01 祝福 ②
それは赤子だった。いや、生まれたてにしては些か育ち過ぎているきらいがある。年の頃は一つ……二つと言ったところか。色素の抜けた肌に、白く柔らかな巻き毛。人間にはまず有り得ない色に、男は色素欠乏症かと当たりをつける。医学の心得のない人間には、アルビノは生まれながらの呪い持ちだと思い込まれて忌み嫌われる場合が多い。
男はそのことを知っていたから、呪いを恐れたのではなかった。ただ男は、赤子というものに一度も……ただの一度も触れたことがなかった。こんなにも小さく、柔らかな存在がこの世にあって息をしていること、生きているのだということに驚嘆して、恐れた。男にとってのそれは、手探りの闇よりもよほど未知なる存在だった。
しばらくして深い呼吸を繰り返し、少し冷静さを取り戻した男は、持ち前の優秀な頭脳を働かせてスルスルと推測を進めていった。巻きつけられている布の品質からして、そこそこ良い家柄の出である可能性が高い。となれば、やはり呪い持ちだとして捨てられたのだろう。こんな森の奥に?そんなはずはない。
確認の意味をこめて赤子の髪を掻き分けると、男の予想していた通りその耳はエルフのように尖っていた。まず間違いなくエルフではない、と男は断じた。エルフ族の女性は長命である代わりなのか、身体機能の特性から滅多に子を孕むことが出来ず、何よりも子供を大切にする。それこそ、万が一育てられない事情があったとしても、一族が引き取って育てるだろう。
何より、と男は皮肉に思った。エルフは基本的に人間が嫌いだ……ほんの一部の例外を除いて。そんな種族が、例え森の中とは言えども、このような人里近くに子供を置き去りになどするはずがないのである。
男の脳味噌が弾き出した赤子の正体は『精霊の拾い子』である。生まれながらにして強い魔力を持つ、という条件つきではあるが、稀に死に行く捨て子を哀れに思った精霊が、気まぐれに子供を拾い育てることがある。精霊の世界で育った子供は、例外なく常人とは比べ物にならない強力な魔力持ちに育ち、耳が尖り始める。
平民にとってはほとんどが宝の持ち腐れで終わるが、いつでも強い魔力とその血を求めている貴族達にとって『精霊の拾い子』は合法的に、誰にも迷惑をかけずに従順な魔力持ちを飼う最高の手段の一つだ。その人生が、赤子の時に大人しく死んでいたのとどちらが幸せであるのかは、判じ難いところではあるのだが。
そんなことを男がぼんやりと考えていると、人の手のぬくもりに目が覚めたのか、ふるりと赤子の瞼が震えてそっと瞳が開かれた。木肌を這う蔦を思わせる、淡く静かな色……森の緑が、男を真っ直ぐに見つめていた。
つい先刻まで踵を返して赤子のことを忘れてしまうつもりでいた男の足は、その場に縫い留められたように動かなくなった。
ふと、笑みを浮かべたその子供は、ぷくぷくとまろい手を伸ばした。男は反射的にその手を掴んでいた。熱く、小さく、そして生きていた。
守らなければならない、と。ほとんど強迫観念のような強い衝動が、胸の底から湧き上がってきた。この衝動を、感情を、知っている。血も涙もないと、幾度も後ろ指をさされて生きてきた男は、それでもこの優しく脆い、人間らしい感情を知っていた。
守りたいと、願った人がいた。何かを、誰かを愛し、慈しむ心を教えてくれた人が。
『その生を罪だと責めるなら、その手の届くだけでいい……生きているうちにたった一つでもいい』
命を拾う。それが、あなたの救いになる。
かつては意味の分からなかったその言葉に、今は背中を押されるようにして、男はその子供を抱き上げた。
そっと、そっと……誰かを傷付けるためでなく、守るために触れるのは、本当に久方振りのことだった。腕に抱いた重みは、一つの運命と命の重みそのもので。それをこんなにも直に感じたことなどなかった男は、ひどく狼狽えた。
命とは、金や食料よりも軽く、簡単に奪われて捨てられ踏みにじられるものだった。少なくとも、男の生きてきた世界では。子のために命を捨てる母の物語など、それこそお伽噺の中でしか有り得ないと鼻で笑っていた、そのはずだった。
もう戻れないと、本能的に感じた。もう二度と、この温もりを知らなかった冷たく慈悲のない世界に戻ることはできない。抱き上げた瞬間に、赤子も己の運命も決まってしまったのだと悟った。既に、己はこの命を引き受けてしまったのだと。
昏い闇と同じ色をした瞳は、覚悟を決めた。我が子と定めた命の、森を溶かし込んだような瞳を見つめながら、祝福を与えようと零れる言葉を必死に浚う。
やがて、たった一つ残った言葉は、世界で何よりも短い寿ぎだった。
「レイリア」
男の唇から落とされた言葉は、古の時代の言葉で『光』を意味した。赤子の、名だ。
子は、その言葉を受け入れるかのように目を閉じて微笑んだ。男は震える手で我が子を抱き上げ直し、祝福の名を子に封じるようにそっと額へと口づけた。
全てを見届けた精霊は、森の奥へと消えて行き、世界は元の闇へと包まれた。
夜啼鳥の、声が聴こえる。
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