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あの頃  作者: 若葉
1/3

山へ

このところ心底から笑った事が無い。年を重ねる度に愛想笑いばかりになった。気付けば一人ぼっちである。好むと好まざるに関わらず、いつしか私は、一人きりになっていた。いや、昔から寂しがりやの癖に、人々と上手く善い関係を作れない私が今の境遇に辿り着くのは割と自然な事だったのかもしれないが。

それでも昔は孤独を感じない程度には周りに誰かがいた。

現在にさしたる感慨も無い日々を徒に過ごしている故か、最近頻りに子供の頃を思い出す。

私は小学四年生まで、名古屋の外れに住んでいた。都会にも田舎の風景にも割と近い、特別に貧しくもなく富裕でもなく、特に事件が起きるでもなく、そんな場所で泣いたり笑ったり普通の暮らしをしていた。今思い出す子供時代は何故だろう、大体この頃の些細な日常の事ばかりなのだ。

世界は半径十キロだった。それだけが世界の全てだった。


今日はここまで。

明日はもっと遠く、奥深くきっと辿り着ける。

あの頃、小さな自転車で、駅へと続く坂を降り、大きく横たわる高速道路を越えて、仲間達と毎日の様に小さな旅に出ていた。今から思えば、ささやかな距離を、必死の心で走っていた。


ある秋の末、隣の駅の方に、沢山の金魚を飼っている家があると聞き、私が言い出して、覚えたての自転車で暗くなる迄探し続けた事があった。随分走り回ったけれども一向に見付からなかった。

日が落ちてきた。いずれ来る夜の闇に、その不安に、私達は心の底の恐ろしさに抗うかのように精一杯はしゃいでいた。それでも次第に弱々しさを見せる日差しに空元気は続かなかった。

親に怒られるから、恐いから、一人二人と仲間は帰っていった。確かに暗くなってきていた。仲間も減り、迫る黄昏の心細さに狼狽えながら私と二三の友人は走り続けた。その家を探し続けた。

古い家が立ち並ぶ、みずぼらしい住宅街の一角に強い照明が見えた。私達は見つけたその光を求めて無我夢中で自転車を漕ぎ続けた。

やっと見つけたその家は、小さな古い家だった。

小さい庭に大きな水槽を幾つも置き、強い照明でキラキラと、金銀の鮮やかな魚達を照らし出していた。眩い照明の光が遠くからでもハッキリと見えた。

その家の塀にしがみつき、柵の隙間からゆらゆら泳ぐ金魚達を、喚声を挙げながら見つめていた。

感動していた。昼間、学校や家の狭い金魚鉢で退屈そうに周遊しているあの魚達と同種であろうとは思えぬ彼等の鮮やかな美しさ。疲れ果てていた私達を興奮と達成感で満たすには余りある光景だった。

あれからどうして帰ったのだろう?最後まで残ってくれた友人達と別れて、くたくたになりながら家に帰りつき、両親に酷く怒られた記憶だけがある。


もう、遠くへは行くな。

両親からのきついお仕置きも、私のあの感動への衝動を抑える事は出来なかった。


遠く、山の中に謎の建物があるのだ。

そんな噂を持ち込んできたのは、仲間の内の誰だったろう?

私達は懲りもせず、ある日自転車でそこへ向かったのだった。

流石に今回はついてくる仲間も少なく、同じクラスの熊本君と隣のクラスの佐藤君と私だけの三人だった。

三人でぶらぶら走ること一時間もかかっただろうか、延々続く田園地帯を走り抜け、枯れた水田の間の一本道を見付けた。その先には山がある。子供にとっては大きな山に見えたが、今にして思い返せば、一寸した森と小山の中間ぐらいだったのだろうと思う。ただ、平坦な農地の続くなかにその山は結構な威容をたたえていた様に思われた。

自転車に跨がったまま、山を見る。確かに山の頂上の辺りに木立から頭を出したマンション風の建物が見える。土の様な色をしたその建築物は、淡々と広がる田園の中でかなり目立っていた。違和感と言ってもよい感覚を我々に与えるには充分だった。

ネタを持ってきた仲間は来ていないので、これが件のものなのかは判らなかったが、怪しさの点からもそうなのだろうと直感した。それ位に周囲とマッチしていない景色だったのだ。

私達は一本道の入口まで来て唾をのみ、狼狽えていた。何だか判らない建物である。しかも周囲と隔絶された山の中にある。ここを進めば果たして無事に帰れるものだろうか?何が在るのか少しも見えないのだ。また黄昏も忍び寄ってきつつある。未知への好奇心と不安、親への約束を破った後ろめたさとその怒りへの恐ろしさとが、その場に私達を立ち尽くさせていた。

一寸行ってみようよ。時間がかかりそうなら引き返して、また来ればいいよ。

一番背の高いリーダー格の佐藤君が切り出した。

私と熊本君は、そうね、という割と躊躇いがちにして曖昧な感じで首肯した。どのみち佐藤くんが言い出したら、我々の意見等聞きはしない。母子家庭で育った故か、佐藤君は身長だけでなく大人びた所があり、善く言えば決断力に優れた親分肌であり、悪く言えば、私を含め仲間達を自身より子供と見なしたワンマンな所がちらほらにあった。これ迄も彼の度々下す独断の全てに賛成していた訳ではなかったが、おおよそ黙って行動を共にしてきた。それに実際、二人とも内心では、このまま引き返すのは空しいなぁ、と思っていたのも間違いなかったのだ。

結局私達は意を決して黄昏の一本道を山へと向かって走り出した。


平坦な鋪装された道は思ったより長く、山の斜面の坂道に辿り着くのに随分と時間がかかった。両側に枯れつつある木立が続いており、坂道を一段と薄暗くしていた。


坂を少し走った時、右手に小さなお墓の様なものがあった。お墓にしては随分と小さい。そして真新しい。近寄って見てみると石には、タロウとハナコの墓、と彫られていた。場所からも名前からも、この辺りの地主の飼い犬のお墓ではないか。私は何となくしゃがみ込み、どんな犬だったのだろうと想像しながら手を合わせた。佐藤君と熊本君も、自転車を降りて手を合わせていた。

唐突なお墓が何となく不自然な感じであったが、その時は別に怖さもなく、自然に手を合わせていた。

さぁ行こう。佐藤君はもう自転車を漕ぎ出していた。

暫く行くと、近くの何処からか唸るようなエンジン音が聞こえてきた。一つではない。三つ四つ、いやもっとだろうか?

山の木でも伐っているのかなぁ…。見付かったら怒られるだろうなぁ…。心配性の熊本君が心細げな声を出す。

見に行ってみようか。佐藤君はワクワクした様子で音のする方へと歩き出す。


おい。おい。来てみろよ。何故か息を潜めて、緊張した面持ちの佐藤君が此方に手招きをする。私達は不安を抱きつつ、佐藤君の元へ向かった。

木陰からそっと覗いて、思わず、あっと声を挙げそうになった。

それは木を伐るチェーンソーの音などではなかった。眼前には何台ものオートバイが山中に造成されたコースを激しく、ぐるぐると走り回っている異様な光景が展開されていたのだ。

何かの競争でもしているのだろうか?こんな誰も居ない山の中で?

その人達は誰もがフルフェイスのヘルメットをかぶっていて、人相は皆目窺い知れない。

何なんだこの人達は?不気味かつ不思議すぎる光景に暫し凍り付いてしまった。

私達は無言のまま、じっと見詰めていた。掌に変な汗が滲み出てくるのが分かる。

もっと近付いてみようか?佐藤君も流石に狼狽えながら、それでも一応強気な態度を見せた。

よそうよ。私は怖くてそれ丈反応するのが精一杯だった。熊本君は黙って唾をのんでいた。

その時、バイクの一台が急停止した。フルフェイスのヘルメットが此方を向いたのだ。私達は不安に色めき立った。何と停止したバイクを此方に向け走らせて来たのだ。けたたましいエンジン音がぐんぐん接近してくる。

このところ心底から笑った事が無い。年を重ねる度に愛想笑いばかりになった。気付けば一人ぼっちである。好むと好まざるに関わらず、いつしか私は、一人きりになっていた。いや、昔から寂しがりやの癖に、人々と上手く善い関係を作れない私が今の境遇に辿り着くのは割と自然な事だったのかもしれないが。

それでも昔は孤独を感じない程度には周りに誰かがいた。

現在にさしたる感慨も無い日々を徒に過ごしている故か、最近頻りに子供の頃を思い出す。

私は小学四年生まで、名古屋の外れに住んでいた。都会にも田舎の風景にも割と近い、特別に貧しくもなく富裕でもなく、特に事件が起きるでもなく、そんな場所で泣いたり笑ったり普通の暮らしをしていた。今思い出す子供時代は何故だろう、大体この頃の些細な日常の事ばかりなのだ。

世界は半径十キロだった。それだけが世界の全てだった。


今日はここまで。

明日はもっと遠く、奥深くきっと辿り着ける。

あの頃、小さな自転車で、駅へと続く坂を降り、大きく横たわる高速道路を越えて、仲間達と毎日の様に小さな旅に出ていた。今から思えば、ささやかな距離を、必死の心で走っていた。


ある秋の末、隣の駅の方に、沢山の金魚を飼っている家があると聞き、私が言い出して、覚えたての自転車で暗くなる迄探し続けた事があった。随分走り回ったけれども一向に見付からなかった。

日が落ちてきた。いずれ来る夜の闇に、その不安に、私達は心の底の恐ろしさに抗うかのように精一杯はしゃいでいた。それでも次第に弱々しさを見せる日差しに空元気は続かなかった。

親に怒られるから、恐いから、一人二人と仲間は帰っていった。確かに暗くなってきていた。仲間も減り、迫る黄昏の心細さに狼狽えながら私と二三の友人は走り続けた。その家を探し続けた。

古い家が立ち並ぶ、みずぼらしい住宅街の一角に強い照明が見えた。私達は見つけたその光を求めて無我夢中で自転車を漕ぎ続けた。

やっと見つけたその家は、小さな古い家だった。

小さい庭に大きな水槽を幾つも置き、強い照明でキラキラと、金銀の鮮やかな魚達を照らし出していた。眩い照明の光が遠くからでもハッキリと見えた。

その家の塀にしがみつき、柵の隙間からゆらゆら泳ぐ金魚達を、喚声を挙げながら見つめていた。

感動していた。昼間、学校や家の狭い金魚鉢で退屈そうに周遊しているあの魚達と同種であろうとは思えぬ彼等の鮮やかな美しさ。疲れ果てていた私達を興奮と達成感で満たすには余りある光景だった。

あれからどうして帰ったのだろう?最後まで残ってくれた友人達と別れて、くたくたになりながら家に帰りつき、両親に酷く怒られた記憶だけがある。


もう、遠くへは行くな。

両親からのきついお仕置きも、私のあの感動への衝動を抑える事は出来なかった。

遠く、山の中に謎の建物があるのだ。

そんな噂を持ち込んできたのは、仲間の内の誰だったろう?

私達は懲りもせず、ある日自転車でそこへ向かったのだった。

流石に今回はついてくる仲間も少なく、同じクラスの熊本君と隣のクラスの佐藤君と私だけの三人だった。

三人でぶらぶら走ること一時間もかかっただろうか、延々続く田園地帯を走り抜け、枯れた水田の間の一本道を見付けた。その先には山がある。子供にとっては大きな山に見えたが、今にして思い返せば、一寸した森と小山の中間ぐらいだったのだろうと思う。ただ、平坦な農地の続くなかにその山は結構な威容をたたえていた様に思われた。

自転車に跨がったまま、山を見る。確かに山の頂上の辺りに木立から頭を出したマンション風の建物が見える。土の様な色をしたその建築物は、淡々と広がる田園の中でかなり目立っていた。違和感と言ってもよい感覚を我々に与えるには充分だった。

ネタを持ってきた仲間は来ていないので、これが件のものなのかは判らなかったが、怪しさの点からもそうなのだろうと直感した。それ位に周囲とマッチしていない景色だったのだ。

私達は一本道の入口まで来て唾をのみ、狼狽えていた。何だか判らない建物である。しかも周囲と隔絶された山の中にある。ここを進めば果たして無事に帰れるものだろうか?何が在るのか少しも見えないのだ。また黄昏も忍び寄ってきつつある。未知への好奇心と不安、親への約束を破った後ろめたさとその怒りへの恐ろしさとが、その場に私達を立ち尽くさせていた。

一寸行ってみようよ。時間がかかりそうなら引き返して、また来ればいいよ。

一番背の高いリーダー格の佐藤君が切り出した。

私と熊本君は、そうね、という割と躊躇いがちにして曖昧な感じで首肯した。どのみち佐藤くんが言い出したら、我々の意見等聞きはしない。母子家庭で育った故か、佐藤君は身長だけでなく大人びた所があり、善く言えば決断力に優れた親分肌であり、悪く言えば、私を含め仲間達を自身より子供と見なしたワンマンな所がちらほらにあった。これ迄も彼の度々下す独断の全てに賛成していた訳ではなかったが、おおよそ黙って行動を共にしてきた。それに実際、二人とも内心では、このまま引き返すのは空しいなぁ、と思っていたのも間違いなかったのだ。

結局私達は意を決して黄昏の一本道を山へと向かって走り出した。


平坦な鋪装された道は思ったより長く、山の斜面の坂道に辿り着くのに随分と時間がかかった。両側に枯れつつある木立が続いており、坂道を一段と薄暗くしていた。


坂を少し走った時、右手に小さなお墓の様なものがあった。お墓にしては随分と小さい。そして真新しい。近寄って見てみると石には、タロウとハナコの墓、と彫られていた。場所からも名前からも、この辺りの地主の飼い犬のお墓ではないか。私は何となくしゃがみ込み、どんな犬だったのだろうと想像しながら手を合わせた。佐藤君と熊本君も、自転車を降りて手を合わせていた。

唐突なお墓が何となく不自然な感じであったが、その時は別に怖さもなく、自然に手を合わせていた。

さぁ行こう。佐藤君はもう自転車を漕ぎ出していた。

暫く行くと、近くの何処からか唸るようなエンジン音が聞こえてきた。一つではない。三つ四つ、いやもっとだろうか?

山の木でも伐っているのかなぁ…。見付かったら怒られるだろうなぁ…。心配性の熊本君が心細げな声を出す。

見に行ってみようか。佐藤君はワクワクした様子で音のする方へと歩き出す。


おい。おい。来てみろよ。何故か息を潜めて、緊張した面持ちの佐藤君が此方に手招きをする。私達は不安を抱きつつ、佐藤君の元へ向かった。

木陰からそっと覗いて、思わず、あっと声を挙げそうになった。

それは木を伐るチェーンソーの音などではなかった。眼前には何台ものオートバイが山中に造成されたコースを激しく、ぐるぐると走り回っている異様な光景が展開されていたのだ。

何かの競争でもしているのだろうか?こんな誰も居ない山の中で?

その人達は誰もがフルフェイスのヘルメットをかぶっていて、人相は皆目窺い知れない。

何なんだこの人達は?不気味かつ不思議すぎる光景に暫し凍り付いてしまった。

私達は無言のまま、じっと見詰めていた。掌に変な汗が滲み出てくるのが分かる。

もっと近付いてみようか?佐藤君も流石に狼狽えながら、それでも一応強気な態度を見せた。

よそうよ。私は怖くてそれ丈反応するのが精一杯だった。熊本君は黙って唾をのんでいた。

その時、バイクの一台が急停止した。フルフェイスのヘルメットが此方を向いたのだ。私達は不安に色めき立った。何と停止したバイクを此方に向け走らせて来たのだ。けたたましいエンジン音がぐんぐん接近してくる。

やばい。逃げろ。

三人同時に木陰から全力で逃げ出した。

自転車に跨がるが早いか、私達は来た道を一目散に下っていった。無我夢中である。

追ってきたらどうしよう、どうしよう。熊本君は恐怖に泣いていた。私も膝がガクガク震えるのを止められなかった。

山を下り、スタート地点迄戻り、三人肩で息をしながら立ち尽くしていた。追ってくる気配はない。安堵に深い疲労を覚えた。

振り返ると、山は青く黒く既に夕闇に沈もうとしている。

その陰鬱ともいえる景色を冷えてきた体で、呆然と眺めていたのを今も忘れない。

私達は誰が言い出すともなくヨロヨロと帰路についた。毎度の事ながら、行きはよいよい帰りは辛いで、ヒィヒィ言いながら家に辿り着いた。

別れる前に、佐藤君は言った。悔しいな。また行こうよ。時間があまり無いんだ。俺は行きたい、と。

佐藤君は矢鱈と焦っていた。私は何も言えず、険しい表情の佐藤君を見ていた。暗い夜空に北風が急に強くなり、吹き付ける風にボロボロの私達は今にも倒されそうな不安定さによろめいていた。

それから暫く旅には出られなかった。両親からは怒られ、親の連絡で知ったのか、何故か担任教師からも激しい怒りの小言を貰い、学校と塾と家だけが私達の生活となった。

気付けば大人達の間ではでは佐藤君が一人だけ悪者になっていた。彼自身も、自分が連れ出した、無理矢理に。それだけを繰り返していたという。

私と熊本君は否定したが、大人達は更に佐藤君を批難する方向へ向かってしまった。


十二月になった。私達は皆表立った行動をせず、しおらしい生活を送っていた。朝は登校して、夕方帰る。遊ぶ者は誰かの家や近所の公園に行き、塾や習い事に行く者もいた。

未知への緊張に恐怖する事もなく、達成感に興奮する事もない毎日。

まるで、文科省やテレビの中に出てくる普通の小学生の、らしい、暮らしをしていた。それはもう一定のルーティンであり、それはそれで、慣れてしまえば退屈を覚える事もないまま、平和な日々を過ごしていた。

もうすぐ師走も半ばへ入ろうかというある週末の早朝、寝室の窓を叩く音で目が覚めた。

枕元のカーテンを開けるとまだ暗さの残る明け方の空、そして窓の向こうには何処かばつの悪そうな笑みを浮かべた佐藤君と泣きそうな顔の熊本君がいた。

この前の場所に行こう。

窓越しに佐藤君が小声で囁いていた。

マジかよ。こんな朝っぱらから何考えているんだ?

眠たい頭には困惑と微かな苛立ちがあった。

戸惑ったまま窓越しとの沈黙が続く。

佐藤君は何も言わなかった。ただ、じっと私を見詰めていた。

仕方ないか。

やがて、私にも不思議な闘志の様なものが沸き上がってきた。よし、行こうじゃないか。


真冬の早朝の空気はどこまでも冷たく、白い息を絶え間なく吐きながら私達は言葉も少なく走り続けた。とにかくあの場所の謎の建物を間近で見たい。意味などは無い。

例の一本道迄来て、家からこっそり持ってきたパンを三人で分けて食べた。

山は静寂の中でうっすら昇ってきた儚い光に照らされている。

訳もなく険しい顔付きで山に向かいだした。


流石にこんな時間にはバイクの連中も居ないだろう。祈るように緩やかな坂道を登り続ける。犬のお墓を越え、最初にエンジン音を聞いた場所を一気に通過した。バイクどころか人の子一人見当たらない。

蛇行した山道は所々無舗装の場所もあり、思いの外時間がかかった。

三人共に疲れが見えてきた頃、山の中に突如として開けた公園らしき広場が現れた。

昔はここで子供達が遊んだのだろう大きな砂場や錆びたジャングルジムやらブランコやらが、人里離れた山の中にひっそりと佇んでいる。

まるで遺跡である。

何なんだろう?何故こんな場所に?

言い知れぬ興奮を覚えていた。更なる謎である。私達にとっては大発見だった。

見上げれば建物もかなり近付いている。あと一息だ。山道は急に険しくなる。息を切らしながら走る。とにかく走る。まるで何かに憑かれた様に、走る。

そして遂に辿り着いた。

茶色い土色のその建物は、麓から見るよりずっと古く大きく立派な建築物だった。人の気配も無い割に小綺麗でもある。誰かの別荘なのだろうか。或いはどこかの会社の持ち物で時折誰かが泊まりに来る、そんな建物なのだろうか?

表札も何も無い。

窓という窓にはカーテンが閉められている。

忘れられた空間に遺された寂しい建物。

とにかくこの建物を見る為だけに息を切らし突っ走ってきたのだ。見上げながら、三人、疲労と達成感に、さながら一端の冒険家の様に口を半開きにして呆然としていた。

凄いな…。来て良かった。二人共ごめんな、無理言って連れてきて。

佐藤君は独り言のように呟いていた。

矢鱈と神妙な佐藤君の顔を、私と熊本君は無言で見つめていた。

この建物が何だろうと、そこはもうどうでも良かった。辿り着き、発見した。あの時の私達にはそれだけが全てだった。

冬の弱い木洩れ日が、白い息に肩を揺らし立ち尽くす私達を緩やかに照らし出していた。


月曜から雨の日が続き佐藤君は学校を休んだ。

佐藤君の転校が先生から知らされたのは、それから間もなくだった。確かお母さんの実家に帰るのだという事だった。


佐藤君とはそれきり会う事はなかった。

よしんば今会っても、互いに顔も判らないのではないか。正直私には自信がない。それで良いと思っている。あの頃の興奮はあの頃だけのものなのだ。


冬の黄昏時、工場の流れ作業からの帰り道、小さな川に沿って、俯きながら歩く。何も考えてはいない。ただぼんやりと歩く。

後ろから来た小学生位の子供達が賑やかに騒ぎながら自転車を走らせて、私の脇を通りすぎてゆく。

何時かの自分もその群れの中にいたのだ。小さなその背中に、懐かしさと喪失感にも似た現在への失意を覚えない訳にはいかなかった。


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