01 祝福 ①
*
01 祝福
何かを護ることは、難しい。少なくとも、傷つけるよりはずっと。
*
夜の森は、意外にも音で満ちている。
風の音。木々の葉擦れ。川のせせらぎ。虫の声。夜の狩人……梟やコウモリの飛び立つかすかな羽音。
昼には気にもならない音が、ささやかな月明かりだけが頼りの空間ではやけに大きく感じられるだろう。夜の森に好んで足を踏み入れる酔狂な人間はいない。足場や方角は分かりにくく、野生生物から襲われても逃げることすら難しい。そうでなくとも、本能的な闇への恐怖が夜の森に人を近付けようとはしない。
しかし今宵はただひとり、闇に紛れるようにして木々の間を縫って進む一人の男がいた。薄く幾重にも重ねられた衣の下に覗く骨ばった手は病的なまでに白く、木漏れ日のように零れる月明かりに照らし出された男の横顔は、無表情ながらもどこか疲れ果てたような色を滲ませている。
三十幾ばくかに見える容姿だが、腰まで伸びた黒髪のサラサラと美しい様や、肌のきめ細やかさに目を留めれば齢二十に届いたばかりといった所か。風にさらわれて、闇に溶けるような衣が少しだけ巻き上げられた。
顕になる女のように細い腰元に、月明かりを集めるようにして白銀の杖が光り輝いた。それ自身が光を発しているかのように磨き上げられた杖は、細剣のごとく凄みを帯びた金属光沢を持つ。その先端にはめ込まれた、透き通るような蒼の溶け込んだ宝石を護るように、蔓草の絡まるドームを煌めく星々が滑り落ち、今にも羽ばたきそうな翼のモチーフがそれらを包み込んでいる。エルフの名工が手掛けたかのような繊細で優美な装飾の中で、月光を反射した宝石が歓喜したようにキィンと硬質な音を立てて震えた。
男は微かに表情を固くすると、掻き抱くように服の前を今一度合わせ、また美しい杖を隠すように仕舞った。その間も歩みは止めず、迷いなく闇に沈んだ森を進んでいく。
男は魔法使いだった。しかしながら、魔法を用いて眩い光で森を照らすでもなく、指先に光を灯して足元を照らすでもなく、カンテラや松明も何一つ持ち合わせてはいない。その代わりと言うべきか、野生の獣が生まれ持つような警戒心が男の全身にまとわり付いており、夜目の効く生き物のように目の奥が微かに光っている。
スラリと長く伸びた図体に反して、足の運びは猫のようにしなやかで僅かな音も立てない。柔らかな薄い布を幾重にも巻きつけたかのような衣も、それを意図したかのように衣擦れの音を響かせず、簡素な革のサンダルに包んだ足が小枝を踏み折るなどという愚行を犯すこともない。男は熟練した狩人以上に夜の森での呼吸の仕方と、獣達の掟を良く知っていて、それを侵すことがない故に澱みなく歩むことが出来るのだ。
とは言え、この男……魔法使いは狩りをするために森へと足を踏み入れたのではなかった。ふと脚を止めると、音もなく屈んで何かに手を伸ばす。先程から小一時間ほどその動作を繰り返しながら森の中を歩いている。
木々の隙間から溢れた月の光がささやかに照らす場所に、小さく愛らしい白い花がポツポツと咲いていた。銀月草だ。
魔法薬の材料となるものだが、深い森にしか自生しない上に、秋の時期の三日月の晩にだけ花を咲かせ、その時に採集したものしか効力を持たないことで有名な希少植物である。銀竜草と良く似た花をつける故に間違えられやすいが茎はより細く、銀竜草は俯きがちに花をつけるのに比べて、銀月草はもう少しやる気を出して頭をもたげている。
男はその小さな花を全て採り尽くしてはしまわぬように気を配りながら、根元から綺麗に引き抜いては持参した革袋に収めていた。丁寧かつ手慣れた仕事であった。
この森を出てすぐの場所にそびえ立つ塔が男の住処だが、農地を持たない魔法使いにとって、食物を得る手段は原始的な狩猟か採集か、あるいは持つ者から購入するのみ。いかに魔法使いと言えども霞を食って生きる訳にも行かず、男は時折訪れる商人に魔法薬を売りつけ、その金で穀物や野菜を買い求めることで細々と生計を立てていた。
最低限必要な肉は狩り、あとは山羊を二匹と羊を数匹飼っている。外に出る用事など他にはこうして魔法薬に必要な材料を採りに出向くくらいで、いつもは塔の中に引きこもっている。静かな暮らしであった。
ハッ、と。
唐突に顔を挙げて、目に見えて分かるくらいに全身を強張らせた男の緊張を感じてか、ふと虫の音が止んだ。それに呼応するようにして、遠くの虫の声や鳥の羽ばたき……風の音さえもが森から消えた。不気味なくらいの静寂の中で、肌を焦がすように濃密な魔力の気配だけが森中に満ちているのを男は感じた。
ここは男のテリトリーの圏内だった。独り隠れ住む魔法使いは大なり小なり、自分の拠点を中心として結界を張っているものであり、それなりの魔力を持つ者が足を踏み入れればまず男が気付かないということは有り得ない。それを潜り抜けた者がいるということは、間違いなく異常事態である。
男は黒衣を翻し、足早に森を駆けた。これだけ盛大に魔力を放っていれば、痕跡を見失う訳もない。森の奥へ、奥へと足を踏み入れる。今までここまで深く分け入ったことは数度しかないが、ぐっと緑の匂いは濃く鼻を突き、しっとりとした水の気配が肌にまとわりついてくる。森が身体に浸食するような感覚。
不意に視界が開け、男ははたと立ち止まった。
森の中の小さな広場のようにポッカリと空を望む穴があいたその場所に、銀月草が群れをなして咲き誇っていた。その上をゆらゆらと、光をまとった金色の蝶が舞い踊っている。美しい光景に息を呑んだ男は反射的に手を伸ばしかけ、すぐに止めた。その蝶に実体が存在しないことを知っていたから。
光の精霊だ。いつもは男の姿を認めると、逃げるようにして消えていなくなってしまうのが、今日ばかりは何かを訴えるようにヒラヒラと舞い続けている。
視線を落とすと、つい先程までは気付かなかったが、少し大きな布の包みが銀月草に埋もれるようにして鎮座していた。常ならばそのような怪しいものには背を向ける男は、どうしてか引き寄せられるように手を伸ばしていた。精霊が導いているならば悪しきものであるはずがないということもあったが、確かに抗えない何かを感じていた。
布を取り払って顔を出した『何か』が、何であるのかを、一瞬男は理解できなかった。時間をかけて己の知識と僅かな経験を照らし合わせた瞬間、彼は恐れおののいた。夜闇に一欠片の恐れも抱くことなく、化け物にも心を揺らすことなく立ち向かったことのある果敢な魔法使いは、己が手を伸ばしたものに心底から恐れを抱いていた。




