指輪
「あ……れ?」
なんだ、この光景は。
その場面に一人だけ俺は取り残される。
「あやめちゃん、お久しぶりね。元気にしてた?」
「おばさんお久しぶりですっ!」
母さんとあやめ、二人は親しげに会話を始めた。
「数年会わないうちにこんなにも大きくなっちゃって~。子供の成長期って恐ろしいわね」
「えへへ」
母さんは優しく、あやめの頭を撫でる。撫でられてるあやめは嬉しそうに、ここに来て初めて見る笑顔を見せた。一人話についていけない俺は目の前で何が起こっているか理解できていない。
そんな中。
あやめは俺の腕を肘で突っついてきた。
「私、おばさんの親戚の子なんです」
「は、はぁ……? 身内で子持ちの人なんていな―」
「って、設定です」
母さんに聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、あやめはひそひそと俺の耳元で言った。
―設定?
ぽかんとした顔で、あやめを見た。
―少々時を巻き戻そう。
こうなったのは、あやめが爆弾発言してからだった。
「私、帰るところがないんです」
嫌な予感が的中してしまった俺は、どうすることもできず、一瞬時が止まったかのように思えた。
帰るところがない?
「どういうことだ?」
「私、言ったじゃないですか、目が覚めて気づいたらここにいてって……」
「言ったな」
「目が覚める前の記憶、思い出しても何も出てこないんです」
あやめは焦り口調で言った。
「待て、普通それを先にいうべきだよな?」
「今気づきましたっ!」
「記憶がないことが重大だと思うけどな!?」
「でも聞いてください! ちゃんと日常不可欠な行為は覚えてます!」
「いや、そんなこと言われてもな!? てか、常識知らずの方が困る!」
まさかのまさかだ。
俺自身あやめが意味不明なのにも関わらず、あやめ自身も自分が意味不明ときた。笑うにも笑えない話である。
俺はため息をついた。
「記憶がないって本当かもしれないが、さすがに俺の家にお前を置いておくことはできない」
先程とは打って変わった冷たい口調で言った。そんな俺を、あやめはただ見ていた。
「よく分からないが、家があってもなくてもさっき言った道理で家から出てってくれ」
俺を見ているあやめの目を見る。
世間一般からすれば、幼い女の子一人を夜に一人で歩かせるなんて酷い話だと思われるだろうが、可哀そうなのは俺だ。もし万が一にやましい行為をして記憶をなくさせて、一人帰れと自分が言っているのであれば自分が悪いだろうが。でもさすがに周りの状況とあやめの状態から見て、そういうやましいことはなかったはず、だ。
と、ここで。あやめは口を開いた。
「……嫌、です」
あやめはぼそっと言った。
俺は少々きつめに言う。
「何が嫌なんだよ」
「ここから出ていくの」
「だから何で」
「ここ出たら、私はどこに行けばいいのか分からない……。行く場所がないから」
あやめは急に立ち上がり、俺の胸倉をつかんでくる。
「おっ、おい!」
「お願いです、私をこの家に置いてくれませんかっ!」
いつの間にかあやめの目には涙が浮かび上がり、先程のあやめとは思えないほどの圧がかかっていた。あやめの圧に圧倒された俺は、女に負けたくないという意思で必死に抵抗する。
「だから、お前をこの家に置くことなんてできないって」
「お願いです!」
「お願いもくそもない! ほら、出てけ!」
俺の胸倉を掴む強めの手を必死に放し、掴まれていた手の腕を掴む。片方の手で部屋のドアを開け、あやめを部屋から出そうとする。
「は、放してくださいっ!」
「お前が家から出ていくって言うなら放す。ほら、大人しく家から出てってくれ!」
「い~や~で~す~!」
俺はあやめの腕を引っ張り、部屋から出そうとするものの、あやめは足を踏ん張り部屋を出ていこうとしない。華奢な体にもかかわらず、意外にも馬鹿力だ。
俺たちはこのやりとりを数分間ひたすら繰り返す。
「空真、騒がしいわよ! いい加減に夕飯食べなさい!」
と、ここで。
またもや母さんの追い打ちの声が聞こえる。少々怒っているようだった。なるべく早く穏便に済まさなければ、母さんは俺の部屋のもとへ来るかもしれない。
俺は一先ず母さんが俺の部屋に来ても平気なよう、あやめを部屋に戻し、部屋のドアを閉めた。
「そーま?」
「……お前が大声出すせいで母さんに怒られただろ」
「そーまがいけないんですよ」
「何で俺が悪いんだよ」
小声でひそひそと会話をする。俺はまたしても、はぁ、とため息をつく。
今日何回目のため息だろうか。
「あやめ、俺が夕飯を食べている間、絶対にこの家から出ろ」
「またそれですか! だから、この場所以外行く場所がないって―」
「行く場所がない行く場所がないって……。さすがにさっきから冗談キツすぎだろ」
「じょ、冗談じゃないっ」
「いいから、隙を作ってやるから出てってくれ。じゃ―」
まだ何か言いたげそうなあやめを横目に俺は背を向けてこの部屋から出ると、部屋のドアを閉めた。……自分の感情も、閉めるように。
―これでいいんだ。あやめという存在が家から出てってくれさえすれば。俺が母さんに問い詰められることも、噂になることもない。ましてや、夢に出てきた少女に似すぎている。
夢のことを忘れていなければ、俺は―。
「……冷静になれよ、俺」
一旦落ち着こうと閉めたドアに体を預け、目を閉じた。
今までにない、何かをやっと見つけたような、自分でもよく分からない感情がぐるぐると体内を巡った。暖かいような、冷たいような。とても矛盾した感覚だ。
「……あ、れ?」
そのとたん。目尻が一段と熱くなり、頬に何かが触れていた。さらっと触って消えていったものは、床にぽたっと垂れた。
自分でも何が起こっているのか分からず、頬を触ると、わずかながら濡れていた。
「俺、泣いてるのか?」
訳も分からない涙だったものに、俺は目をこすり拭った。
どうしたものか。
そんな俺自身も理解不能な感情に疑問を持ちつつ、ドアから体を起こし、母さんが待つ食卓へと足を運んだ。俺は重たい足取りで、食卓に着いた。
俺の家の食卓は、割といたって普通のリビングとキッチンが同じ部屋にある食卓である。四人で椅子に座って囲む白いテーブルが置かれてあり、四人で見るには十分なテレビが置いてある。
「空真、やっときたわね」
母さんは既に白いテーブルに座っていた。
「早く食べてお風呂入っちゃいなさい」
母さんはそういうと、白いテーブルに置かれた母さんが食べ終わった皿を重ねた。母さんの反対側の席には、冷めきっていると思われる俺の分が皿に盛りつけられていた、ゴロゴロとした野菜と俺が好きな大きめの豚肉が入ったカレーライスときゅうりやらポップコンが加えられたサラダだ。
俺は母さんの言葉に、ん、と一言返事だけ返す。母さんの座ってる席は後ろに廊下があり、そこからでも俺の部屋から玄関に行くことができた。無意識にも、母さんの後ろの廊下に目が行ってしまった。
「じゃ、いただきます」
いつも通りに食事して、いつも通りに食卓を出ていく。
少しでも顔色に出たら負けだと思い、自分で思ういつものペースを保ってカレーを口の中に放り込んだ。
「空真、さっきから廊下ばかり気にして、何かあったの?」
「げほげほっ」
俺は盛大にむせた。
やはり無理があった。
「べ、別に何もないけど?」
余計に怪しさを感じさせる言い分に、このセリフを聞いて何もないと思う人間などまずいないだろう。後先も考えず行ってしまった言葉に、俺は後悔をした。
「そう?」
「そうだよっ!」
俺はムキになって答える。
「じゃあ、スマホ見せなさい」
「え?」
「スマホ見れば一発でしょ?」
母さんは右手を俺の方に出し、カツアゲするかのように悪い顔をした。
「今時の若い子はスマホがほとんどでしょ? なら、トークメッセージとか見れば何で空真がぼーっとしてるのかもわかるでしょ?」
なるほど、そういうことか。
母さんはただ俺がぼーっとしてたから、何かあったのかと思い込んでいるらしい。事実はネット上ではなく、家なんだが。
俺はこれで疑いが晴れるなら、としぶしぶ制服のポケットに手を突っ込んだ。
が、しかし。
急に人差し指にチクッとした激痛が走った。
「いたっ!」
俺は思わず声を出してしまう。
「いた?」
母さんは俺の声に反応し、顔をしかめた。
まずい、これはまずい。
激痛が走った原因はすぐにわかり、俺は隠すようにポケットに手を突っ込んだままその場で沈黙が走った。
―そういえば、泉にスマホ壊されたんだった。
ポケットの中でガラスの破片がじゃらっと音を立てる。勢いよくポケットに手を突っ込んだせいで、手がじりじりと熱くなった。さすがにスマホを壊したとは親に言えない。
「ごめん、スマホ二階にある」
「いや、今じゃらって音したわよね?」
「してない」
俺は必死にポケットから手を離さない。
「じゃあ、どうしてポケットに手を掴んだまま放さないの? 自信満々に手を突っ込んだじゃないの」
「そ、それは……その」
「トークメッセージ、見せられないことでも書いてあるの?」
「いや……そんなことは」
母さんは見せなさい、とひたすら催促をする。トークメッセージ見せる見せない以前にスマホが壊れてしまっていては元も子もない。
と、そんな空気に満たされたときだった。
「そーまのわからずや!」
俺が廊下から眼を離した隙に、少女が食卓の入り口に立っていた。
「お、お前っ!」
その少女―あやめの姿を捉えた俺は、口を挟まずにはいられなかった。
「家から出ろってあれほど―」
「私はこの場所以外知りません」
俺は返す言葉が見つからず、必死なあやめを横目に、母さんの顔色を恐る恐る伺った。母さんは俺たちの様子に、「やっぱりね」と言いたげに俺の顔を見てきた。親子そろってお互いの顔を見るという、謎の状況が生まれた。
「空真」
母さんは俺が言葉を発する前に先行をきった。
―終わった、俺の人生。
先行をきられたことによって、余計に言い訳にしか聞こえない。全身から発刊した汗を手で握った
「その子、誰?」
俺の心情も知らないで、母さんは少々にんまりした顔で聞いた。
「あ、えっと……」
母さんから顔を背け、真っ白な頭で必死に言い分を考える。
が、言葉は当然出てくるはずもない。
「こいつは……」
「私、あやめって言います!」
「お、おい!」
俺が考えていると、あやめは俺の横に移動し能天気に答えた。
この子、馬鹿なのか。俺は凝視する。
と。急にあやめの右手の薬指が光りだした。
俺と母さんは、急に光りだしたそのもののに目が一気に向く
「あやめ、ちゃん?」
「はいっ、そーまの親戚の子のあやめです」
光に目を奪われた母さんは、洗脳されたかのように瞬きもせず、じっと光を見つめていた。そしていつの間にか。発光していた光は消え、母さんは瞬きを始める。
―と、ここで先ほどの話へ戻る。
「せ、設定って、そんな記憶を足したり引いたりなんて簡単に」
「できます」
動揺している俺に、あやめは即答で答えた。
「これを見てください」
あやめは俺の目の前に右手を出した。先程薬指が光ったほうの手だ。俺はまじまじと薬指を見た。
「……指輪?」
そう、先ほど光った右手の薬指には指がはめられていた。あやめの目のようなエメラルドグリーンのような緑色の光沢がある宝石が埋められている、銀色の指輪だった。俺はその緑色の宝石に目を奪われた。どうしてこんなにも目を奪われてしまう指輪を、部屋にいたときは気づかなかったのだろう。思わず触れたくなってしまう。
「この指輪は、対象の相手の記憶を変えることができるんです」
俺は触れそうになってしまった手を我慢し、あやめの説明を聞く。あやめはそう説明すると、「ほら、あんな風に」と母さんを見た。
「記憶を変えるって、その指輪だけで?」
「はいっ。……あ、嘘だと思ってます? 嘘だと思ってるなら、そーまの記憶も私が親戚の子って記憶に書き換えちゃいます?」
「嘘じゃないです。すみません」
横からガチ目な顔で、指輪をぐっと近づけてくるあやめに俺は納得していないながらも、納得したかのように振舞った。信じてはいないが、母さんの記憶を書き換えたのは本当だ。初対面の相手を親戚の子と勘違いすることはない。という以前に、親戚に子供がいなかった気がする。それに、こんな本当に親戚でもない奴と自分が、俺の知らない記憶に書き換えられて親戚の子と認知するのは絶対に嫌だ。知らないほうが気楽、かもしれないが、俺からしたら偽りの親戚の子は他人として扱いたい。その方がいいに決まっている。
「でも、お前、名前と日常不可欠なこと以外は分からないって言ってたよな?」
信じたくもないが、指輪が記憶を書き換える道具? なのは分かった。だが、どうしてあやめは指輪の存在を知っているのだろう。
「それ以外、なんて言ってましたっけ……? それ以外なら、指輪の存在だけはちゃんと把握してますよ」
あやめは右手を下した。
「それでも、それ以外分からないって……。そんなんでよくもまあ、余裕な顔で?」
「余裕な顔?」
「指輪向けるの禁止っ! すみませんっ!」
俺があやめの地雷を踏むと、ぐぐっと指輪を俺の目に近づけてきた。記憶を書き換えられたくない俺は必死に謝る。
「でも、余裕っちゃ余裕かもですね~!」
「急に?」
「この指輪さえ覚えていれば、この世界は私の手のひらで転がっているようなもの、でも言うんですかね? 都合よく記憶を書き換えちゃえば、世界征服も夢じゃないですし~!」
「いや、お前。物語の趣旨変わってるんだけど?」
俺は急なあやめの能天気さに、呆れた顔をする。一言で言うとめんどくさい女だ。
「!? 何も言ってない!」
あやめは何かを察したのか、俺の目の前に、また指輪を近づけた。このやりとりを大人しくずっと見ていた母さんは、急に高らかに笑いを上げる。
「本当に二人はっ、あはは」
「どこに笑いの要素がある!?」
「やっぱり面白いわねっ」
母さんは笑いが止まらない。ましてや机まで叩きだした。俺とあやめはお互いに顔を見合わせ、呆れ顔で母さんを見た。
母さん、あやめに飽きられるとか終わってるな。
数分間、一人で爆笑していた母さんは「ごめんなさいね」と言い、俺たちに向き合った。
「それであやめちゃん、急にこんな日も落ちた遅い時間にどうしたのかしら?」
先程の笑い顔とは打って変わった表情で、母さんはあやめに聞いた。
「実は、両親が海外出張に今日から行っちゃいまして」
「なるほどね。大きなお屋敷に一人娘を一人置いていけないと」
「そうっ、そうなんです!」
あやめの作った勝手な作り話に、母さんは頷き、またしても母さんの勝手な発言にあやめは乗っかった。
「白川さんのお宅、海外行くっては言ってたけど、まさかあやめちゃんを連れて行かないなんてね~。相当可愛がられてるのね」
「そうなんです!」
可愛がられてると自分で言うことなのだろうか。母さんのいいように、あやめは少々照れる。内心よく分かっていないだろう。
「でもまあ」
母さんは俺が食べ終わった皿を片付け始めた。
「白川さんのお宅にはお世話になってるし、家に泊めてあげるしかないわね」
あやめに対し、母さんは優しく言う。その言葉に、「本当ですか!?」と嬉しそうにあやめは言った。計算通りに過ぎないだろう。だが、あやめに出てほしかった俺にとっては、その言葉は悪意でしかなかった。
「ええ。でも、ご両親がいない間だけよ」
「分かってますよ! 両親が帰ってくるまでよろしくお願いします!」
元気に言う声に、いつ両親が帰ってくるんだろうな、と一人心底思った。帰ってくるまで、と言っているがそれはこれから先ずっとを意味しているよな?
「そーまも、よろしくお願いします!」
あやめはえへへ、と俺に顔を傾ける。そんな笑顔に、俺は早く帰ってほしかった思いからムッとしてしまう。
「じゃあ、あやめちゃんの部屋を案内するわね、亡くなったお父さんの部屋になっちゃうんだけど―」
母さんは話しながらリビングを出ていく。その後ろを、まるでお母さんアヒルについていくひよこのようについていき、あやめもこの場から去った。俺しかいなくなった空間は、数秒前とは打って変わって時計の音しか聞こえない。
「はぁ」
静かな空間の中、俺は一人ため息をついた。今日もあの夢を見るのだろうか。そんなことを考えた。あやめとの会話で忘れかけていた夢のことを再び思い出してしまい、またもや吐き気に襲われる。俺はどうしてこんなにも夢にとらわれているんだ。
いつからこんなにも―。