エピローグ~幽霊と一緒に住んでる童貞はどうすりゃいいですか~
「――で、私言ってあげたんですよ。『一ノ瀨さん? たいふういっかは台風の家族って意味じゃないですよ?』ってね」
「ふふふっ」
俺を挟んで2人の美少女がキャッキャウフフとお喋りをしている。
かなり盛り上がっている。
間に挟まれた俺は女子トークに割って入る勇気もなく、無言で宙を見つめている。
俺という存在はこの場において限りなく薄い。漫画タイムき〇らに出て来る男の子キャラ並みの存在感だ。男の子影薄過ぎで草。
それだけ聞くと俺を『百合作品同人物における竿役かな?』と期待しちゃうかもしれないが、別にこのあと濡れ場も無いので、そういうのを期待している人は他の所に行った方がいいと思う。ほらノク〇ーンで百合カップルを〇んぽで屈服させる作品とかあるし、そっちで嗜好を満たして欲しい。
「それで一ノ瀬さんったら、いきなり『大家さん……タイムリープしてね?』とか言い出して」
「もう、兄さんったら……くすくす」
楽しそうに語る和服美少女――大家さん。
そしてその話を聞いて手で口を押えながら上品に笑う――妹、雪菜ちゃん。
「……」
その間に挟まる俺はただただこの時間が早く終わればいいと思っていた。
何せ気が気でない。
自分から招いといてなんだが、大家さんの失言が怖い。具体的にはエリザの事とか、エリザと事とか……。
流石に初対面の人間に対して、幽霊がどうとかは言わないと思うが、うっかり口を滑らせる可能性もある。ほんのちょっとでも失言をすれば雪菜ちゃんは必ずそこから真相を導き出すだろう。その確信がある。
だから俺はただひたすら祈ることしか出来ない。大家さんがエリザの事をうっかり喋らないように、雪菜ちゃんにヒントを与えないように心の中で祈る事しか出来ない。
「――そしたら一ノ瀬さん、どうしたと思います? いきなり地面に落ちてた石を口に入れて『まあ無機物如き、こんなもんですわ』って言ったんですよぉ! 今思い出してもおかしくておかしくてっ」
「まぁ……ふふふっ」
つーかさっきから大家さんの話が意味不明なんだが。
最初は『私と離れてる間、兄さんがどんな生活をしてたか聞きたいです』という雪菜ちゃんの希望に大家さんが『いいですとも!』と答えて、実際にあった俺とのトークやちょっと面白いイベントを話してたのに、気が付けば雪菜ちゃんのウケをとる為なのか謎の捏造トークに発展していた。その行き過ぎた発展っぷりたるや暫く行ってないウチに未来都市に変異したJR梅田駅並みであった。迷い過ぎて迷い飽きたわ。
つーか石なんか食わねーよ。大家さん俺を何だと思ってるんだよ。
「……くふ、くふふ……いい感じです。滅茶苦茶トークが盛り上がってます……! 妹ちゃんの私に対する好感度鰻登りです……!」
雪菜ちゃんに見えない位置で悪そうに笑う大家さん。俺には見えてるが。
なに人の妹の好感度稼ごうとしてんだよ。何の目的だよ。
……ん? え……も、もしかして……そういうこと? 大家さん、雪菜ちゃんを狙ってんの? いや、別におかしくはないか。雪菜ちゃんはこのクールビューティな容姿に反して(俺以外の人間に対しては)かなり優しい。日常動作の所作や言葉遣いも綺麗だし、人を引き付けるオーラがある。そんな雪菜ちゃんだから異性だけでなく、同性もガンガン引き付ける。何だったら女の子からのラブレターの方が多いらしい。大家さんだって変わり者だが1人の女性……会ったばかりの雪菜ちゃんにフォーリンラブしてもおかしくはない。
つまり――
今ここで……百合の花が芽吹かんとしてるってこと……!? この瞬間、1組の百合カップルのプロローグを目撃しちゃってるってこと……!?
も、もー言ってよーそーいうことはさー! 俺協力するよ! ロリ大家とクール妹のカップリングとかサイコーじゃん! 今後の妄想だけで寿命が数年単位で伸びるわ!
しかも片方が身内でもう片方が同じアパートの住人とか……合法的に百合ップルの道程をすぐ近くで観察できるじゃん! 最高! 最も高いよ!
頑張れ大家さん! がんばれ♡がんばれ♡ 雪菜ちゃんのハートをゲットだぜ!
「あ、そうそう。こんな事もあったんですよぉ。夜私が散歩をしてたら、仮面付けて黒いロングコートを着た一ノ瀬さんが――」
最早暴走した大家さんの捏造トークを止める人間は誰もいない。
現実と妄想の判断がつかない統合何とか失調スレスレトークが繰り広げられる。いいぞもっとやれ。雪菜ちゃんの表情を見るに、大家さんのことは嫌いじゃないらしい。雪菜ちゃんは人間の好き嫌いが激しいが、どんな相手だろうと表面的には愛想よく振舞う。実際に相手が嫌いかそれ以外かを見極めるコツは眉毛の角度だ。角度によって雪菜ちゃんの相手に対する好意が読み取れる。今の雪菜ちゃんの大家さんに対する好感度は――結構いい感じだ。珍しい。
いい感じの眉の角度をした雪菜ちゃんが、くすくす微笑む。
「ふふふっ。楽しい……大家さんみたいな人が、私のお姉ちゃんだったらいいのに……」
「……!?」
今の聞きました? みたいな表情を俺に向けて来る大家さん。
机の下で俺のズボンをグイグイ引っ張ってくる。
俺も驚いた。基本、どんな相手でも愛想よく振舞うが、当たり障りの無い会話しかしないのに……こんな、セリフ初めて聞いた。マジで百合花嵐吹いちゃってる? 雪菜ちゃんの方も満更でもなし?
「ふ、ふふふ……お姉ちゃん……お義姉ちゃん……っ。はい埋まった……最初の堀、埋まっちゃいました……! あとは一ノ瀬パパと一ノ瀬ママを堕とせば……一ノ瀬家完全埋没……! 大家ちゃん大☆勝☆利……!」
勝手に人の家を埋めないで欲しいんですが。
あとウチの父親は原則的にはいないことになっているので、無理だと思う。無い堀は埋められない。
初対面の大家さんに対し、まんざらでもない態度の雪菜ちゃん。
うん、いいことだ。俺が言うのも何だが、雪菜ちゃんの人間関係は結構薄っぺらい。友達は多いみたいだけど、何でも話せる親友のような存在はいないっぽし。俺は遠藤寺がいるけどな。親友はいいぞー。例えこの百合が花咲かなくても、大家さんといい感じに友人関係を築いてくれたら、お兄ちゃんは嬉しい。大家さんは結構アレだけど、ちょっとアレな方が雪菜ちゃんみたいな人間とは上手くいくかもしれないし。
「大家さんは私が知らない兄さんをたくさん知ってるんですね」
「え? ま、まぁ……そ、それなりには、えへへ。こ、こうやってチョコチョコ遊びに来るくらいですからねー!」
「でしたら聞きたいことがあるんですが――」
「何です何です? お、お……お姉ちゃんが何でも答えちゃいますよー、ふふっ」
上機嫌な大家さん。そんな大家さんを見る雪菜ちゃんの眼が――一瞬、鋭く光った。
この機会を待っていた――そんな狩人の瞳。
「――この部屋、他に誰か出入りをしている人がいませんか?」
しまった――そう、来たか。
やっぱり雪菜ちゃんは雪菜ちゃんか。妙に大家さんに対して気を許してると思ったが……これが狙いか。
大家さんから情報を取り込む為、情報を引き出す為の好感度稼ぎか……!
これは不味い。
今の大家さんなら確実に喋る。普通、初対面の相手に『あなたのお兄さん……幽霊と暮らしてますよ』みたいな頭のおかしい事は言わないが、今の雪菜ちゃんに対して警戒心ユルイユルイの大家さんなら……言ってしまう。聞かれたこと、聞かれた以上のことをノリノリなご機嫌トークで語ってしまうだろう。
他にもある事ないこと、俺に不都合な事実を聞かれるだけ答えてしまう……!
「他の人、ですか? いや、出入りも何も……あれ? そういえば今日エリちゃん――」
案の定、ここにいないエリザのことを口に出そうとする大家さんに対して、俺はストップをかけた。
具体的には雪菜ちゃんに見えないように、机の下で大家さんの太ももを握りしめた。
「――ひにゃっ!?」
「どうか、しましたか?」
「にゃ、にゃんでも、ないです」
顔を真っ赤にした大家さんが雪菜ちゃんに向けていた視線を俺に向ける。
『な、なにするんですか!?』
困惑と羞恥が混ざった表情を浮かべ、パクパク口を動かす大家さん。
大家さんを口止めしなければならない。
だが言葉には出せない。エリザの事はタブー、その短いセンテンスを囁くことは出来ない。何せ雪菜イヤーは地獄耳。100メートル先に落ちた針の音をも聴き取る女――それが雪菜ちゃんだ。内緒話など全て筒抜けだと思っていい。
だから俺は伝えたい言葉を顔に出すことしか出来ない。
表情だけで意思を疎通させる――そんなのは何十年来の付き合いであっても難しい行為だ。
だが大家さんなら、大家さんなら……俺の言いたいことを分かってくれる。そんな確信があった。
まだ3か月ほどしか付き合いの無い彼女だが……誰よりも他人に優しい、俺なんかにもその優しさを分けてくれる彼女なら……分かってくれると、そう思ったのだ。
「……!」
そして彼女は……全て分かった――そんな表情で頷いた。
そうか。やっぱり大家さんは……天使だ。
この状況において俺の言いたいことを理解してくれる。さっきは使えないとか思ってゴメンね。使えない人間なんてこの世にいないんだ! 雑草なんて草はないし、ドランゴ引き換え券も存在しない!
俺は大家さんに対して『お願いします』と信頼感を浮かべた表情で頷いた。
よし、グッドコミニケーション!
大家さん、上手い事口裏を合わせてください!
「…………もぅ」
そして。
大家さんが蚊の鳴くような小さな声で呟き、俺の太ももをニギニギした。
恥ずかしそうに、しょうがないなぁ、みたいな仕草で。
「……一ノ瀬さんのえっち」
違う。そうじゃない。別に太ももを触り返して欲しかったわけじゃない。そういう内緒のコミニケーションを取りたかったわけじゃないのだ。
つーか妹に隠れて太ももを摩りあうとか何のプレイだよ。そして大家さんはなにそのプレイを満更でもない感じで許容しちゃってくれてんの? もしかして大家さんって土下座すれば色々やってもいいタイプの人? それはそれで今後、いい意味で付き合いを考え直さないといけないけど……今は目の前の雪菜ちゃんだ。
「えっと……大家さん? それでこの部屋に、大家さん以外に出入りしている人がいるかなんですけど……」
まさか俺たちが机の下で太ももを愛撫してるとは思っていない雪菜ちゃんが、再度問いかけて来る。
大家さんが頬を上気させたまま、返答しようとする。
「……さすさす……はぇ? は、はいはい。えっとこの部屋にはエリ――おっと、ごめんなさいスマホが」
その途中、和服の裾から聞こえた腰を痛めそうなダンスを想起させるBGMを発生させているスマホを手に取った。ロミオせんせぇ2期まだ? 軍神〇グニは? 和〇様の後に期待してもいいんですよね?
スマホの画面を見つめる大家さん。
その視線が一瞬、俺の方へ向いた。
「お電話ですか? 席を外しましょうか?」
「あ、大丈夫ですよー。間違いメールです。えっとそれでこの部屋に私以外の人が出入りしてるかって話ですよね?」
「ええ。……ちょっと気になって。もし、大家さん以外にもそういう方がいるなら、妹として挨拶をしておかないと、そう思って」
雪菜ちゃんがそう言い、俺の顔を見る。大家さんには見えていないだろうが、目怖ッ!
口では「この部屋には誰もいないようですね」と言ってたけど、やっぱり納得はしていなかったらしい。
自分で誰かがいる証拠を見つけられず、もちろん俺は真相を喋らない、残る情報源ははこの部屋に出入りしている他の人間――大家さんに視線が集まる。
大家さんの証言によって――俺のデッドオアライブが決まる。
「…………い、いませんよー」
嘘が下手だな、大家さん。
俺が大家さんのスマホに送った『エリザの話題NG』という意思を反映してくれたみたいだけど、突然の指示のせいか目は泳ぎまくってるし、セリフも棒読みだ。何なら口笛を吹こうとして吹けてない。
誰がどう見たって、何かある……そういった大家さんの態度。
だがそれを聞いた雪菜ちゃんは。
「そうですか。それだったらいいんです。変なことを聞いて申し訳ありません」
と素直に頭を下げたのだった。
それはもういい笑顔で。
安心しきった、そんな表情で。
■■■
それからしばらく大家さんと雪菜ちゃんは他愛のない会話を交わし
「そろそろ帰りますね。母から買い物を頼まれているので」
と雪菜ちゃんが立ち上がった。
大家さんが『ええー! もうちょっといいじゃないですかぁ!』とか『そうだ、今日は泊って行ったらどうです? 女子会! 女子会しましょうよ!』とかいらん提案をし出して冷や冷やしたが、雪菜ちゃんは丁寧に
「とても楽しそうな提案ですが、またの機会にお願いします」
と頭を下げて断ったので、俺は安堵の溜息を吐いた。
どうやら何とか乗り切ったようだ。
色々ヤバい場面はあったが、エリザの存在はバレずに乗り越えた。
「ここで大丈夫です」
大家さんと一緒に雪菜ちゃんをアパートの門まで送る。
「じゃあ、雪菜ちゃん! また好きな時に来てくださいねー! 今度は女子会しましょうねっ。私と雪菜ちゃん、あとエリ――んんっ! い、いや……2人で!」
「はい。今日はありがとうございました。兄さんをよろしくお願いします」
大家さんの挨拶に対して、丁寧に頭を下げる雪菜ちゃん。
「兄さんも……また、今度会いましょう。それまでは元気でいてくださいね」
兄を心配する妹のような穏やかな口調で俺に語り掛ける。
それから大家さんには見えない位置で口が動いた。
『――それでは、誰かさんにもによろしく言っておいてください』
と。
そう口を動かして、雪菜ちゃんは去って行った。
■■■
少女――一ノ瀬雪菜は夕暮れで照らされた道を歩いていた。
先ほど出たアパートから駅までの道を歩き続ける。
「……」
暫く歩き続け、周囲に誰もいない事が分かると……溜息を吐いた。
「……さて。兄さんは相変わらずでしたね」
つい先ほどまで会っていた兄のことを思い出し、溜息を漏らす。
家のいた時と変わらない発言や自分への態度を思い返し――思い出し笑いが零れてしまう。
いつだって兄は変わらない。兄の昔から変わらない振る舞いや言動を見ていると、笑みが零れてしまう。
兄は変わっていない。
自分から離れて暮らしていても、兄は何も変わっていない。体型こそ変化はあったが、本質的な部分は何ら変わっていない。
それが確認できただけでも、今回の来訪は意味があった。
「……大家さん、ですか」
和服を着た自分より年下にしか見えない少女を思い出す。
彼女は……害がない。
今のところ放置していいだろう。
兄に対する振る舞いや眼を見て、悪い人間ではないということは分かった。
昔、兄の周りに纏わりついていた人種のような見ているだけで嫌悪感を隠せない相手とは違う。アレらとは違う。
兄が住んでいる部屋に結構な頻度で出入りしていることは……少し、どうかと思うし彼女の出方によっては何かの対応策を検討すべきだろうが……今はそれ以上に優先事項が高い事柄がある。
「誰かさんは最後まで姿を見せませんでしたね」
――兄の部屋にいる『誰か』だ。
本来なら優先すべき兄と親交を深めている大家と呼ばれる少女より、圧倒的に優先度が高い存在。
最後まで姿を見せなかった何者か。
間違いなく、あの部屋には兄以外に誰かが出入りしている。
兄の発言は嘘ばかりだったし、会ったばかりの大家と呼ばれる少女の発言からも、間違いなく、あの部屋には他に誰かが出入りしていると思われる。
いや、出入りどころではない。
自分の推測が正しければ――兄と一緒に住んでいる。
いわゆる……同棲。
「…………っ」
同棲、そんな言葉が頭に浮かび歯を噛み締める。
思わず近くの壁を思い切り殴りそうになったが、理性に身を委ねることで思い留まった。
握りしめた拳を吐息と共にゆっくり開く。
「同棲、同棲……ですか。兄さんの癖に……」
あの部屋には兄以外に誰かが住んでいる。
それは間違いない。
兄以外の誰かが部屋に住んでいること……それは部屋に1歩踏み入れた時点で何となく察した。
実際のところ、その誰かが住んでいる痕跡――匂いや頭髪、生活音は最後まで全く感じ取れなかったが……いたのだ。
自分が部屋に踏み入れたあの時、誰かがいたはずなのだ。
五感をフルに活用しても全くその存在を認識出来なかったが……確かにいたのだ。それは間違いない。
用意されたお茶や料理、あれは間違いなくその誰かが用意したものだ。
兄にはああ言ったが、いくらでも飲みたいと思えるお茶や兄好みに味付けされた料理。それらを兄が用意した物とは最初から思って無いし、出前でもないことは分かっている。
大家と呼ばれる少女が来訪した時、彼女こそが兄と一緒に暮らしている誰か――兄の身の回りの世話している誰かが彼女かもしれないと、そう思った。
だが違った。匂いが違う。
彼女から漏れるまるで、向日葵の様な匂いはこの部屋に根付いていない。時々、この部屋に訪れる……それくらいの匂いだ。
この部屋には、兄とたまに来訪する大家と呼ばれる少女の匂いしかない。
部屋からは2人分の存在しか感じ取れなかった。
だが――間違いなくそれ以外の第三者が存在する。
「……」
自分を照らす夕焼けを見つめながら、思考する。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚……その全てがあの部屋には兄以外に誰もいないと知らせている。
だがそれ以外の感覚、例えば女としての――
「……何を馬鹿な」
――そう、妹だ。
兄と10年以上暮らしてきた、妹としての直感が告げている。
あの部屋には誰がいて――自分が兄と話していたあの瞬間にも――自分を観察していた。
「……」
今でもはっきり覚えている。
居間に座り兄と向かい合っていた時、あの瞬間に向けられていた視線。
まるで髪と髪が触れ合いそうな距離から見つめられている、そんなあり得ない視線を。
粘ついた、この世のものとは思えない、こちらを――観察しているような視線。
それを感じたのだ。
「……」
五感から得た得た『誰もいない』という事実を信じるか、根拠のない妹としての直感を信じるか。
彼女――一ノ瀨雪菜は直感を信じることにした。
兄は自分を完璧人間のように思っているかもしれないが、自分の判断にも間違いはある。間違う時もあるが……ただ兄に関して働いた直感は――今のところ間違ったことが無い。
例えば兄が中学生だったあの頃。兄の様子がおかしくなったあの日、もう少し自分の直感を信じて兄と接していれば……もう終わった話だが。
とにかく、終わった話より今の話だ。
こと兄に関わる事象に関しては――現実的な証拠よりも不確かな直感を信じた方がいい。
あの部屋には自分では認識出来ない誰かがいる。
「私が認識できない……?」
導き出された答え。
それを認めるのは自分の敗北を認めるのと同じだった。
「……いいでしょう。今回は私の負けです」
彼女は素直に敗北を認めた。姿すら見ていない相手から与えられた敗北感を受け入れ納得した。
だがその納得は次勝利する為の納得。
敗北を噛み締めつつ、同時にその『誰か』の正体について敗北から得た情報を纏めていた。
「痕跡を全く残さない……そんな事が本当に……」
普通に生活していれば生じる、抜け毛や体臭などのわずかな痕跡……それが全く無かったのだ。
当然だが兄の痕跡はあった。部屋は綺麗に掃除されていたが、それでも人間が住んでいる以上、痕跡は隠しきれない。兄の体毛や匂いは当然存在していた。
少しだが大家と呼ばれる少女の物も散見された。
――『誰か』の痕跡のみ、存在しなかった。
自分は一般的な人間より優れている。それは理解している。普通の人間には出来ないことが出来るし、出来なかったことも少し練習すれば出来るようになる。何かを習熟する速度が秀でている。
人間に備わっている運動能力や五感も、優れているという自覚はある。
そしてそれらの能力をただ持て余さず、兄を守る――いや、将来的に必要になると思い日々研鑽してきた。
その自分が短い時間とはいえ、全く欠片も痕跡を発見できないなんて――
「……いや」
駅へ進みつつ、フル稼働していた思考がいくつかの答えを導き出していた。
「これは……」
どれもしっくり来ないが……その中に気になる答えがあった。
それは『自身の体調不良による能力低下』『大家の隠蔽工作』『本当にデリバリー的なクリーニングや料理宅配サービスが入っていた』――そんな他の論理的な答えとは全く違う、荒唐無稽な答えだった。
常人なら鼻で笑うような結論。他人に話せば気が狂ったとかしか思われないだろう結論。
「まさか……いや、でも確かに……」
だが――この状況において、その結論は理に適っていた。
その結論を認めれば、全てが納得できる。
自分がその誰かを認識できなかったわけ、いつの間にか用意されていた料理やお茶。
それらの答えがその結論で全て証明できる。
何度も何度も頭の中でシミュレートを繰り返し――やはりその結論は正しく思えた。
「あの部屋にいるのは……」
結論通りだとすれば。
あの部屋にいるのは。兄と一緒に暮らしているのは――
「人間じゃ、ない?」
馬鹿げた発想だが、自分が認識出来ないが存在しているという矛盾を解消する答えとしては……正しい。その存在なら全くの痕跡を残さないという不可能を可能にするだろう。
その正体。今までの人生で自分が見たことがない、その存在。
本やテレビで得た情報だけだが……想像している物で間違いないだろう。
日本で生きている以上、誰もが知っている存在。
誰にも存在を悟られず、その痕跡も残さない。それらを為すだけの能力を持っている何か。
間違いない。
あの部屋にいるのは――
「――忍者」
そうに違いない。
一ノ瀨雪菜はそう思った。絶対、間違いなく、確実にそうだと思った。
だってそうだもん。
常人より優れてる自分に見つけられないなら、忍者に違いない。それなら存在の痕跡を跡形もなく消し去ることができる。
忍者ならこう……何とか遁の術を使って、姿を消していたに違いない。
「そういうこと、ですか。ふふふ、なるほど……忍者、ですか」
すれ違った女子高生が、病的な笑みを浮かべる雪菜を見て速足で家に向かう。
そんな女子高生に気も留めず、雪菜は微笑んだ。
答え見つけたり――そんな満足気な笑み。
「忍者、忍者、ですか……ふふ、ふふふ……ええ、いいでしょう。正体さえ分かれば……あとは、どうにでもなります」
家路の途中に大きな図書館があったはずだ。
帰りにそこで借りれるだけ忍者関連の書籍を借りていこう。彼女はそう思った。
正体さえ分かれば、いくらだって対応する術はある。
相手が自分に存在を悟らせないレべルの超人だとしても、その正体さえ理解出来れば……対応は容易い。
彼女はそうやって今までの人生で、敵と定めた相手を潰してきた。
油断せず、執拗に準備を重ね、勝てるとはっきり認識してから勝負に挑む。
一ノ瀨雪菜とはそういう人間だった。
十分な能力がありつつ、それを十全に活かす為には準備を怠らない――そういった人間だった。
相手が忍者だろうと超能力者であろうとレッツパーリィな大統領だったとしても――勝てる自負がある。
決して油断せず、相手を知り尽くし、自らの能力を完全に使いこなした上で完膚なきまでに叩きのめす――それが一ノ瀨雪菜であった。
決して慢心しない実力者。
自ら積極的に死角を潰し、相手がどれほど格下であろうと弱点を見出した上でオーバーキルを押し付ける。
長所を十全に活かしつつ、相手の短所をねちっこく責める――それが一ノ瀨雪菜だ。
ただ短所を挙げるとすれば――
「忍者……いえ、直感的にあの部屋にいるのは女性……つまりは――くのいち、ですか。くのいち……ふぅん、なるほど。兄さんが好きそうな言葉ですね。とりあえず兄さんの性癖からくのいちを除外する為に……」
兄が関わる事に対して、IQが著しく下がってしまうことだろう。
至極真面目に忍者対策を練る一ノ瀨雪菜。
彼女が部屋にいる存在が忍者でないことを知るのは――まだまだ先であった。
――この先ダイサンショウ




