03 勝利への渇望 ⑱
《ユリート・イドラ……リベル》
人より優れた聴覚が、彼女の囁くような声を拾う。ピンと伸ばした指先で器用に指向性を持たせて、暴力的なまでの水流がマスター・リカルドへと襲いかかる。獣の顎門のごとく獰猛な水の魁が、か弱き人間を飲み込もうと口を開けた瞬間だった。
《グラスタ・レナート・ディナメルシア・デ・ツィヒア》
恐ろしい程の早口で呟かれた『言葉』に従い、うねり迫る濁流が完全に沈黙し、文字通り凍りつく。死を連想させるような荒々しい氷の彫像に、良く似た冷たい光を瞳に宿し、男はただ一言命じた。
《エンプリフィオ》
その一語によって爆散した氷の渦に、無駄のない指先がひらめき、目の前のリアを傷付け屈服させるためだけに振り翳される。いずれも氷や爆発を連想させない古の『言葉』であることを、周囲の人間達は気付いているのだろうか……いや、そもそも聞こえてすらいないに違いない。
(あの男、事象に『書き加える』ように見せかけつつ『書き換えて』いる)
厳格な顔をして隠れ異端かと皮肉に思いつつも、さすがマスターを名乗っているだけあって、万物の理を良く理解していると感心させられる。一見して『言葉』と『事象』が繋がらないだけに、次の迎撃をどのように展開すれば良いのか、相対する人間にとっては常に後手に回らせられる嫌な対戦相手だろう。
見るからに実戦慣れし、人間の手を読むことに長けたマスター・リカルドに対して、リアの戦い方は些か真っ直ぐにすぎる。これまで獣相手に、群れの仲間と共に戦って来た姿が目に見えるようで……決して目の前の敵から目を逸らさず、誇り高く顔をあげて立ち向かおうとする姿はひどく眩しいものだったが、それでは恐らく勝ち目はない。
《ストラート……!》
鋭い氷の破片が、今度はリア自身を傷付ける刃として降り注ぐも、さすがの反射神経で叫ばれた『言葉』が彼女を護る。闘技場がむき出しの地面であったことが幸いしたか、無数の刃が抉れた地面を素材として築かれた土塊の壁に突き刺さるも、防ぎきれなかった破片が彼女の肌を傷付けた。
(……マスター・リカルドは、あれで手加減しているのか?)
よもや、本気で殺す気じゃないだろうなと、思わず考えさせられるほどに返す手は厳しい。リアでなければ……この闘技場に詰めかけた野次馬のうち、どれだけが生きていられただろうかと。そんなことを考えている間に、鋭く切り裂かれた血の滲む肌にも怯むことなく、小さな獣は音もなく地を蹴った。
《リベル・レムナント》
マスター・リカルドの呟きに、時間を巻き戻すかのように崩された土壁の上から、勝負をかけるつもりなのかリアが躍り出る。その両手にはいつしか無骨なナイフが握られていて、ひたと男に狙いを定めた切っ先が、ジリリと稲妻の気配を帯びて獲物を屠ろうと鈍く輝く。決まった――と、確信した瞬間だった。
パチリ、と。
鋭く指を弾いたマスター・リカルドが、空中のリアを射落とそうとするかのように狙いを定める。熟達した魔法使いは、戦場に赴く時に切り札の一つとして、いざと言う時に長々とした詠唱を短縮できるような『引き金』を何気ない動作の中に仕込んでいるものだ。間違いない……この男、詠唱短縮を今の仕草に掛けている!
「リア――っ!」
俺の声が届いたのか、それとも野生の本能か。不可視の刃が迫る中、彼女は中空で身を捩り、胸の前で両手のナイフを交差させると、その魔法を正面から受け止めた。
「っく――」
観客席まで届くほどの風圧で、小さな体躯が紙切れのように吹き飛ばされる。それでも受け身を取る余裕がある辺り、流石と褒め称えるべき局面なのかもしれないが、いかんせん心臓に悪い。
決闘とは戦士にとって己の誇りを賭けた戦いであり、試練とは魔法使いにとって己の手にする叡智を証明する場だ。だからこそ、俺は大切な人間が……例えば家族がそのような舞台に立っても、激励こそすれ心配などしたこともなかった。
(それなのに、どうして)
恐らく、俺よりも……否、学院長とマスター・リカルドを除いた、この場の誰よりも強いはずであるリアに、どうか無事であってくれと祈ることしか出来ない。何かを証明するために立たずとも、たとえその誇りが折れても、ただ無事でいて欲しいと。
友、と言うものは……どちらが正しいのだろうか。




