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代償ケーキ  作者: 美佑氏シイバ
第一章
2/17

身も心も癒されて

 悠斗がドルチェの味を知ったのはほんの二カ月前だった。

 商店街の端っこに可愛らしいケーキ屋さんができたことは知っていたし、オープンするなり町の人気店になったことも知っていた。

 しかし、普段から甘いものを食べる習慣のない悠斗には足を踏み入れることも、店の窓から店内を覗き込むことも無い場所だった。

 それが、どうしてこんなにも通う事になってしまったかというと、全ては仕事のストレスが原因だった。

 悠斗が働くのはとある小さな文具メーカーの営業部門だった。営業とは言え、お客様のところをまわって商品の売り込みをするだけでなく、製造部門との打ち合わせや、時には工場の方へ手伝いに行くこともある。何せ小さな会社なので、一人ができることは何でもするというスタンスなのだ。

 社員も少なく、工場の方は特に派遣やパートでまかなわれている。しかし、人数が少ない分、仲間たちとはコミュニケーションが採れるし、社長の人柄が良いため待遇も悪くない。

 ただ、やはり、仕事の納期が押してくるとかなり忙しくなる。

 特に、商品を卸している県内の量販店などは、悠斗の会社が小さい所だからと、平気で無茶な納品スケジュールを言って来たりする。悠斗達営業は、そのスケジュールをこなそうと、工場へ手伝いに行き、必死に働いていた。

 二カ月前は特に仕事が忙しい時期だった。

 疲れてヘロヘロになりながら帰宅していた悠斗は、ふとドルチェの店に目が留まった。

 その頃はプライベートの時間がほとんど無く、次の日の事を考えると、仕事終わりに酒を飲むことすらできない状態だった。 

 とにかくストレスの溜まっていた悠斗は「何かして気を紛らわせたい!」と切実に思っていた。

 なにか、気分が浮上するような事なら何でもよかったのだ。

 スカッとする映画を見るのでも、おもしろ動画を見て笑うのでも、感動する小説を読んで涙するのでも、美味しい料理を食べるのでも何でもよかった。

 丁度そんな時に、美味しいと有名なケーキ屋さんが目に留まったという訳だ。

 看板を見てみると、閉店まで残り30分ほどだった。窓を覗いてみるとショーケースには、少しだけケーキが残っている。

 ケーキは嫌いではないが、ものによっては甘すぎて食べられない。

 どうしようかと迷っていると、店の中に入いた男性スタッフと目があった。

 それが、速水さんだった。

 速水さんは悠斗と目が合うと、にっこりと微笑んだ。

 このドルチェが有名なのには、実はもう一つ理由があって、それが速水さんだったのだ。

 イタリアのとある有名なホテルのレストランのパティシエとして修業を積んだという速水さんは、有名どころの雑誌でも紹介されるような人物だった。

 優し気で整った風貌をしていることと、すらりとした長身にコックコートが異様に似合っている事も、この店が人気の理由の一つだ。

 小さな町の、イタリア帰りのロメオ(色男)が経営するケーキ店として雑誌で紹介され、ドルチェは一躍有名店となった。

 ドルチェを知った当初、速水さんの経歴をまるで知らなかった悠斗は、「なんか、すごいイケメンが店番してる……」くらいしか思わなかった。

 忙しくてささくれ立っていた悠斗の心に、速水さんの笑顔が驚くほどの潤いをくれたことの方に感動した。

 のちに「悪魔の微笑」と心の中で名付けることになるその笑顔だが、その夜はまるで「天使の微笑」と思えるほど、心を温かくしてくれた。

 営業のスマイルだという事はわかっていたのだが、それでも、とてもよかったのだ。

 悠斗は「癒し」を求めてドルチェの門をくぐり、まず、店の中の内装の品の良さに驚いた。そして、ショーケースに並んでいたケーキが芸術品とも言えるくらい綺麗に形作られていることにも感動した。

 「すみません、もう、残りが少ないんですけれど……」と速水さんは謝って来た。確かに陳列ケースはスカスカで少々寂しかったが、ケーキ達の美しさが見劣りすることは無い。むしろ、たった一つ残っているシフォンケーキなど、まるで、生クリームの白いドレスを纏い、一人で舞台を張る女優のようではないか。

 美しいケーキ達に魅了されながら、悠斗は甘すぎるものが苦手であると速水さんに相談してみた。すると、彼は甘すぎないケーキを見繕ってくれた。

 その時に勧められたのは、ビターで大人の味が売りのティラミスと、酸味のある果物がたっぷり乗ったタルトだった。帰ってすぐに食べてみると、その美味しさに感動した。

 タルトのクリームも、甘すぎず、上品な味で、ぺろりと平らげた。

 そして、久しぶりに甘いものを食べたせいか、驚くほどの多幸感を得ることができた。

 それ以来、悠斗はドルチェへ足蹴く通うようになったのだ。

 ストレスを感じると、速水さんの笑顔で得られる癒しとケーキの美しさへの感動、そして、食べた時の幸せを味わいたくて仕方なくなる。

 正直、酒を飲むよりもストレスに効いている気がする。

 ただ一つ問題がある。

 酒も飲みすぎれば肝臓を壊す。

 甘いものも摂りすぎれば、肥満に繋がり、ゆくゆくは糖尿病や動脈硬化の原因となる。

 ここ二カ月ケーキ屋に通うようになったせいで、悠斗の体重は明らかに増えた。

 最近ズボンのベルトがきつくなり、穴を一つずらすことになった。

 もうすぐ健康診断だ。

 血液検査だってある。

 会社の社長は健康管理に殊の外厳しい。会社を順調に経営するには、社員の体が資本であるという考えの持ち主だ。健康診断だけでなく、歯も大切にするべきだと幾度となくお説教され、悠斗の会社の社員は最低半年に一回、必ず歯科検診に行かされる。

 とても素晴らしい考えだと思うし、健康診断で何かしら問題があった社員には、社長直々に面談があるのも、とても良いことだと思う。

 悠斗はこの会社に二年ほどお世話になっており、その間、健康そのもの、体重も大きな変化なく過ごしてきた。社長の熱意に押され、歯医者にも定期的に通うようになったおかげで、虫歯も無い。

 その悠斗の体重や血糖値に大きな変化が出たと社長が知れば、おそらく何かしら行動を起こそうと考えるはずだ。

 体調も経営体制も、どんな変化も小さいうちに見直すのが特に大切だと、社長は常々言っていた。

 良い変化なら受け入れ、危険な兆候なら観察し、被害が少ないうちに軌道修正を。

 変化が大きくなりすぎると、修正するのに多大な時間と費用が掛かるからだ。

 社長は自身の経験を踏まえて、そう行動することにしているらしい。「ここは小さなか会社だからね。大きな会社とは違って、こういう軌道修正はとても楽にできるんだよ」と常々口癖のように言っていた。

 素晴らしい考えだ。見習わねばならない。

 なので、体重の増加が外見に現れないように、悠斗も注意を払ってはいるが、つい、昨日、工場勤務の女性に、「あら、悠斗君太った?」と見抜かれてしまった。

 やはり女性は目の付け所が違う。

 そろそろ、自制をかけなければならない時が来たのだ。

 これ以上暴食を繰り返して、太るわけにはいかない。今の仕事に何かしらの問題があるとみなされてしまう。社長に変な心配をされてしまう。

 忙しい時期は既に過ぎた。

 無茶な注文をしてきた販売店の担当者とは、きちんと話し合いをして、早めの注文をしてもらう事ができるようになった。

 仕事上の問題は片付いている。

 問題は悠斗自身なのだ。

 ケーキを食べた時の幸福感が忘れられず、何度も何度も求めてしまう。

 いずれ、飽きるだろうと思っていたはずが、ドルチェは飽きる間を与えず、新商品を出してくる。忙しかった時期にクリスマスが重なったのも悪かった。クリスマスのために特別に作られたケーキの、なんとも豪華で美味しかったこと……そのせいで、余計に足蹴く通うようになってしまった。

 新年も明け、今度はバレンタインが来る。きっと、チョコレートで飾られた素敵なケーキが出てくるに決まっている。

 絶対に食べたい。

 男一人だろうと、速水さんがいればバレンタインでも照れずに買いに行ける。

 「ああ!オレはどうしたらいいんだ……」

 悠斗は風呂あがりの脱衣所で嘆いていた。

 体重計には、悠斗が去年の健康診断の時から、いや、正確には二カ月前から急速に3kg太ったことが表示されていた。


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