まるで禁断症状のように
駄目だ。
今夜こそは駄目なんだ。
誘惑を打ち払わなくてはならない。
悠斗は必死にそちらの方を見ないようにしながら、仕事からの帰り道を歩いていた。
自分の眉間に皺が寄っているのがわかる。
すれ違う人がいれば、この人は何を難しい顔をして歩いているのだろう?と不思議に思われるかもしれない。
しかし、そうでもしないと、本当に欲求に身を任せそうになるのだ。
家の最寄駅から出てすぐの商店街は、そろそろ店じまいの時間に差し掛かっており、道行く人もまばらだ。お肉兼お総菜屋からはコロッケを揚げる良い香りが漂ってきている。仕事帰りのサラリーマンと思しき男性が、肉屋の女性店員から茶色い紙袋を受け取っていた。その表情は嬉しそうに緩んでいる。きっと、美味しい出来立てのコロッケが入っているに違いない。女性店員もそんなお客の笑顔につられてか、とびっきりの笑顔になっている。
「熱いので気を付けてくださいね」
「うん、ありがとう」
お客の声には嬉しさが詰まっていた。コロッケを食べる瞬間を心待ちにしているのがわかる。そんなサラリーマンの声が呼び水になり、新しいお客がやって来て、期待をいっぱいにした顔でコロッケを注文する。店員さんたちはホクホク顔だ。
悠斗も立ち止まって考える。
自分もコロッケを買おうか?そして、それが冷めないうちに家へと急ぐのだ。そうすれば、あの店に立ち寄れないという理由ができる。
そうだ、そうしよう。
悠斗は早速お肉屋さんに並んだ。
コロッケを四つ注文する。二つは今夜の晩御飯にして、残りは明日の朝かお弁当にすればいい。ここのコロッケは一日置いても十分美味しい。
コロッケが揚がるのを待ち、悠斗は茶色い熱々の紙袋を手に家路についた。
そう、熱々の物を持っているってところがミソだ。もう片方の手は会社用のカバンで塞がっているし、もしあの店に行ってアレを買おうものなら、アレとコロッケを同じ手で持たねばならない。温めてはいけないアレを熱々のコロッケと一緒にはできない。だから、あそこに寄って、アレを買う訳にはいかない。
悠斗は自分のナイスアイデアにほくそえみながら、しかし、誘惑に引きずられないようにしっかりと前だけを見ながら、商店街の道を歩く。
悠斗を誘蛾灯のように誘う煌めくその店は、商店街の一番端っこにある。
以前は小さな雑貨屋で、悠斗がこの町に越してきた当初は営業していなかった。しかし、一年ほど前に工事が始まり、外観から内装までガラリと変わった店ができた。
柔らかい印象を思わせるクリーム色の壁、可愛らしい暖かなオレンジ色の屋根、西洋風のデザインは女性どころか男性の目も引きつける上品さがあった。
そのお店から漂う甘い香りには、誰もがうっとりとする。
内装は外装よりもさらに可愛らしいものだった。柔らかい色合いで統一された壁紙に床材、美しいアーチでかたどられた窓枠、商品を並べたショーケースはこげ茶色の柔らかそうな木材で造られており、そのデザインですら可愛らしい。小ぶりなシャンデリアが店内を輝かせ、店のところどころに置かれている天使の置物がその灯りを反射して煌めいている。
しかし、一番輝きを放っているのは、ガラス窓のショーケースに陳列されている商品だ。
ショートケーキ、チョコレートケーキ、プリンアラモードにベリーがたっぷり乗ったタルト、クリームとカスタードが二重に詰まったシュークリーム、大人の味覚と言わんばかりのシンプルに作られたティラミス、生クリームたっぷりのエクレア、こんがりと焼けたアップルパイ……
いつ見ても美しく作り上げられたそれらが、ショーケースの中で輝きを放っている。
さあ、食べて。甘くておいしいよと天使たちが囁いているのだ。
「いらっしゃいませ、水池さん」
この店の店長である速水壮也さんが、ショーケースの向こう側で悠斗に笑いかけていた。
気が付けば悠斗は、熱々のコロッケの袋を手に、この店『ドルチェ』の入り口をくぐっていた。
「こ、こんばんは」
「こんばんは。今夜もありがとうございます」
速水さんが銀のトングを手に、にっこりと微笑みそう言った。
悠斗の顔もその笑顔につられて緩みそうになるが、「我慢」という文字が脳内で警鐘を鳴らしており、ひきつった笑顔になってしまった。
ドルチェのケーキの味を知ってからというもの、悠斗は三日とおかずこの店に足を運んでいた。
もう、今週はこれで三度目だ。
いい加減、食べ過ぎなのはわかっていた。それ程甘いもの好きという訳ではないのに、何故かこの店のケーキの味が欲しくてたまらなくなるのだ。しかも、買えば買っただけその日のうちに食べてしまう。一度など、今夜と明日に分けて食べようと思っていたケーキを三つともその日のうちに食べてしまい、酷い胸やけに後悔したものだ。
しかし、それでも食べたい。
どうしても我慢できない。
それほどまでに、この店のケーキは甘く、美味しく、幸福感をくれるのだ。
「今夜のお勧めは新作のゼリーパフェです。いかがですか?」
速水さんが甘い言葉を囁いてくる。
彼の笑顔と、甘い声は悪魔の囁きと言っても過言ではない。
ケーキの味を説明し、「美味しいですよ」「自信作です」「是非、あなたに食べて欲しい」と伝える声には抗えない何かが潜んでいる。
今夜も新作ゼリーパフェの中身についての説明が始まった。
ゼリーとは言え、果物たっぷり、クリームたっぷり、ついでにイチゴ味のチョコまで乗っかっている高カロリーのものだった。
今夜こそは買ってはいけない、食べてはいけないともう一度自分に言い聞かせる。
今週の月曜日に食べて、昨日も食べて、今日も食べるのは、さすがに食べすぎだ。
しかし……
「……新作のゼリーとショートケーキください」
悠斗は自ら後悔への階段を上り始めた。
悠斗の言葉に、速水さんの顔がぱあっと輝く。
「はい、ありがとうございます」
やはり、悠斗は欲望に勝てなかった。
手に持っていたコロッケも何の役にも立たなかった。
それどころか、手は勝手に熱々のコロッケからケーキとゼリーを守るべく、会社のカバンを開け、その中にコロッケをしまい始めていた。財布やスマホが油で多少汚れても構うものか、大切なのはケーキだ。この店はケーキの箱さえ可愛らしい。この白い箱に油染みなんてつけられない。
綺麗な白い箱から、芸術品と言えるほどのショートケーキとゼリーを取り出し、とっておきのお皿に載せて、銀のフォークとスプーンで食べるのだ。
それこそ、一番の至福の時となる。
「今度、ゼリーの感想聞かせてくださいね。甘みを抑えて酸味を強くしてありますので、水池さん好みだと思います」
「はい、かならず」
「ありがとうございました。またいらしてくださいね」
「はい……」
速水さんの笑顔に見送られ、悠斗はケーキの箱を大事に抱え、店を出る。
少しだけ「また我慢できなかった……」という後悔が生まれるが、それよりも大きな期待と喜びが湧き出てくる。
今夜も、幸福に浸れる。
綺麗に形作られたケーキとゼリーをうっとりと眺めることができる。
そして、フォークでたっぷりとした生クリームをすくい上げ、口に頬張るのだ。ゼリーの方はどんな味だろうか?きっと滑らかでのど越しの良いものに違いない。
甘いひと時。
極上の時間。
悠斗は口の中に湧き出てきた唾液を飲み込んで、帰途を急いだ。