07 約束が果たされる時 ⑥
目を白黒とさせるリアに、今度は二つの草の花を詰めてある瓶を見せた。一つには雪のように白く小さく愛らしい花。一つには青みがかった紫色で、修道士の頭巾や騎士の兜に例えられる独特な形の花。
「こちらの白い花がニリンソウ。こちらの紫の花がモンクスフード……トリカブトだ。ニリンソウは触っても良いが、トリカブトは触ってはならない」
「だめ?」
触ってはならない理由は率直に言って『食せば死に至る』からなのだが、死と言う概念から説明していると日が暮れてしまう。私は頭を捻った挙げ句、残念な表現しか思い付く事が出来なかった。
「トリカブトは痛いからだ」
「いたい!」
「そう言う事だ」
私が頷くと、リアはザザザっとトリカブトから距離を取った。それくらい警戒してくれる方が良い。伝わったならば構わんと思いながら、トリカブトを元の位置に戻し、ニリンソウとヨモギの位置を教えて、せがむリアを抱えて棚に戻させてやる。
私が質問にちゃんと答えた事で何かの転換点にでもなったのだろうか、リアは唐突に「これは?」「これは?」と薬草を持って来ては私に尋ねた。時間だけは腐る程にあって、何も急ぎの用を持たない私は、一つずつ丁寧にリアの質問に答えた。無論、この歳の子供に全てどころか一割も伝わってはいないだろうとは思っていたが、また聞かれたら何度でも答えてやれば良い、と気長に構える事にした。
何より、これだけの好奇心が、この小さな身体に詰まっていた事に驚かされると共に、今までそれを無意識のうちに彼女が抑えつけなければならないような態度を取っていた事を反省する。それを埋め合わせるかのように一つ一つの薬草の特徴を語りながら、己は自身の詳しい事ならばこれ程までに流暢に語れたのかと思う。それは父と子の語らいとしては不十分過ぎる内容だったのであろうが、私達にとっては大きな前進だった。
言葉を交わす、と言う事はそれほど強く意識せずとも、こうして質問と回答と言う形でも成立するのだ。他にも会話を重ねるタイミングなど、日常のどこにでも存在しているのだと、今更のように私は気付いた。挨拶、感謝、謝罪、報告、感想……ライの良く言う『他愛のない』事というものは良く分からないが、それも少しずつ学んで行けば良いだろう。
リアとの対話の中に確かな手応えと充足感を感じていた私の耳に、ふとコンコン、と窓を叩く小さな音が聞こえ、ハッとして振り返った。
聞き違えるはずもない。一年にたった一度、この音を待ち望んでいる。
《アレリオ》
明かり採りの窓を、心が逸るままに『言葉』で開け放つと、その瞬間一羽の鳥が飛び込んで来た。
「わぁ……!」
嬉しそうに歓声を挙げるリアの声を聞きながら、私は手を伸ばしてその鳥の止り木となってやる。ようやく慣れて来たその動作に、部屋の中を一回り楽しそうに滑空した鳥は、当たり前のように私の手に止まった。
流体がとめどなく巡り廻りながら、ひと時も止まる事無く形を変え、この世のどこにも存在しない美しい鳥の姿を描き出す。この部屋の姿を透き通るような身体の向こうに映した幻の鳥は、その総てが純粋に水から生まれたものなのだと言う事を、私は良く知っていた。
この鳥の生まれ出づる瞬間を、かつてこの目で見たのだ。
物言わぬ存在に生命を吹き込む事が、どれだけ難しいのかはこの身をもって知っているが、それに永続性と意志を持たせて飛び回らせるなどと言う芸当が出来るのは、この世に数えられる程しかいない。きっと、この世の誰よりも水に通じ、水に愛された人。
私がたった一人、何もかもを捧げた人が、まだ健やかに日々を生きていると言う事の証左だった。あの空の向こう……遥か遠い大陸の片隅で。そう言う、約束だった。
二度と会わないと、心に誓った。それでも生きろと、残酷な事を言われた。幸せになれと、その言葉の意味がその時は分からなかった。
ただ、いまこの時を、リアと共に歩む日々を言葉にするならば。
(これを幸福と、呼べたならいい)
これ程までに穏やかな心で水の鳥を受け容れたのは初めての事だった。そっとその背を撫でれば、柔らかくひやりとした水の感覚が指を伝う。かつて生まれた日と変わらない、甘い声でさえずる鳥に、時間が巻き戻されたような心地さえする。
それでも、二度と戻る事はない。それだけは、叶わない。かつては何と引き換えにしても、それだけを望んでいたが、今はただ失ってしまったものを数えるよりも、かけがえのない記憶として仕舞って置きたい。そう思えるようになったのは、守るべきものが出来たからだろう。
芽吹く若葉を閉じ込めた瞳が、キラキラと燦めいてこの世にたった一羽の美しい鳥を写し込んでいる。
「見送りに、付き合ってくれるか?」
「うん!」
持っていた薬草を丁寧に置き直したリアに、すっかり片付けの事を忘れて話し込んでいた事に気付きながら、まあ良いかと手を差し出す。それよりも、ずっと大事なものに気付けた。何よりも、今こうしている事が、価値ある時間だ。
一歩ずつ階段を降りながら、そう遠くない未来にこの段を全て自力で駆け下りて、外の世界へと羽ばたいて行くだろうリアの姿を思い描く。そしてその時まで積み重ねて行く時間と、数限りないこれからの対話を。
それはきっと、とても優しくかけがえのない時となるだろう事を。
戸を開けば、今日のうちにまた粉雪でも舞ったのか、薄く雪が降り積もっている。静かな銀世界に、傾き始めた太陽が全てを黄金色で染めて行く。刻々と世界の形を変えていく黄昏に、愛しい記憶を揺さぶられながら、渡り鳥を止まらせた手をそっと空に伸ばした。
躊躇いなく私の手を離れた鳥は、真っ直ぐに東の果ての大地を目指して行く。
鳥よ、飛んで行け。あの日、何一つ伝える事の出来なかった言葉は、いつかこの心の奥底に仕舞って私は逝く。誰にも触れる事の叶わぬように。
だから、その代わりに。
どうか、私は『生きている』と伝えて欲しい。それだけできっと、あの人は何もかも分かってくれるはずだから。
いまこの手にある、小さく暖かな幸福を抱き締めて。この場所で、私は生きていると。
高く遠く、どこまでも。渡り鳥の声は響き続けていた。
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