プロローグ
前作から少し時間が経過しています。
何故、続編にしたかはいずれ……
布団の上に胡坐をかきながら、六畳ある自分の部屋をぐるりと見渡す。
築30年の古参物件にしては、目に見えて気になる汚れや損傷はない。
俺が越してくる前から、大家さんがこまめに掃除や修繕を行っていたのだろう。
風呂は共用だが、トイレは部屋にある。何より大学に近い。
ここに越してきて、3か月は経っただろうか。
ここはいい物件だ。
3ヶ月過ごしてきて、改めてそう感じる。
3か月……そうか。3か月も経ったのか。
「時間が経つのは早いなぁ」
汗を吸ったのか少し重いタオルケットを放り投げ、布団から這い出る。
「色々あったなぁ」
脳裏にここ3か月の出来事が走馬灯のように巡る。
とても濃い3か月だった。
まだ20年ぽっちしか過ごしていない自分の人生だが、ここまで濃密な3か月はこれから先もう無いだろう。そう思うほど濃密な生活だった。
可愛い大家さん付きのこのアパートに入居し、初めての新歓コンパで遠藤寺と出会い、過去の俺が人生を狂わせてしまったデス子先輩の同好会に入り、生まれて初めて行ったダイエット中に現役JKである美咲ちゃんにジョギングのイロハを教わることになり、他にも色々な出会いがあって――そしてこの部屋で彼女と出会った。
とても濃くて、とても楽しい日々だった。
楽しく過ごせた理由は色々あるが、その中の一つである――彼女。
俺がこの部屋に越してくる前からこの部屋にいた彼女。
この部屋に取り憑いた幽霊である彼女。
『おはよ辰巳君!』
『行ってらっしゃい! あ、寝癖ついてるよ!』
『おかえりー! 今日のご飯はね、すき焼きだよすき焼き! あ、関東風と関西風、どっちがいい?』
いつも楽しそうに俺の世話をしてくれた彼女。
毎日毎日、飽きもせずに俺に笑顔を向けてくれた彼女。
何の見返りも求めない、純粋な好意を向けてくれた彼女。
『えへへ、辰巳君……だいすきっ!』
俺は彼女の笑顔や行為に心から救われていた。
朝彼女に起こされ、一緒に食事を食べ「行ってらっしゃい」と彼女に見送られて大学に行き、彼女の「お帰りなさい」で家に帰る。そして「おやすみなさい」で1日を終える。
そのサイクルは確かに俺の人生に潤いを与えてくれた。
無味乾燥になるはずだった俺の生活に、彩りを与えてくれた。
だが、そんな潤いと彩りをくれた彼女――エリザはもういない。
この部屋から去ってしまった。
テーブルの上を見る。
薄っすらと埃が積もっていた。
彼女がいた頃は、ありえなかった光景だ。
きっと俺よりも早く起きて、掃除をしていたからだろう。
「……」
テーブル以外にも、色々な場所に小さな汚れが見える。
他にもエリザが居た頃は綺麗に畳まれていた洗濯物も、今は部屋の隅に乱雑に積まれている。
「掃除、しないとな」
言ってはみるものの、どうにもやる気が起きない。
掃除をするくらいだったら、その時間を使ってもっと建設的なことをしたいと思ってしまう。
例えば新しく始まったアニメで気に入ったキャラのシーンだけを抜粋してまとめた動画を自分用に作ったり、イカちゃんとただイチャイチャするだけの俺得SSを綴ったり、イカちゃんを『オチが無くてつまらん』とかディスるアニメ系ブログに粘着して荒らし続けたり……そんな事をしていたら、掃除をする時間なんてない。時間が足りな過ぎる。
「はぁ、1日が25時間あったらいいのに」
まあ、それはそれでイカイチャSSを綴る時間が追加で1時間長くなるだけなんだが。
もしくはイカちゃんのフィギュアを色んな角度から眺める神聖な日課の時間が増えるだけか。
「俺って駄目人間だなぁ」
このままじゃいけない事は分かっている。
ネットやテレビなりで簡単な食事の作り方や掃除の仕方なりを学んで、実践するべきだろう。もうエリザはいないのだ。当たり前の1人暮らしのように、当たり前の事をしなければいけない。
分かってはいる。分かってはいるが……やる気が出ない。
「……飯食って学校行くか」
もそっと立ち上がり、冷蔵庫に向かう。
ラップが掛けられた大皿を取り出し、レンジに突っ込む。
レンジのスイッチを入れ、グルグル回る皿を眺める。
「そういえば一時期、レンジにスマホを入れてチンしたら充電できる、みたいな噂あったよな」
エリザが居れば『へー、そうなの? 辰巳君、物知りだねー!』と反応してくれる言葉も、今はただの独り言だ。返事が返ってくることはない。とても空しい。
エリザがいなくなった今なら分かる。発した言葉に反応して、返事をしてくれる存在がいる……そんな当たり前の環境が、とても尊いものだと。こういう当たり前にある物の大切さって、いつだって失ってから分かるもんなんだよな。咳をしても1人――昔の偉い人の言葉が、今なら心から理解できる。誰が言ったんだっけ? 尾崎なんとかだったような……尾崎、尾崎……ああ、盗んだバイクで走りだした人か。流石いい事言うなぁ。
少し温め過ぎたのか、アチアチな皿を取り出しテーブルに置く。
「いただきま……あ」
箸を用意し忘れたので、溜息を吐きながら立ち上がり台所へ向かう。
改めて食事を前にする。
「いただきます」
食べ始めてお茶を用意し忘れたことに気づいたが、面倒なのでそのまま食事を続けた。
「うん、美味い」
かなり美味い。何ていうか、年季の入った美味さだ。
レンチンしてこの旨さなら、出来立てはもっと美味いんだろう。
ちなみにこのご飯は、昨晩大家さんが訪ねてきて冷蔵庫に置いて行ったものだ。
大家さんはエリザが去って以来、こうやって食事を差し入れしてくれている。
流石に申し訳ないと思って、それとなく遠慮はしているのだがいつも笑顔で
『いいんですよー、自分のを作るついでですから♪』
といつもの向日葵のような笑顔でありがたい事を言ってくれる。
ただその後、ちょっと悪い顔でぼそぼそと
『……ふふふ、こうやって一ノ瀬さんのストマックをグワシッ! 鷲掴みをすることで……うふふふ。いずれは――大家娘毎日食事感謝! 非常美味! 我腹満腹謝謝茄子! 我願毎日大家娘食事――否味噌汁毎日作成希望! 了承? 了承誠!? 了承確定!? 我心底嬉! 我飛程嬉! 我他妈射爆!! 入籍! 我大家娘入籍希望! 出会三ヵ月即入籍! 子供二人犬猫1匹願! 毎日出社前接吻夢叶、嗚呼……謝謝茄子――とまあ、こんな展開がベストオブベストですね、ふっふっふ……』
とかも言ってるけど、聞こえないので分からない。
ただいつまでも大家さんには甘えていられない。
大家さんだって自分の仕事で忙しいんだし、社交辞令を鵜呑みにしてはいられないからな。
しかし――
「美味い。美味いんだが……」
何だろう。物足りない。
味がどうとか、盛り付けがどうかいう話ではない。そんな事を語れる高尚な舌や目は持っていない。
だが確かに何かが足りない。
「……」
内省してみる。
今まで、エリザが居たころと今のこの食事、違いはなんだろうか。
「……そうか」
すぐに分かった。
目の前に誰もいないからだ。1人で食事を食べている、それが理由だ。
食事を食べている俺を見て嬉しそうにしている相手も、自分も美味しそうに頬に手を当てながら食事をする相手も、食事の間に今日大学であった出来事やテレビで見た面白い話を語る相手がいない。
それが違いだ。たったそれだけの違い。
だがとても大きな違いだ。
たった一人の食事がこんなに楽しくないものだとは思わなかった。
お腹を満たしているはずなのに、胃がキュウっと締め付けられるような感覚。
変な話だ。
「……もぐもぐ」
出汁の効いた出汁巻き卵を食べる。美味しい。
思わず感想が口から出そうになるが、返事が返ってこず空しくなるのは分かっているので、黙って食べることにした。鯖の塩焼き、カブのサラダ、カブの漬物、何か緑色の野菜のお浸し、カブと鶏肉の照り焼き……どれも美味しかった。特にカブ。大家さん曰く『全部ウチで獲れたものですよー』ということらしい。……全部?
「……」
テレビでも付けようとリモコンを手に取ったが、今まではエリザとお喋りをしながら食べるのに夢中で、その習慣がなく、今更テレビを見ながら食べるのもなぁ、と思いリモコンを置いた。
「ご馳走様でした」
食事を終えて、皿を台所に運ぶ。
「あ、そうか。自分で洗わないといけないのか」
スポンジを手に取ろうとして……皿を水に浸けるだけにした。
やる気が起きないので、帰ってからにしよう。帰ってからそのやる気が出るかは分からないが。
こういう事もこれからは自分でやらないといけないのだ。当たり前の事だが。
食事を終えたが、大学の講義までまだ時間がある。
普段だったら洗い物をするエリザを眺めながら、スマホゲーをポチポチしたり、キテレツ大百科の再放送を見るのだが、どうにもやる気が起きない。今、キテレツを見たらコロ助と仲良く遊ぶキテレツにムカついてアンチスレを立ててしまいそうだ。
「…………ちょっと早いけど、学校行くか」
自分の部屋の筈なのにどうにも落ち着かない。
エリザの鼻歌や皿を洗う音、足音が聞こえない無音の部屋が……空寒く感じる。
逃げるように鞄を持って玄関へ。
靴を履いて部屋を見渡す。
「行ってきます」
返事はない。
分かってはいるが、言ってしまう。
もしかしたら……もしかしたら返事が返ってくるかもしれない。そんなありえない願望、未練がまだ胸の内に残っている。
情けない。もし妹である雪菜ちゃんがここに居たなら、嬉々として俺を罵倒しただろう。
『ああ、情けない兄さん。本当に情けない。情けな過ぎて涙が出てきますね。いえ、泣きませんが。兄さんの為に、わざわざ涙を流すなんて、水分の無駄遣いですから。兄さんの為に涙を流すくらいだったら、まだその水分を使ってお風呂の掃除をした方がいいです』
なんてこと言いそう。いや、マジで言うなあの妹なら。別にいいけどさ、まあ雪菜ちゃんの涙で拭いた後のお風呂には出来たら俺が一番に入りたいが。
何の話だっけ。
ああ、そうだ。
俺は自分でこの選択を選んだんだ。この部屋から去っていくエリザを見送ったのは他でもない俺だ。
エリザを止めることも出来ただろうが、俺はそれをしなかった。
その結果がこれだ。
無様に後悔をしながら、誰もいない部屋を見つめる俺という結果。
誰もいない部屋で起きて、1人で食事をして、行ってらっしゃいを言ってくれる相手もいない、帰って来てもお帰りなさいの言葉もない、寝る時も1人。
そんな生活が続いていくのだ。
考えるだけで憂鬱になる。
ただ――人間は順応する生き物だ。
この無味乾燥な生活にも、いつかは慣れるのだろう。今感じてるこの感情は今だけのもので、いつかは慣れて別の物に置き換えられてしまうのだろう。
エリザはいない、その事実が当たり前になってしまう。
当たり前じゃない生活が、当たり前になってしまうのだ。
それはとても悲しいし、寂しい事だが……人間である以上、避けられる事ではない。
さようなら今までの愉しい生活。
ようこそこれからの寂しい生活。
「……はぁ」
明日から夏休み……ある意味で大学生活の真のプロローグともいえるのに、俺の心は喜びとはほど遠かった。