後編
何が自分にとって大切なのかが判る事、それが幸福というものではないでしょうか。
見れば貧しい家だった。土道、というよりも泥道から少し奥まった所に、住居と謂うよりも小屋か小さな物置といった感じの家が在った。横に物干し竿が架かっており、それを支える腕木がまたささくれていた。建物の外壁共々、冬の厳しい風雪に削られて見事に木の色を失っていた。まるで年月を経たモルタルの様な色合いである。それにひどく木目が浮き出している。尤も他に数軒見えた周囲の家屋も、皆それと同じ様なものだったが。また玄関前に錆び切った猫車が置いてある。これも女の子の父親が以前使ったものなのだろうか。最近は郵便も来ていないというのなら、出稼ぎの仕送りも無いのではあるまいか。
私は何かこの家の住所を知る方法が無いものかと思ったが、本当に町から離れた原野の中に在る集落で、町名を示す看板も無い。
「ねえ、さっちゃん。自分の家の住所、分かる?」
「郵便に書いてあるやつ?」
「うん、そうそう」
「一寸待っててね」
そう言うと女の子は自分の家迄駆けて行き、直ぐに封書を一つ持って来てくれた。私はその住所と家の苗字を自分のメモに控え、
「有難う。おじちゃんが自分の家に帰ったら、この住所宛に、さっちゃんの喜ぶものを何か送るね」
女の子は素直に、とても嬉しそうな顔をした。
「ほんとう? 嬉しい! あたし、町のお菓子が良い。ずっと前にお父ちゃんが食べさせてくれた。甘くて、とても美味しかったから」
これはどんな事があっても、送るのを忘れる訳には行かない。
「そのお菓子って、クッキーかな、チョコレートかな」
「分からないー。あたしはただ美味しかった事だけしか憶えてない」
「そう? どんな色してた?」
「ええっとー、黒っぽかった」
「口に入れたら、とろーって溶けた?」
「溶けた溶けた」
「あー、じゃあ、チョコレートだね。それを送るよ」
女の子はにこにこと笑った。今だけ、今からその贈り物が届く間だけでも、喜んで欲しい。それで何かした訳では全然ないけれども、それでもそれ位はさせて欲しい。
「あっ、そうだ。お母さんに、近いうちそんな贈り物が届くからって、言っておいてね」
「うん、言っとく。嬉しいな」
そう言うと、私達は二人、また元居た軌道の終点に戻ろうとして振り返った。少し高くなったその場所からは、原野の遥か彼方から泥濘と雑草に埋もれた今はもう見捨てられた軌道が続いているのが見えた。それはずっと直線で原野を渡っていた。そして、今はもう死んでいる廃墟なのに異様に美しかった。それは恰も、誰か嘗て人が生きてきて、その人はもう人生を終えて亡くなっているのに、それでも決して消えて無くなりはしない石碑の様に私には見えた。
「埋もれながら、何を証しするのか」
私は小さな声で、そう言った。勝手に言葉が出て来たのである。女の子は、私のその言葉が聞こえなかったのか、それとも聞こえても意味が判らなかったのか、何も言わなかった。そして次の瞬間、
「お爺ちゃんは、この軌道で馬を牽いて荷物を運んでた」
と、感情を込めない口調で言った。私は女の子を見詰め、何も返事せずに『うんうん』と頷いた。そして自分で口にした問いの答えが、勝手に心に浮かんで来た。
「間違っていなかったものを。それで良かったものを、証しするのだ」
しかし直ぐに別の想いが私の中に浮かんで来た。
「しかし、今、直ちに、今、何とかならないものか。私に出来る事は……」
そしてその疑問に対する答えは、絶対に私の中に湧いては来ないのだった。
午後の既に傾いた太陽が原野の全部を優しく照らしていた。風が吹いてはいるが、これも大気の騒めく程ではない。何か、私が観ている光景全部を労わる様に、それらに掌を当て撫でるかの様に吹いていた。私は言葉を失った。
私は自分の事を不幸だと思った事は無い。今迄生きて来る為に苦労したと思う事位は慥かに有る。しかしそんな程度の事は、誰でも経験している。しかしこの子は如何なのだ。この子は何も悪くないのに、こんなに子供の頃から、慕っている父親と一緒に暮らす事が出来ないでいる。
「私の持っている幸福を、この子に分けてやりたい」
私はそんな事さえ思った。しかし私には、幸福は無かったのである。言った様に、私は不幸ではなかった。しかし幸福でもなかったのだ。私は心満たされて暮らしている訳ではない。此処に来ているのが何よりの証拠だ。私は自分のいつも暮らしている場所から逃げ出して来ただけだ。この場合、逃げ出す事が悪い事ではないが、逃げ出して来るという事は即ち、私が今幸福ではないという事を十分に証明していた。私はこの子に分け与える幸福など、もってはいないのだった。しかし、次の瞬間、私はこうも思った。
「持っていなければ、創ってでもあげるべきではないのか」
私の心は、時々私が全く予期していなかった答えを、それも私が問うてもいないのに生み出すのだった。思えばその為に、私は色んな場面で随分混乱した。しかし今にして思う。私の心は、正常に動作しているのだった。それらの予想もしない答えは、私を導いていたのだった。この時も、間違い無く。
「おじちゃん、お腹でも痛いの? 痛そうな顔して」
「いいや、大丈夫だよ」
私は最後に鞄の中から菓子パンを二つ取り出して、
「さっちゃん、今日はおじちゃんと色々お話してくれて有難うね。おじちゃん、嬉しかった。おじちゃんの事、忘れないでね。おじちゃん何処に居ても、さっちゃんのお父ちゃんが無事に此処に帰って来るのを、お祈りしてるからね」
と言って、女の子に渡そうとした。すると、
「でも、あたしがどんなにお祈りしても……」
と言って、女の子はとても悲しそうな顔をした。殆ど泣きそうな顔だった。私は思わず女の子をぎゅっと抱き締めた。何も言う心算は無かったけれども、仮令何か言おうと思っても出来なかっただろう。私が本当に泣いていたからである。
出逢って少し話をしただけの子供に、衷心から同情するのは良くないだろうか。それは大人らしくない行動だろうか。
「そんな事をしても、結局その女の子にとっては、何の解決にもならない」
そうだろうか。そうだ。それは私自身が最初から認めている。誰よりも先に、その事を第一番に認めている。けれど同時に私の中に声が響く。
「その通りだ。けれども、それは自分自身以外に全く興味の無い人間が必ずそう言う科白だろうな」
私が恐れたのは、此方の方だった。此方の側の根拠だったのだ。私が責められたくないと、自身を委ねた価値観は間違い無くこっちだった。私は一切を理解していたつもりだ。けれど、その時に私を動かした力の、そちらの側に私を立たせた力の、如何に大きく強く、優しく、瑞々しかった事か。逆に、
「私は、此処で泣く事の出来ない様な人間なのか」
と感じた。これを、流れる車窓の風景に対する様に一瞥を与えただけで立ち去る人間が、どうして自分の人生を生きる意味をもち得るのか。そんな事は、有り得ない事だ。此処で一緒に泣く事が出来ないでいて、一体何の理由で生きるのか。私は、上手く生きたいのではない。私は生き永らえたいのではない。私は、ただ単純に、普通に生きたいのだ、人間として。
抱き締めた以上は、此処を去らなければならない。この後に何を喋ったとしても、それはもうこの女の子の為にも、私の為にもならない。私は女の子を抱きながら、二、三回大きく深呼吸した。一瞬、更に一層泣きたくなったが、それでも私の呼吸は穏やかになった。私は女の子との別離の言葉を考え始めた。そんな事を考える自分は良くないと思ったが、それでも他に私に何が出来るというのだ。
その時、私は軌道の遥か向こうに人影を見た。遠く迄見渡す事の出来る軌道上を人が歩いて来る。遠くてよく分からないが、白い服を着ている様だ。ワイシャツだろうか。女の子を抱き締める腕を解いて彼方を望みながら立ち上がった私を見上げ、女の子も私の見ている方向に目をやった。歩行の上下の動きが激しい。あれは女性の歩き方ではない。風がやんで、原野を覆う背の高い雑草が揺らぐのが止まった。その、時の停まった様な不思議な空間の中を、近付いて来る人の姿は極めて僅かずつ大きくなって来る。それを、私と女の子は黙って、ずっと見詰めていた。
女の子が急ぎ足で、停留所の跡に駆け下りた。私も大急ぎでそれに続いた。暫く女の子は停留所の小屋の前に立ち尽くしていたが、突然三歩、前に出た。見ると胸の前に両手を組んでいる。そして直ぐに、更に二歩進んだ。もうその白いワイシャツを来た男性の姿ははっきりと見える様になって来た。男性は短髪、そして丸眼鏡を掛けている。ズボンは薄い青色だった。夏らしい姿である。野良着ではないところを見ると、地元の人間が農作業から帰って来たという訳ではない様子だった。暫くすると男性の表情迄見えた。男性は、困った様な顔をしていた。しかしよく見ると、困りながらも笑っているのだった。
女の子が走り出し、何も言わずに正面からその男性に抱き付いた。その男性は両手に持っていた鞄をその場に置き、女の子をだき抱えた。
「お前が此処で待っていてくれるんじゃないかって、思ってたよ」
女の子は黙ったまま、身体を震わせている。何も言わない。
「済まんかった、本当に」
男性は女の子の背中をぽんぽんと掌で優しく叩くと、鞄を二つ一緒に片手に持ち、もう一方の腕で女の子を抱き、そのまま私の横を通り過ぎて歩いて行った。私は独りぽつんと停留所の小屋の前に取り残された。
しかし、しかし、私はもう満たされていた。何一つ欠けたものは無かった。私はその瞬間、つい数分前に自分には他人に分けてあげる幸福は無いと信じていたのに、今はその幸福で満ちている事を自覚した。それはとどまるところを知らず、滾々(こんこん)と湧く清水の様に私の内側を潤し、満たして行くのだった。私は何を見たのだ。私は何に接したのだ。私は、一人の子供の純真に接して、そして幸福を分けてもらったのだった。そうだ。私が幸福を貰ったのだ。そして何よりも重要な事に、自分が幸福になる為に何が必要なのかという事まで、私はその時知ったのである。
女の子の一家は今晩、どんな風に夕べの営みを持つのだろう。私はそれを想像すると言葉に出来ない程胸が温かくなり、例えるものの無い気持ちで歩き出した。私は女の子に渡しそびれた菓子パンを齧りながら、もう薄暗くなり始めた原野の中を、廃線の軌道伝いに国鉄の駅に向けて歩いた。私が何もしないのに、全ては決着したのだった。私には何も出来なかった。最初からする必要も無かったのだ。分かっていた事だったし、実際何も出来なかった。
しかし、私はそれに接する事を許されたのだった。私の喜びは、次第にその事についての喜びになって行った。道の遠きが全く苦にならなかった。日も暮れ、遠くに市街の灯がちらほらと見える所迄来たのに、私は全然疲れていなかった。それどころかもう一度、夜の原野の闇路を軌道伝いに戻って、あの女の子と話をした場所、あの女の子が父親に縋り付いた場所迄往復してもいいと思う程だった。最後に私は、何故か口に出したかったので、歩きながらはっきり言葉に出して言った。
「でも、チョコレートは送ろう。絶対に送るんだ」
これは私がまだ若い頃、旅をしていて或る馬鉄の廃線跡で出逢った女の子との物語である。私はこの旅で、他にも色々な人間に逢った。しかしこの女の子との出逢いが一番記憶に残っている。それはその時から三十年の時が経った今も、全く色褪せずに私の瞼に焼き付いている。思い出す、のではない。それ以来、私はずっとその記憶と一緒に生きて来たのだ。
この記憶は大人になった私の人生の殆ど全部を通じて、私の背後にずっと在った。それが何故かは分からない。何故この出来事が私の若い頃にあり、そして私がその事をずっと忘れずに生きて来たのか、私自身に説明出来る筈がない。しかし私はそうであってくれた事を幸せに思っている。よくぞこの出来事が私の一生の中に在ってくれたと感謝している。私は自分にこの記憶在るがために、どれだけ、その後の人生で自分を落ち着かせる事が出来ただろう。どれだけ、自分が本当に求めているものが何なのか分からせてもらった事だろう。何を目指して生きるのが私にとって必須であるのかを、如何に鮮明に知らせてもらった事だろう。
この出来事は私に指針をくれたのである。
人生は何か一つの事で決まってしまう訳ではない。大きな出来事は慥かに有るが、それでもそれが致命的なものであって二度と再び自分に希望を抱く事を許さない程のものである事は、無いとは言わないがそう多いものではない。逆に、何か良い事があっても、その喜悦が一生続くという事も普通は有るものではない。しかし私のそれは一生続き、私を不思議に温かい光で照らし続けたのである。
『一つの事実でいい。一つでいいから自分を支える事実が欲しい』
そう言いたくなる時は、誰にだって有るだろう。私のその『一つの事実』に、この出来事はなってくれたのだ。
もう一度言おう。私は其処で何を見たのか。私は其処で一体何を体験したのか。今もって判らない、言葉に出来ない。けれどそれが何らかの私の努力の成果だった訳ではなく、一方的に向こうからやって来て、そして私に与えられた恵であった事だけは間違いが無い。
私の一生は、自身が勝ち得たもので支えられたのではなかったのである。これは、嬉しい事ではないか。
(了)
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