行く筈の道を振り返ると、そこは群青の帳が落ちていた。空に浮かぶ星は早秋に見られる星座の1部だった。


灯り1つない街道はとても心細い。


佑真は太陽の燃えかすを背後に浴びながら、こちらをじっと見ている。いつもの無表情ではなく、泣き出しそうな顔をしていた。


怖い、が佑真をこんな表情にさせる程のものなのだと分かった途端、泉桜は力が抜けた。


「佑真くんには、敵わないなぁ」


弱々しい、掠れた声が街道を渡る寂しい風に掻き消されてしまう。


「本当は今日、とても怖かった」


それは誰にも明かしたことのない本音だった。


この街道を歩いているだけで、泉桜は足が動かなくなりそうだった。


もしこの空からまた爆弾が落ちてきたら。


もし太陽の向こうから飛行機がやって来たら。


その時、街道を歩く人達は?


道端で商売をしている人達は?


隣の佑真くんは?


何より自分はーー?


集落に着くまでずっと考えていた。考えすぎて吐き気がする程だった。


あまりに呑気な人々に焦燥感を覚えたし、あっけらかんとした青空を憎く思った。


この街道をそんな気持ちで歩かなくてはならない自分が嫌だと思った。


佑真は泉桜の前に来ると、膝を折って目を合わせた。びくりと肩を震わせた泉桜の頭に手を置いた。


「貴女は勇敢な人だな」


理不尽にただ喰われることを諦めて待つ草食動物ではない。自身の持つ力を武器に、恐怖を噛み殺し、苦境へ飛び込むだけの気概がある。


ーーなるほど、彼女は確かに狼だったのだ。


ふっと佑真が笑った。


全く温度を感じさせなかった彼に、生気が宿った気がして泉桜は絶句した。元々端正な作りの顔だったが、笑うと華がある。


泉桜は耳がかっと熱くなるのを感じた。暗くて良かったと安堵した。


それらは一瞬のことで、後には作り物めいた佑真が残っていた。


姿勢を元に戻した佑真は自身の右手を見つめながら、今何をしたのか反芻していた。何故か泉桜にこうしたかったのだ。本当ならばもっと捏ねくり回してやりたかったのだが、そこは堪えた。


ふと発情という2文字が浮かんだ。


そうか、発情期か。動物によく見られる兆候だと聞く。人間も元は猿だったと言うし……。


発情か、と佑真は納得した。ならば、以後気をつけなくてはならない。


「佑真くん?手、どうかした?」


熱心に手を凝視している佑真が心配になって、泉桜はおずおずと聞いた。


「いや、何でもない」


隠すようなことでもなかったが、敢えて言うことではないと判断して、佑真は手を下ろした。


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