赤子の真似とて大路で興じらば、即ち赤子なり
次でタマさん編は終わりです。
前回までのあらすじ
狐耳の女子といっぱい会った。すごいなぁって思った。
これってものすごい幸運だから、多分自分は特別な存在なんだなぁって思った。
最後に会ったのが狐耳に赤ちゃんだったから、困ったなぁって思った。
思ってばっかりいると、やっぱり人間って考える葦なんだなぁって思った。
■■■
「あぶぅ……うぅ……」
「えぇ……どういうことなの……?」
赤ちゃんがいた。布にに包まれて頭だけ出した赤ちゃんが路上に放置されていた。
しかも狐耳。……どういう親? 赤ちゃん放置した上に狐耳着けるとか……何らかのサイコパスなの?
分からん……何もかもが分からん。
つーかどうすればいいの?
放置された赤ちゃんを見つけた時の対応なんて学校じゃ習わなかったよぉ……。
うん、遠藤寺に聞くか。
『ハァー……脳が死んどるのかお主は。前から思っとったが、お主ときたら困ったらすぐにあの探偵娘に相談相談……あれか? ぱぶろふのあれか? 困ったらあ奴に相談するように条件付けされとるのか? 将来どうするんじゃ? 卒業してあヤツと離れ離れになった時には? 疎遠になった後も何か困ったら相談するのか? それでいいのか? あ奴に頼ってばっかりおったら、お主の為にならんぞ?』
「でもママ……」
『やめい! 妾をママと呼ぶなぁ! 怖っ! お主こわっ! ちょっと母性見せたら母親認定してくるお主こわっ!』
「いちいちシルバちゃんは五月蠅いなぁ。でも……俺のこと心配してくれて言ってるんだよね。……ありがと」
『だからやめいっ! 思春期の素直になれない息子むーぶはやめいっ! いや、ほんとにマジで無理じゃから。未通未婚未恋愛の妾には荷が重すぎる……!』
チッ雑魚め……!
まあ……確かにシルバちゃんの言うことはもっともだ。
確かに困ったら遠藤寺、みたいなグーグル先生扱いしてるところはある。……遠藤寺先生。眼鏡かけた女教師風の遠藤寺かぁ……エヘ!
「えぅぅ……」
しかしマジでこの状況はどうすりゃいいんだ?
だってよ……赤ちゃんなんだぜ……?
警察か? 警察を呼べばいいのか? 呼んだとしても、いつもの俺に厳しい厳しい警官だったら……辛い辛い職質確定だろう。絶対長時間拘束される。そんなことになったら、待ち合わせをしてる遠藤寺も長時間放置だ。それは避けたい。
しかしだからと言って放置するのは、人間的に終わっている。下手したらそれだけでカルマがマイナスで閻魔様激おこ待ったなしだ。
うおおぉぉ……ど、どうすればいいんだ……。
『……ふん、見ていて面白かったが、そろそろ助け船を出してやろうとするかの』
シルバちゃん?
『お主、この状況は明らかにおかしいとは思わんか? 短い間に頻繁に現れる女たち、それも誰もかれもが面倒な事情を抱えておる。それに……狐耳。狐耳じゃぞ? お主、この辺りで狐耳が流行っとるとか聞いたことがあるか?』
でもほら、今日って狐記念日なんじゃね?
『そんな記念日はない』
でも分からないじゃん! 俺、最近まで知らなかったけど、ポッキーの日ってあるんだぜ? だったらフォッキーの日、みたいなのも~?
『ない。存在せん』
だったらさぁ! おかしいじゃん! 俺が知り合う女がさぁ! みんな狐耳なんだけどぉ!
『そうじゃな。おかしいのぉ。つまり――お主はハメられとる』
ハメェ?
『ネタ明かしをしてやるとじゃなぁ……さっきから出会っとる狐耳の奴ら、全員同一人物じゃ』
え? 全員……同一人物? 小学生とか、女子高生とか女騎士とか……この赤ちゃんも。
いや、どう見ても別人なんだが。体つきとか声とか見た目とかあらゆる意味で違うけども。
「あーう。あぅぅ……まんま……まんまぁ……」
指をしゃぶりながら、切なげにこちらを見つめる赤ちゃん。
『面白いから黙っとったからの。妾の目には最初から本当の姿が映っとった。滑稽じゃったのぉ……お主もあそこで指をしゃぶってるあやつも』
本当の姿?
「まんま……おっぱい、おっぱいぃ……えぅ、あぅぅ……」
『狐耳。アレは……妖狐じゃな。変化の術で姿を変えて、お主を化かしておる。妾を通して正体の一部――狐耳はお主にも見えとるようじゃがな。実際、妾の目には嘘偽りない本当の姿が……くくっ』
「妖狐?」
「おっぱ――ぶふっ!?」
俺が呟いた発言に、あかちゃんが突然噴き出した。
あかちゃんを見つめる。
目を見開いて、こちらを見つめていた。
視線が交錯する。
「…………あ、あぶぅ……おっぱい、まんまー……」
「何だやっぱりただの赤ちゃんじゃないか」
『草生えるわ』
「え、なに?」
『いやすまぬ。てっとり早く簡易な表現をしてしまった。滑稽過ぎて妾、超お腹痛い。これ以上は見てられん。ほれ、妾に同調するのじゃ。お主の中にある魔力……はないのか。ええいとにかく妾の言葉に身を委ねよ! 真実を見よう、と。強い意思を込めるのじゃ!』
まーたそうやって宗教めいた発言するー。真実とかプラーナとかマナとかアロウラとかさぁ……。
もー本当怖い。こうやって脳内に響いた声に従って色々犯罪とか犯すんでしょ? 神の声がーとか、宇宙からの毒電波がーとか。こうやってシルバちゃんと会話したり、心の中で会ったりしてるけどさぁ……本当にマジで今でも心の隅では……やっぱり俺、心の病気かなぁって思っちゃたりしてるわけ。だからさぁ、一応、一応ね? 試しで従いはするけどさぁ……真実の姿とかって、ペル〇ナじゃないんだからさぁ……。
「ひっく、ひっく……あーん、あぅぅー……」
どう見ても狐耳付けたただの赤ちゃん……
「おっぱい、おっぱいぃ……あぅー、やー、やぁぁぁ……まんまー」
赤ちゃん……ん? 何か姿がぼやけて……
「おっぱいちゅーちゅー……んふふっ。なんか楽しなってきたわ……ままー、まんまー、あぶぶー、ちゅっぱちゅっぱ……」
メイド……さん……?
金髪の……ナイスバディな……成人してるメイドさんが……。
メイドさん……赤ちゃん……ばぶばぶしてる……。
「まんまー……んんんー、ちゃうな。おかん、おかあちゃーん……おっぱいおっぱい……おふっ、これ、ヤバイわ。道のど真ん中で……人見てんのに……あかんわこれ、変な気分。何か分からんけど……このままやとわっち……引き返せんとこに行っちゃうかも……」
「……」
「いっつもお嬢さんを世話してるけど……たとえば、このまま赤ちゃんやったとして……いろいろお世話されたら……あっ……あかん、そんなん……変態みたいなん……でも……お兄さんに拾われて赤ちゃんとして育てられたら、ごはんとか……し、下のお世話とか! ……もし、もしの! もしの話やけど……ほら、何やかんや調べてお兄さん結構優しそうやし、人格的にも問題ないしなぁ――あかんって! わっち! もうわっち! わっちの馬鹿! 馬鹿狐! しっかりせんと! つーかさっきから喋り好き……は、いいんか。どうせ『ばぶばぶ』としか聞こえてへんしな」
「……」
「せやなぁ……。何やわっちも疲れたわ。今までずっとお嬢さんに仕えて、お嬢さんを騙そうとする輩とか遠藤寺家の財産やら地位狙って来る輩とかから守ってきたけどなぁ……もうお嬢さんもええ歳やし立派になったし。自分でいろいろ判別できるわな。今一番注意せんとあかん対象は目の前の兄さんやし、こうやって赤ちゃんとして拾われて兄さんの側にいつつ、変なことせんか見守る……で、たまにお嬢さんとこ帰る……え? やばない? それって素敵やん」
「……」
「第二の人生……か。わっちもいつまでもお嬢さんの側にはおられへん。いつかはお嬢さんの方からお暇を出される時が来る。その時の為に、セーフハウス。赤ちゃんとしてお兄さんの家に潜り込む……何もせんでも育ててくれる……ふ、ふへへ。独身のお兄さんが、今のわっちみたいな赤子を育てるってことに関しては色々障害があるとは思うけど……フフッ、あの目。お兄さん、わっちが天涯孤独の身なら、育ててやる……そんな目をしてる」
「……」
「そう考えると……運命感じるわ。今までお嬢さんに近づいて来たらヤツら、みーんな叩いたら埃出る輩ばっかり。でも、このお兄さんはちゃうかった。何もない。ただのふつーの大学生。純粋に、ただ、ただの友達としてお嬢さんに近づいてきた。……そういうこと、か。何かわっちアホみたいや。アホみたいに悩んで苦しんで……このお兄さんになら、お嬢さん任せられる、かな? で、わっちも……自分の幸せについて考えるべきやな」
「……」
「赤ちゃんになって世話される……そういう人生もあってもええかもな。あ、狐生か。……どうせ結婚する気はないし。故郷おったらクソみたいな相手とお見合いさせられるし。はよーに奉公に出されたから親の顔も覚えてへんし……よっしゃぁ! わっちは赤ちゃん! まんまー、いや……ぱぱ。ぱぱぁー。ぱーぱ。ぱーぱ! あうぅー! わっちやでー! わっちひろってー! 可愛いわっち拾って育てて―、ぱーぱー!」
■■■
やべーな。
全部聞いちゃったわ。事情把握しちゃったよ。
目の前の赤ちゃん……いや、金髪メイドさんの心の病的な何かも聞いちゃったよ。
この人アレだよな。遠藤寺ん家のメイドさん。タマさんって人だよな。
『じゃろうな。妖狐……変化が得意な種族じゃが。ふん、妾の目には全てお見通しじゃ』
お見通ししちゃったせいで、すんごい居たたまれない気持ちになってるわけだが。
成人女性の赤ちゃんプレイとか……ひくわ。
「ぱーぱ、ぱぱー」
どうすんのコレ?
タマさんがむすめにしてほしそうにこちらをみている。
『拾って育ててやればいいじゃろ』
相手が赤ちゃんを偽った成人女性とか、難易度高すぎ! うさ〇ドロップをDランクだとしたらこちとらSSSランクじゃいっ!
色んな意味でヤバ過ぎる。性癖が捻じ曲がって2周くらいして元の位置に戻りそうだわ。
つーかこの歳で子供を育てるのはちょっと……ダディ〇ェイスじゃねーんだぞ?
ここは心を鬼にして……いや、心を閻魔様にして……。
俺は恐る恐るタマさんに近づいた。
「……あ、あのー……」
「ぱーぱ! ぱーぱ! タマちゃんここー!」
親指を咥えながら、反対の手を俺に差し出してくる。
「ぱーぱ! おなかへったー! おいなりー! タマちゃんおいなりさんたべたいのー! 離乳食とかいらんから、三食おいなりさんー! おいなりさんちゅっちゅー」
「その、何ていうか……」
「ぱぱー汗かいたー! おふろー! おふろいれてー! あらってー、しっぽとみみはていねいにあらってー! ぱぱー!」
「いや、ほんと……あの……」
「ぱーぱ! ぱーぱぁ! ……あ、タマちゃんおしっこー!」
「近くに公衆トイレがあるんで、そこでして下さいタマさん」
■■■
「――で、いつから気づいとったん?」
公園のトイレから出てきたタマさんが、ハンカチで手を拭きながら、無表情で正面に立つ。
「いつからっていうか……」
「いや、待って。遺書を残すから、ちょっとだけ時間ちょーだい」
そう言うとタマさんはその場でスマホを操作した。5分ほど待つ。
先ほどまで蕩けた顔で赤ちゃんプレイを享受していた人間とは思えないほど、真面目な表情だった。
「クラウドデータに保存、と。さあ……どうぞ。で、いつから?」
「まあほぼほぼ最初っからですね」
「なるほど。そこにいい感じに高い木があるので、一緒に首を吊ってくれへん?」
何かちょっと一緒に飯でもどう?みたいな感じで誘われた。
「い、イヤですけど」
「お願いやからわっちと一緒に死んでぇぇぇぇぇっ!」
顔を真っ赤にして涙を流しながら迫ってくるタマさん。
美人からの心中申請とか状況が状況ならちょっと受け入れてもいいセリフだが、マジで今の状況は勘弁。
「うぅ……こんなん、あんなん見られて……生きていかれへん……死んだ方がましや……」
そう言いながら四つん這いになるタマさん。
金髪メイドさんを蹲らせて侍らせるって妄想はしてたけど、こんな形で実現するなんて嫌だ……。
「だ、大丈夫ですよ……あれくらい……」
「セルフ赤ちゃんプレイをじっくりたっぷりねっとり観察された経験は?」
「ないわな」
「はい死ぬー。お兄さん殺してわっちも死ぬ―」
「何で俺くんも!?」
「当たり前やん。自分の汚点残したまま死ぬわけないやろ? 今のところ汚点知るんわお兄さんだけやし、そのお兄さんと一緒に死ねばわっちの黒歴史も消えてなくなるやん」
なるほど合理的だ。
四つん這いのまま顔を上げたタマさんの目は完全に死んでいた。
ダークサイドならぬ、デスサイドに堕ちきっていた。
静かな殺意が目に宿っている。
「おにーさん、このあとお嬢さんに会うんよね? 絶対言うわな。わっちのばぶばぶプレイ言うわな?」
「いや、言わな……い……です」
言わない。言うつもりは全くない。だが――
「はい目を逸らした―! その通り! 例えお兄さんから自発的に言わなくても……お嬢さんのことやから、お兄さんの身に何かあったと察する。はい。で、スーパー名探偵のお嬢さんはお兄さんの一挙一言からあっというまに……はいQED。わっちが赤ちゃんプレイドはまり変態メイドってことがバレるってわけ。はい詰んだ! わっち詰んだ! 探偵ってマジクソやんね! 何で人が隠したがってる秘密を暴くかなぁ! コ〇ンくんも金田〇少年も霧山修〇朗もクソや!」
「最後は警察なんですけど……」
勿論俺の発言を犯人は聞く気がない。
俺もろとも心中する気満載だ。
まあ、気持ちは分かる。ほぼ会ったばっかりの相手に対して、かなりレベルの高いプレイをありのまま披露したのだ。しかもその相手が自分の上司と身近な存在。
俺でも相手を殺すか、グノーシアと断じて速攻冷凍刑にするか、起爆札付きの落とし穴に一生閉じ込めるわ。
「すんっぐすん……死ぬ、わっち死ぬぅ……お兄さん殺してわっちも死ぬぅ……」
やべーぞ心中だ! とか言ってる場合ではない。
心中はまだいい。いや、よくないけど! 実はもっといい手段がある。
タマさんの秘密がバレず、それでいてタマさんが死ななくていい方法……。
「死ぬぅ……死んでやるぅ……お兄さんが死ねば……ん? あれ? お兄さんだけ死んだら……わっち……死ななくてもよくね? 今のところわっちの恥ずかしい秘密を知ったのはお兄さんだけやし、お兄さんが死ねば……全部丸く収まるやん! わっち賢い!」
おやおや、気づきましたか。タマさんは賢いですねぇ。
そしてさらに賢い俺は、この先の展開を予想して、笛を構えていた。
俺もまだまだ死ねないのでね。カモン! 美咲ちゃ――
「助けなんて呼ばせへんで」
気づいた時には、視界がぐるっと回って、空を見上げていた。
この感覚……覚えがある。遠藤寺に投げられた時の……なるほど、遠藤寺に武術的なアレを教えたのはタマさんってことか。
投げられついでに美咲ちゃんを呼ぶ笛も取り上げられてしまった。
くそっ、美人同士のバトル展開が消えたっ!
タマさんは俺の関節を極めながら、虚ろな表情を浮かべている。
「そっかぁ……そうやんなぁ……別にわっち死なんでええやん。お兄さんだけやっちゃっえばええ話やん。つーかもともとそのつもりやったし」
「だれかー! おとこのひとー! 殺人鬼に襲われてまーす!」
「あ、無駄やで。公園に結界貼ってるし。暫くは誰も入れんわ」
何てことしてくれんだこのクソ狐メイド。
リストラされて家族に言えないパパはどうすりゃいいんだ! ブランコギコギコ出来ないでしょうが!
「ごめんなぁ。まあほんとは殺すつもりなんて無かったねんけどなぁ。ほら、他のお嬢さんに近づく輩はそれなりにボコったり、身辺調べて痛いこと付きつけたら離れていってけどなぁ……お兄さん、身が潔白過ぎんねん。ほんまやったら経過観察で済ますつもりやってんけどなぁ、わっちのなぁ、見ちゃったからなぁ……ふふっ」
目が死んでるメイドさんに関節キメられつつ、見下ろされる気分はどうだ?
すっごいドキドキする! ドキドキし過ぎて心臓ちゃんが過労死しそう……。
「出来るだけ痛くせえへんから。んー、お兄さんやっちゃったら、お嬢さんに即バレるやろうし、お嬢さんの前に姿出せんなぁ……はぁ、暫くは身隠さへんと」
既に俺を殺した後のジュルスケを計画してる模様。
ふん、俺だってこの後のスケ立ててやるもん。多分死んだあと地獄に落とされるだろうから、閻魔様の前で今まで貯めてきたカルマポイントを清算、色々苦役を免除されつつ、可愛い鬼っ娘とキャッキャウフフしつつ、片手間で賽の河原で石を積んで罪悪消化! 畜生道回避! はい? 来世ですか……んー。結構選択肢多いですね、物を大切にしてくれる女の子に初めてプレゼントされる可愛いぬいぐるみを選ぶとします。女の子の初めての友達として遊び相手をしつつ、遊ばなくなった後も女の子の部屋に飾られて、大人になって一旦屋根裏に保管されてからの……その子の娘に譲渡か知り合いのおもちゃを大切にしてくれる女の子にプレゼントされて……そうやって女の子達の手に渡っていく幸せなぬいぐるみに、私はなりたい。
「ごめんなぁ……お兄さんごめんなぁ……ぱぱ……ごめん」
タマさんの目に小さなな涙が見えた。
その涙の理由も胸中も察することは出来ない。つーかいい年して赤ちゃんプレイをしちゃうメイドさんが何考えてるとか知りたくもない。
タマさんの右腕が一瞬、獣の腕に変化する。それは幻想ではないのだろう。
ふさふさと毛を纏ったその右腕は確かに獣のそれ。生物を狩る為に特化した筋肉の収縮が嫌でも目に入る。
指の先から伸びた爪は人の身など簡単に引き裂くだろう。
その腕が――振り下ろされる。
「アホ面をしてるでない。さっさと避けよ」
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獣爪が顔面に向かって振り下ろされる。
その爪が俺の首から上を跳ね飛ばす……ことはなかった。
気が付けば、俺はタマさんから少し離れた位置に座り込んでいた。
「なっ……」
タマさんの方を見ると、右腕を地面に押し付けている。
その地面は深々と抉れていた。
もし俺が先ほどまでの場所にいたならば、首から上……いや、上半身が消えてなくなっていただろう。
「避けた……? あの状況から? そう……や、お兄さん『見えてる人』やったか」
タマさんが目を細める。
「わっちの変化を見破れるってことは、相当な見鬼、もしくは格が高い魔眼持ち、それとも霊媒体質か……なるほど、やっぱり普通の人間じゃ無かったわけやね」
タマさんがゆらりと立ち上がる。
「どうやってわっちの狐抉斬を避けたかは分からんけど、ふぅん……簡単には狩れんってわけか。ふっ、ふふっ……ええなぁ……お兄さんええわぁ……久しぶりに、わっち燃えて来たわ」
タマさんの瞳が、人非ざる物に変化する。
美しい金髪が逆立ち、踏みしめた地面が割れる。両の腕先は完全に獣の物に代わっていた。
桃色の唇からは鋭い牙が突き出し、涎が滴っている。
「わっちの本気の姿……見せるの久しぶりやわぁ……はは、ははは……お兄さん、どれくらい逃げれるかなぁ……追いかけっこなんて……子供の時以来やわぁ」
タマさんが身を屈める。獲物に飛び掛かる狩猟動物特有のそのモーションは人の身で行うと、どこか滑稽さすら感じた。
だが――その身に蓄えられたエネルギーをビリビリ感じる。
非捕食者だけが感じられる生のエネルギーを。爆発してしまえば瞬く間にこちらに飛び込んで狩られてしまうだろうエネルギーの奔流を。
「お兄さん……あんまり、早く……壊れんといてなぁ……わっち、元の姿に戻ったら……嬲るの、楽しんじゃうからなぁ……」
公園に満ちる異質な空気。
住宅街の中にサバンナの常識を押し込めたような異常な空間がここにあった。
普段子供が遊ぶ空間で――ただ命を奪う者、奪われる者だけがそこにある。
瞼を閉じれば命が消える、そんな状況で――俺は右腕に繋がれた少女の手に目を奪われていた。
「お、お主……思ったより重いのぉ……ええい! さっさと動かんか!」
少女――褐色肌の絢爛豪華なドレスを着た彼女は両の手でグイグイと俺の右手を引っ張っていた。
そこにいたのは俺の心の中、夢の中に存在する脳内少女。ここにいるはずの無い少女。
シルバちゃんがそこにいた。
「呆けているでない! さっさと立てぃ! そして敵を『視る』のじゃ! 攻撃が――来るぞッ!」
俺は架空寄りの少女が現実に現れた衝撃に驚きつつ、早く今の異能バトルラノベみたいな展開から百合ラブコメき〇ら(?)展開に舵を戻して欲しいと、心から願うのだった。




