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狼は春を唄う  作者: ほたる
砂敷村(さじきむら)
17/32

2


仕事があるからと十和は帰っていった。


佑真と泉桜は川の流れに逆らって歩きながら、泉桜がいつも作業しているという場所へ向かっていた。


上流の方を眺める泉桜の目は、長生きしすぎた老人のように物悲しい色を落としていた。静謐な横顔と太陽光よりも透明感のある肌が、彼女を神聖な雰囲気にしている。子供達といた時とは全く違う。そこでようやく佑真は、昨日のふわふわとした形のない不思議な空気が、彼女の発していたものだと気がついた。子供と相対するために、彼女が作り出した空気だったのだ。


「ここだよ」


泉桜が足を止めたのは、歩いて5分程の上流にあった川の浅瀬だった。こぽこぽと水が弾ける音がする。足の甲までしか浸からないような浅瀬に、焼き物の容器を置いて、泉桜は植物を育てていた。少しずつ距離を置いて植えられた3つの苗は、大きさも葉の形も違っていた。


「これはね、どれも水が綺麗なところでないと育たない植物なの」


水質の変化にも敏感なもので、育たないこともよくあるという。


この川は村にも流れていて、村人達はその水を使っている。有害なものが混ざっていないかなどを調べる為に、泉桜は川で植物を育てているのだった。少しでもおかしなものが水に混ざれば、植物にも異常が生じる。


「十和は山を蘇らせる為だと言っていた」


「そうね」


泉桜は眼前に広がる枯れ木の樹林を見上げた。疲れ果て痩せ細った木々は、無惨に打ち捨てられた骸のようでもある。


「生前の父の夢なのよ」


植物学者であった父はよく寝物語に聞かせてくれた。まだ山が蒼かった頃のこと。野生の動物や、珍しい草花がひっそりと暮らしていたらしい。春には山菜をとり、夏には子供達が虫取りをして遊び、秋にはきのこ狩りをしたという良き時代があった。父も直接見たことはないらしく、それは曾祖父から聞いたのだと言っていた。だからこそ、いつか自分の手で山を蘇らせて、その風景を見てみたいのだと。


父の夢は叶わなかったが、それを受け継ぐことこそ生き残った自分の務めだ。そしてその夢が生きている限り、父の心は消えない。話を聞きながら一緒に笑っていた母の心もだ。


「植物が育つには土が大事なの。その土を育てるのは水と太陽よ」


だから水の変化には殊更気を遣っているのだと言う。


佑真は泉桜の家へ続く道にあった若木を思い出した。若木はここへ来るまでの道にも植えられていた。


「あの若木も貴方が育ててるのか」


「ええ」


あそこまで育てるのも大変だったのよ、と泉桜は苦笑した。


あの萌黄色がいつかしっかりとした緑になっていくのだろうか。細い幹が、畑の端にあったあの木のように太くなっていくのだろうか。


ーーその頃自分はどうなっているのだろう。


どろりとした血の感触が残る両手の掌を、俯いて眺めていた。この手は血で汚れることしか知らない。


昏い目をする佑真は、いつもよりずっと人間らしく見える。そのことを泉桜はとても悲しいことだと思った。


泉桜は繊細なものを扱う手つきで、佑真の手に触れた。顔を上げてただこちらを見るだけの佑真に、どんな表情で、どんな言葉を言えば良いか分からなくなる。力なく落とされた肩が、とても頼りなく見えた。


佑真を人間たらしめている、深い苦しみや悲しみが、いつか彼自身を壊してしまうかもしれない。


泉桜はそれがとても心配で、いつまでもいつまでも佑真の手を離せなかった。


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