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その他もろもろの部屋(童話・異世界・現代・エッセイ系など)

コンカミサマの話

作者: 石川織羽

【編著の結びに】


 昭和五十年一月号から十回にわたり、雑誌『月神』へ『青塚の殺人鬼』の題で書いた。

 思っていたより評判は悪くなかったようで、今回改めてこうして本とする運びになったのは嬉しい限りである。しかし『青塚の殺人鬼』自体は、苦労したわりに凡庸な怪奇推理小説に終わった。十年も前に書いたのもあって、読み返すと赤面もので直してもきりがない。改稿は一部に留め、ここには執筆の途中で得られた思い出について記しておこうと思う。


 編集者からすすめられ書きはじめた『青塚の殺人鬼』だったが、自分の力量不足により詰まってしまった。大方の作者は筋など考えず書いていくけれど私は昔からそれが出来ず、休載を挟んで苦しんでいたのである。書くほどに安っぽさと偶然の多用が目に余り、弱り果てた末に悪癖が出て、私は取材の名目で逃げ出してしまった。逃亡先に選んだのは岩手県だった。


 都市の空気を離れたかったのと、「岩手には遠野がある」という、実に苦し紛れの言い訳だった。寝台夜行へ飛び乗ったのが、九月二十二日である。


 言い訳は成立させねばならないため、駅に到着後タクシーで遠野へ向かい、ぶらぶらと集落の周辺を散策した。盆地特有の湿潤で古風な雰囲気に慰められたものの、これだけでは足りないと観音山などにも足を運んだ。轢かれた狸の死体を見たあと、再びタクシーに乗り花巻温泉の旅館に潜り込んでいたところを、東京から追い駆けてきた担当者の佐々木君に見つかった。


 しかし直ちに東京へは連行されずにすんだ。

 佐々木君が私の習性を承知してくれていたのと、すでに作家の宮崎氏とお会いする約束をしていたからである。佐々木君もまた氏とは旧縁があったため、私の事情を尊重してありがたくも予定を調整してくれた。


 九月二十六日。

 久しぶりに再会した宮崎氏は、相変わらずスマートな紳士であった。温厚で親切な氏は、落ち込んでいる私の刺激と気分転換のためにと、大学教授で知人の葛原先生をも招いてくださっていた。お二人とも背広を着用され、佐々木君でさえネクタイを締めているのに、私だけくたびれたジャンパー姿で恥ずかしかったのを覚えている。


 花巻駅近くの食堂で早めの昼食後、宮崎氏の車へ乗り込み、葛原先生の生家がある『曽和そわ』という集落へ案内して頂いた。

「今はちょっと珍しいものがある時期ですから」とのことだった。


 古音で『そわ』とは『険しい』の意味だという。実際に奥羽山脈の膝の上と言って良い集落までの道程は、彫刻刀で削ったような山道だった。


 晩秋の色も深い紅葉の中を走る車内で葛原氏が

「曽和の部落は、平家の落人が隠れ住んだのがはじまりと言われています」

 と、至極真面目に語られた。


 花巻は中尊寺で有名な平泉と近い。

 源義経が奥州へ逃げ込んだように、滅びた平家の残党もこの地へ隠れたとの伝説が語り継がれていた。平家落人の伝説は、あくまでも優しくロマンチックな伝説として受け取っておくのが良いだろう。しかし我ながらおこがましいが、まるで東京から逃げてきた自分と重なるようで、私は「そうですか」と真剣に頷いた記憶がある。


 やがて辿り着いた曽和の集落は、雪にはまだ早いが空気は澄み、空は高く、肌寒かった。平家伝説を連想させる目立った旧跡は見当たらず、家と田畑が点在するごく普通の小集落であった。それでも秋風に洗われ鮮やかに輝く自然の黄金郷は、都を追われた平氏たちが故郷の面影を探す様を空想させるのに充分の美しさだった。


 集落の中ほどに建つ古い平屋の家が葛原氏の生家で、ご両親とお兄さん一家が同居しておられた。近所の何軒かは、空き家である。最近はサラリーマンになった子ども達に連れられ、出て行く人が多くなりましたと葛原先生が話しておられた。


 我々が玄関に立つと、兄嫁である京子さんと、小柄なお婆さんが私たちを迎えてくださった。葛原先生のご両親とお兄さんは、いずれも急な用事と仕事が入り外出されてしまったそうで留守番をしていたお二人から交互に謝られ、私の方がかえって恐縮した。


 立派な囲炉裏のある大座敷へ通され、お茶や菓子などいただいた。

 先のお婆さんは始終にこにこしながら、一人だけ座敷の隅に慎ましく控えておられた。

 私がお茶を飲みつつ、こちらは一体どういう方なのだろうと思っていた心の内を察したようで、お婆さんは自分はずっと葛原家でお手伝いさんのような仕事をして暮らしてきた、親戚筋の者だというようなことを述べられたが、独特の方言は生まれが上方の私には外国語に等しく、うやむやに相槌を打っているしかなかった。


 そうしてしばらく囲炉裏端で歓談していると、襖が開いて女の子が顔を出したのである。

 お兄さん一家の末のお嬢さんで、小学校一年生の女の子だった。学校帰りでランドセルを背負い、紺色のスカートに赤いヘアピンで前髪を留めていた。私は反射的に、座敷童子ザシキボッコか何かに出会ったみたいな錯覚で、無意識に頭を下げていた。


 ご挨拶をしなさいとお母さんに促されても、女の子は口を開かない。私たちをじっと見つめていたが、襖をぱしんと閉めて行ってしまった。親御さんに謝られたものの、あれくらいの年頃では恥かしいのもあろう。さだめし、友達と遊びに行く約束でもあるのだろうと、こちらも気にもしないでいた。


 それが数分も経たず何気なく後ろを見たら、先の女の子が縁側に座って本を読んでいたので驚いた。読んでいたのはカラフルな少女雑誌で、女の子は粗い紙の頁を繰っていた。


 開いた雑誌と彼女の膝の間に、何か挟まれているものが見えた。

 女の子が膝に乗せていたのは古い人形で、しかも生易しい古さではないと一見してわかるものだった。黒光りする丸い頭の人形は、青色の紙の衣装を着ている。


「あの人形は何ですか?」

 私が声を潜めて尋ねると、向かい側に座った葛原先生が「ああ」と頷いて教えてくださった。


 聞き取れた範囲では『コンカミサマ』だった。


『命日』と呼ばれる秋の一日だけ、各家で人形が飾られる。毎年衣は新しく取り替えるが、それらを含めて扱うのは全て女性と決まっていた。二体一対で『コンカミサマ』と呼ばれ、桃の節句に用いるお雛様に例えれば、男雛にあたる方を『オセナンサマ』。女雛にあたる方を『オイムンサマ』と呼ぶという。


「『オシラサマ』のようですね」

 身を乗り出して佐々木君が嬉しそうに言った。私も全く同じことを思っていた。


 主に東北地方に存在する、『オシラサマ』と似ている。ただしオシラサマの人形は馬の頭を持つ場合も多く、林羅山の書にもある馬娘婚姻譚と一部混合している。一方『コンカミサマ』は蚕と直結する要素がなさそうであり、馬の首でもない。

 それでも宮崎氏は、「やはり養蚕や農村の守り神、秋の豊穣に関わる民間信仰の一種でしょうな」と見解を示され、葛原先生も賛同されていた。


 先に私はこの『コンカミサマ』を、“扱う”と書いたが、不適当だったかもしれない。


「そだんす、まぁんつ、気に入っとるよだじゃで。(そうなんです、マァ、気に入っているようで)」

 と、あのお婆さんが部屋の隅で丸顔を綻ばせて言っていた。


 あの女の子が古い人形を気に入っているものと考えていたら、私の早合点であった。『コンカミサマ』の方が、少女を気に入っているのである。それゆえ、女の子は人形を連れて歩いている。主従が逆であった。お婆さんが教えてくれたところによると、年少の女の子が『コンカミサマ』の遊び相手になるらしい。


 その後、座が崩れた折に私は日当たりの良い縁側へ出てみた。

 女の子はまだ人形と一緒に、カラフルな少女雑誌を読んでいた。お婆さんの言葉の通りであれば、人形が女の子と一緒に雑誌を読んでいた、と言った方が正確になる。


「お人形、ちょっとの間だけ貸してもらえないかな?」

 私は腰を屈めて頼んでみた。でも女の子は私の方を振り仰ぎ、黙って首を横に振る。コンカミサマも私を見ているようだった。


 人形頭は黒光りして頼りないほど小さく、引眉に糸のような目が描かれている。唇だけは赤々として、平安朝の貴公子を思わせた。か細い首の下に着せられている紙の衣は意外なほどきちんと作られ、脇の開いた襖子あおしの形になっていた。


 縁側の会話に気付いたお母さんから、「お客様へお渡ししなさい」と声がかけられた。

 それへ答えた少女の言葉に、私はたまげたのである。


「だってこのひと、嘘つきだもん」


 大人達の話しを聞いていたのか、わからないが、真正面から嘘つき呼ばわりされた私は次の言葉が出てこなかった。私が狼狽しているうちに女の子はお母さんに叱られ、コンカミサマと共に廊下の向こうへ走って逃げてしまう。


 私は葛原氏やお母さんたちから、丁重にお詫びされた。

 しかし大変申し訳ないが許してやってほしいという。「今のあの子は、神様の遊び相手だから」とのことだった。

 私はぼんやりとそれらを聞きながら、ふしぎな気分で要領を得ない返事をしていた。


 何も悪い気がしていなかった。日々ありもしない妄想を重ね、見てきたように書き散らし飯を食っている私はたしかに嘘つきなのである。普段ならつまらないひがみ根性が出て、嘘の何が悪いんだと、腹の中で舌打ちの一つもしたかもしれない。

 でもこの時は底が抜けたように爽快というか、いっそ痛快ですらあった。


「あの人形は、曽和の部落で最も古いものだそうです」

 と、宮崎氏から教えて頂いた。

 集落内の各家々に『コンカミサマ』はすんでいるが、それらはどれも、葛原家に伝わる人形が元になっているとのことだった。


 更に隣の座敷まで案内して頂くと、秋の花々や栗や胡桃で飾られた祭壇があった。

 その真ん中で、鬼灯色の紙の衣を着た、女雛にあたる『オイムンサマ』が留守番をしていた。数多の時間と女性達の手を経て、艶やかに黒ずんだこちらの小さな丸顔にも気品があった。落人伝説を信じるとすれば、都落ちした平家の女房か、武士の娘の遊び相手でもあったろうか。そんな空想をするのもまた、楽しい時間であった。


 そして帰り際に車へ乗り込もうとしていた私達のところに、あの女の子が顔を出した。男雛にあたる、『オセナンサマ』も一緒だった。

 大人たちから「ご挨拶を」といくら促されても、女の子はお母さんの後ろへ隠れて出てこない。佐々木君と私は苦笑して車へと乗り込んだ。窓を開け、私の癖なのだが、尚もくどくどと挨拶をした。


「またね」

 最後に、大人達の前へ押し出された女の子へ向け、私が小さく手を振ると

「嘘でしょう」

 微笑んだ女の子はそう言った。

 これには参って頭をかくしかなかった。郷に入れば郷に従えである。私を「嘘つき」として譲らなかったのは女の子ではなく、少女の胸に抱かれた古い人形なのだと、了解しておいた。


 後で私は自分なりに調べて、コンカミサマは元は『このかみさま』であったかと考えるに至っている。万葉集や源氏物語にも出てくる『このかみ』という言葉は兄であり、時に姉をも指し、年長者の意でもある。古い言葉が方言という形で地方に残っていることはそれほど珍しくないので、その系統であろうと考えている。


 こうして東京の机の前へ戻った私は再び筆を取る気になり、小説は何とか書き上げた。私のつまらない悩み心に穴を開けてくれた、コンカミサマのお陰と言っておくべきであろう。


 ところでコンカミサマについて、どうしてもこれだけは書いておかなければならないことがあるので、今しばらくお付き合いいただきたい。


 東京へ向かう列車の中で、私は缶ビールを飲んでいた。

「あのお婆さんは、どういう親戚の方だったんだろう?」

 半ば独り言のつもりで私がそう言うと、煙草を咥えていた佐々木君が変な顔をしたのである。


「京子さんですか? 少し年上だとは思いますけど、お婆さんは言い過ぎでしょう?」

 お茶を出してくださった葛原家の兄嫁さんが、『京子さん』だったのは私も承知している。そうじゃない、もう一人いたお婆さんだと言い張る私に、佐々木君は更に怪訝な顔をして言った。


「そんな人いませんでしたよ」

 やめてくださいよと笑った彼曰く、あの家にいた女性は京子さんと、小学校一年生の娘さんだけだったというのだ。


 そんなはずはないのである。

 私は十年経った今でも、お婆さんの顔立ちからが着ていた割ぽう着の柄まで、ハッキリ思い出せるのだ。しかし列車の中で佐々木君との話しは噛み合わないままに終わり、終わってまだ私は自信を持っていた。


 だが日が経つにつれ、よくよく思い返していくと、やはり妙なのである。

 あのとき座敷の隅にいるお婆さんと目を合わせていたのは、私だけだったかもしれない。それも、あのときは気にしていなかったけれど、お婆さんは囲炉裏端の我々のお喋りへ自由に口を挟み、前後の話題に関係なく気侭に喋っていた。


 つまり部屋の隅にちょこんと座った、自称“親戚筋”のお婆さんが、にこにこと教えてくれる話しに私一人が感心し、頷いていただけという光景のように眺められるのである。


 お婆さんに自己紹介はされたが、葛原家の人たちからの紹介は無く、喋っている様子も無かった。考えるほどに女の子が最初に座敷へ顔を出したとき、無言で襖を閉めてしまったのは何故だったのだろうとまで思えてきたのである。


 黙っておこうかと考えていたものの、生来の神経質な性格からどうにも気になって、後日おそるおそる葛原氏のご実家へお電話をして問い合わせてみた。


 電話口に立たれた葛原先生のお兄さんは、気さくに応じてくださった。

 だが私の話しを聞き、しばらく黙った後、「宅にそういうお婆さんはおりません」と断言された。奥さんの京子さんも、そんな人は見ていないと仰っていた。小学生のお嬢さんは不在だったため、わからない。


 私が呆然としていたのが、電話越しに伝わってしまったのだろう。不躾な質問をしたのはこちらであるにも関わらず、「何ぶん田舎ですので、近所のお婆さんが上がり込んでいたのやもしれません」と、お兄さんは気を使ってくださった。


「しかし、まぁ……コンカミサマですからな。そんなこともありそうですな」

 受話器の向こうで、微かに呟かれていた声が今でも耳に残っている。


 あれから十年が経ってしまったが、伝え聞いたところでは『コンカミサマ』は今も集落で大切にされているとのことだった。だがお嬢さんもすでに、コンカミサマと遊ぶ年齢ではない。華々しいおもちゃや、新しいものが溢れる時代にも、まだコンカミサマと遊んでくれる少女はいるのだろうか。


 拙い原稿を読み返すうち、原稿の中身よりもその当時の思い出の方が強く蘇り、取りとめもないが忘れるのが嫌さとお札を納めに参る代わりに、このような形で書かせて頂いた。

 十年前の秋。快く協力してくださった宮崎氏と葛原先生、そして佐々木君(無論、彼はとうに私の担当などではない)には改めて感謝を申し上げたい。


 尚、あれ以来私は曽和の集落へ行っていない。

「またね」と言ったくせに、ほらやっぱり嘘つきでしょうと、少女の声を借りたコンカミサマに言われそうな気がしている。

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― 新着の感想 ―
[良い点] あれ、これ怖い方へ行くのかな、と思いつつ、ドキドキしながら読み進めました。 古い慣習や伝承の残る場所での一時を味わったような読了感でした。 おもしろかったです! [一言] このお話を読んで…
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