00 序
その黒き塔は、ただひたすらに異質であった。
誰も果てを知らない森を背後に従え、峡谷へと続く平原が存在する。草の緑と青く突き抜けるような空、そしてそこを住処とする鳥達が舞うばかり。そのような場所に、その異質な建築物が突如として『現れた』のはそう遠い過去の話ではなかった。
石とも金属ともつかない何かで覆われた外壁はざらりとした黒であり、それが一様に天高くまで続いている。見上げても頂上は遥か高く遠く、廻廊や鐘楼どころか窓すら存在を認めることは難しい。実際にそれらが存在しているのかどうか、はたまた完全に外界から閉じた空間であるのかを知るのは、この世にたった一人……少なくとも、今のところは。
その塔には、一人の魔法使いが住んでいた。かの者が喪に服すように黒い衣を翻し、森へと向かう姿を見た者が、近くの村には幾人か存在した。更に一人、二人、ただびとには作ることの叶わない薬を求めて言葉を交わした者もいた。そのいずれもが、黙して多くを語らない。
ただいつからか、かの塔に子らを近付けないために母親達が言い聞かせる言葉は、不思議と全く同じものになっていた。
『あの塔に近付いてはいけないよ。そこに満ちた悲しみに、お前も呑まれてしまうから』
その不思議な脅し文句に、子供達は首を傾げながらも頷いた。そうしてあの塔を、風景の一部として忘れてしまった。魔法使いが現に生きて存在していることを見て知っていたし、意外にもおどろおどろしい背景や噂話を持たず、開けた明るい野に立つ塔よりも、村の中にあるボロボロの空き家を探検する方がよほど冒険心を満たしてくれた。
ただ何よりも、本能的に感じていたのかもしれない。自分達の住む日常の世界とその塔が、あまりにも『違いすぎる』ということを。だから村の者は誰一人として、よほどの用事がなければ塔に近付くことなどなかった。そしてさほど大きくもない村で、よほどの用事など起きることもなく日々は過ぎていく。
誰が呼び始めたのか、いつから呼び始めたのかは分からない。塔がただ塔、と呼ばれるのに対して、黒衣の魔法使いに勝手な呼び名がついた。もちろん本人の前では使う者など、いはしなかったが。どうしてそのような名で呼ばれるようになったのか、不思議と誰も知らなかったが、確かに魔法使いはこう呼ばれていた。
嘆きの旅人、と。
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