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父親を待つ娘  作者: 前田雅峰
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前編

 誰にも問われていないのに、自分自身が自分に問う。そういう問い掛けを誠実と謂うのではないでしょうか。

 其処(そこ)は鉄道の駅から大分離れた所に在った。私の足でも駅から歩いてゆうに二時間はかかった。

 都会の空と違って果てが無い。爽やかな夏空だから余計か。地平は小高い丘や森で区切られているが、其処(そこ)迄の土地は完全に私の視界の中に在った。何にも利用されていない草原、原野と、利用されているかどうかも定かではない、かなり草の伸びた牧草地だった。牛が何頭か居るには居る。しかしどれも皆座り込んでいて殆ど動かない。

 この季節なのに風が涼しい。暑くも、温かくさえもない。丘の向こうから吹いて来る風は、一体どれだけ広い土地を渡って来るのか。そしてその土地は、人間の生きている土地なのか。人が今迄一人として住んで生きた事の無い、太古から続く原野ではないのか。

「そんな土地を渡って吹いて来る風だ。涼しいに決まっている」

 私は何故かそんな事を思ったのだった。

 駅前から続く、最早(もう)何年も前に使われなくなって放置されている、しかし軌条だけは残されている馬車軌道の終点の集落に、私は居た。比較的大きな、しかし庇がかなり傾いて崩壊しかけた木造の倉庫然たる建物の前である。其処(そこ)で軌条は二本共、泥の中に突っ込んで尽きていた。

 泥と雑草とに埋もれた、焦茶色に錆びた細いがたがたの線路の前に置かれている踏み台の様な材木の上に私が座り込んでいると、知らぬ間に後ろに女の子が居て、小屋の前のぼろぼろのベンチに座っている。人が近付いて来る何の音もしなかったところを見ると、若しかしたら私が此処(ここ)に来た時から居たのかも知れない。私は最初知らないふりをして煙草など吹かしていたが、不図(ふと)女の子の顔を見るとそれが何ともいえない無表情なものだったので、思わず声を掛けてしまった。

「お嬢ちゃん、此処(ここ)で何してるの?」

 私は間違ってもそれが子供を詰責している響きにならない様に、出来るだけ優しい声で言った。しかし女の子はそんな私の側の配慮など全く気にしないかの様に、平然と答えた。

「お父ちゃんを待ってるの」

「お父さんが帰って来るのかい?」

「ううん。分からない。でも帰って来て欲しいなと思って、此処(ここ)で待ってるの」

 私は一瞬躊躇したが、何故か極めて自然に次の問いが口を衝いて出た。その質問を押し留めようとする本気の力が私に作用しなかったのだ。

「お父さん、今日は帰って来ないのかも知れないんなら、ずっと此処(ここ)に居るとお母さんが心配するよ」

「いいの。あたしが家に居ない時はどうせ此処(ここ)に居るってお母さん知ってるし、あたしの家はすぐ近くだから」

「そう。でもどうして此処(ここ)でお父さんを待つんだい? 道路はあっちだし……」

「お父さんは、この軌道で帰って来るに決まってる」

「でもこの軌道はもう長いこと使われてないんだよね? だから道路で帰って来るんじゃないかな?」

「お父さん鉄道が好きだったから、帰って来るなら必ずこの軌道で帰って来ると思うの。軌道が動いてなくたって、線路の上を歩いて来るに決まってる」

「そうか、だから此処(ここ)で待つんだね。でもお父さん、いつから家にいないの?」

 今度は女の子は暫く何も言わなかった。私が女の子から返事が返って来るのを諦めると、女の子は突然、

「一年の半分って、半年っていうのかな?」

と私に問うた。

「うん、そうだよ」

「じゃあ、半年かな」

「ふうん。お仕事?」

「うん。出稼ぎって、お母さんが言ってた」

「そうか。元気で、無事に帰って来れば良いね」

「うん」

 こんな、町から離れた集落だ。そういう事も有るだろうと思い、帰ろうとして私は立ち上がった。すると女の子が言った。

「おじちゃんは、町の人?」

「うん。まあ、そうだね」

「今日はどうして此処(ここ)来たの?」

「うん。おじちゃんは時々旅行するのが好きなんだ」

「旅行っていっても、何でこんな所に?」

 私は、この女の子は見た目よりも年嵩なのかと疑ったが、先刻一年の半分を何と謂うのかと私に質問した位だから矢張見た目相応なのだと結論し、素直にありのまま返事した。

「こんな所? とても良い所で、旅行しに来るのに良い場所じゃないか。空気は綺麗だし、人もそんなに居ない。見渡す限り原野と牧草地だから気持ちが良いしね」

「でもおじちゃん以外、誰もこんな所に遊びに来ないよ。知らない人、滅多に来ないからね」

「そうかな。町に住んでる人は休みの日に、結構こういう静かで人の少ない所に旅行に行ってるもんだよ。此処(ここ)でなければ、此処(ここ)以外の、此処(ここ)に似た場所にね」

「ふうん」

「ところで、お父さんの事は『お父ちゃん』って言って、お母さんの事は『お母さん』なんだね」

「うん」

「普通、両方共『ちゃん』か、両方共『さん』だと思うけど」

「うん。でも何でか、うちではそう呼ぶの。二人共そう呼んで欲しいみたい」

 女の子は私を見詰めている。

「ねえ、おじちゃん」

「何だい?」

「町に出稼ぎに行った大人って、もう帰って来ないのかな」

 私は言葉に詰まった。しかし何か返事しなければならない。

「そんな事はないよ。どうしてそんな事を訊くんだい?」

「お父ちゃんが半年いないってあたし言ったけど、それ嘘なの」

 私が黙っていると、

「ごめんなさい。本当は、多分、二年位、居ないの」

「町に働きに出て、それで帰って来ないのかい?」

 今度は女の子は返事の代わりに小さく頷いた。私は事態が深刻なものである事を把握した。しかしだからと言って、急に優しくなるというのも良くないと思い、出来るだけ平静を保つ様心掛けた。

「おじちゃん」

「何かな?」

「うちの村のお父さん達、町に働きに行って時々帰って来なくなるの」

 (さすが)に何の返答も出来ない。

「帰って来る人も居るんだけど、帰って来ない人も同じ位居るわ。どうしてなの?」

「済まない、おじちゃんにはそれは分からないんだ」

 私はこの時、すんでのところで、

「でも家族が大切だったら、帰って来るんだよ」

と言いかけたその言葉を飲み込んだ。

「お嬢ちゃん」

 私がそう話し掛けると、女の子は返事をせずにまた私の顔を見詰めた。

屹度(きっと)お父さんは、お嬢ちゃんとお嬢ちゃんのお母さんの為に一所懸命町で働いているんだよ。だから忙しくって、帰って来る事が出来ないんだ」

「お母さんもそう言ってた。前にそんな手紙がお父ちゃんから来たって言ってた」

 私はこの女の子の言葉にどれだけ救われたか知れない。一気に気持ちが軽くなった。

「郵便が来てるんだね? お父さんから。だったら大丈夫。そのうち帰って来るよ」

 私が笑顔でそう言うと、

「その手紙はもうずっと前に来たの。それから手紙、全然来ない」

と矢張無表情な顔になって言った。何の鳥かは知らないが、一声啼いて羽ばたいて飛んで行った。その鳥の啼声はどちらかというと人を馬鹿にした様な滑稽な響きだったので、私は余計に悲しくなった。

 私はそれ以上、何も言う事が出来なかった。何か言いたかったが、苦しくて何も言えなかったのである。しかしそのうち、胸の苦しい感じ、その(つか)えは治まった。それは私が今何か言う必要が有る訳ではないと気が付いたからである。今此処(ここ)で私が何も言う必要は無いのだ。それどころではなく、何も言ってはならないのだ。その事が自然に、(あたか)も砂地に水が滲み込む様に私の中に広がって来て、私はその想いで満たされた。

「お父さん、帰って来ると良いね」

「うん」

 その女の子の父親が(やが)て帰って来るのか、それとも多くの同様の例に倣って最早二度と帰って来ないのか、私には判ろう筈も無い。またその結末を知ろうとも思わない。知ったところで何が如何(どう)なるだろう。私に出来る事など、有りはしないのだ。

「お嬢ちゃん、お母さんが心配してるから、もう家に帰った方が()いよ」

「もう少しだけ。お父ちゃんが帰って来るのを、歩いてこっちに近付いて来るのを見たいの」

「でも、いつ帰って来るのか判らないんじゃあ……」

「でも、あたしが此処(ここ)を離れると、絶対その離れてる時に帰って来る」

「でも、家でご飯食べたり、寝たりしている時は、どうしたって此処(ここ)には居られないじゃないか」

「うん。だけどそれは仕方無いわ。あたしが家にいないとお母さんが困る時は逆にあたしが家に居ないと、お父ちゃんが帰って来たとしても『お前、どうして家でお母さんと一緒に居ないんだ』って怒られる。けれどあたしがあたしの好きにしてもいい時間は、此処(ここ)で待ってないとお父ちゃんが……」

「……お父ちゃんが?」

「怒りはしないけど、こっそり悲しむと思うの。あたしが此処(ここ)でお父ちゃんを待ってなかった事を」

 これ以上の説得は、あまり意味が無いだけではなく、屹度(きっと)この女の子にとって有害だ。私は女の子の父親の為人(ひととなり)について話をする事にした。私はまだその場所を離れたくなかった。いや、女の子と別れたくなかったのだ。

「お嬢ちゃんのお父さんって、どんな人なのかな?」

 女の子は急に活々(いきいき)とした表情になって話し出した。

「時々お母さんと喧嘩もしてた」

「そう」

「でも、お父ちゃんから仲直りする事もあるし、お母さんから仲直りする事もあるの」

「そう。良いお父ちゃんとお母さんなんだね」

「うん。それにね、お父ちゃん、いつも寝る前にお母さんの按摩してあげるのよ。喧嘩してる時でも」

「ほおおー、それは何より素晴らしいね」

「多分、お父ちゃんはお母さんの事を大切に思ってるんだと思う」

「それって、ずっと前から?」

「うん、あたしがずっと小さな時から、気が付いたら毎晩してた」

 私はわざと少し黙って時間をおいてから言った。

「お嬢ちゃん、お嬢ちゃんは何て名前なの?」

(さち)

「そうか、さちって名前なのか。若しかして、さっちゃんって呼ばれてる?」

「うん」

「じゃあね、さっちゃん。さっちゃんのお父ちゃんとお母さんは、とっても良いご両親なんだと思うよ。世の中にはいっぱい夫婦が居るけど、みんながみんな、さっちゃんのお父ちゃんとお母さんみたいに良い夫婦な訳じゃないんだ」

「でも、仲が良いから結婚して夫婦になったんでしょう?」

「そうなんだけど、結婚してから仲が悪くなる事もあるんだよ」

「でも、結婚してから仲が悪くなったんなら、離婚すれば良いじゃない」

「あっ、離婚なんて事、もう知ってるんだ」

「うん。あたしの友達の親が、この前離婚した。その子はお母さんと一緒に、この村を出てったわ」

「でもね、一回結婚すると、そう簡単に離婚は出来ないのさ。それはね、さっちゃんが大きくなったら分かるよ」

「変なの。でも、うちのお父ちゃんとお母さんはそんな事しないよ。ずっと仲良しだから」

「そうだね。さっちゃんの話を聴いてると、僕も本当にそう思うよ。お父ちゃん、早く帰って来ると良いねー」

「うん」

「さっちゃんの家って、すぐ近くなんだよね」

「そうだよ」

「じゃあ、案内してくれるかな」

「いいよ」

 女の子はすたすたと坂道を上り、土道に出ると直ぐに指さして、

「ほらっ、あの家」

と教えてくれた。

 ブログには他の手紙や小説も掲載しています。(毎日更新)

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