指輪をしないあの人の話
単に個人的な萌えをぶちまけただけです。
咳・吐き気の描写が苦手な方はご注意ください。
シャッターを下ろし踏み出した、夕方と夜の境目のような街の中、ふと思い立って脇道に入る。今日のお昼頃ささいな用事で通話したときに聞こえた、咳をこらえるような義兄の息遣いが、なんとなく心にかかっていた。
田んぼと公園と駐車場を順番に通り過ぎながらしばらく歩き、一軒の古い平屋の前で足を止める。カメラなどない旧式の呼び鈴を押して、言った。
「美桜です」
返事はない。しかし明かりはついている。いやな予感をふくらませつつ、門の向こう側へ手を回して南京錠を外した。錠の形はしているものの肝心の鍵がどこかへ行ったようで、いつも掛け金に引っかけただけになっているのだ。そのまま玄関の前まで進んで戸に手をかけると、がらがらと簡単に開いてしまった。
防犯とは、と思いながら中へ声をかける。
「志信さん、美桜です。いらっしゃいますか」
はい、どうしました? 確かにそう聞こえた気がした。でもその後に続いたのは足音ではなく、激しく込み上げるような咳。これはいけない、直感的にそう思った。気管がとても弱く体調が常に不安定な志信さんは、気をつけていないとあっという間に大変なことになる。今のような寒い時期には、特に。
靴を揃えるのもそこそこに志信さんの部屋へ入ると、パソコンに向かう彼の背中が目に飛び込んできた。お邪魔しますと一応断り、志信さんの顔の見える位置へ移動する。液晶の青白い光に照らされた彼は、チェック柄のハンカチを口に当てて右手でマウスを操作していた。わたしと目が合うと何か言いかけたが、その声はすぐに咳へと変わる。
「ッケホケホ、ケホっけほっケほっケホっケン、ヒうーーっゴホゲホッッ」
「志信さん! 酷いお咳じゃないですか、お仕事も大概になさってください」
「すみません、少々風邪っぽくて。でもたいしたことはありませんから」
そう言った直後にまた口を抑え、胸全体で思いきり押し出すような咳に苦しげに上体を揺らしている。
「お熱は?」
「ありません」
「ちゃんと計ったんですか」
志信さんの目が泳ぐ。綺麗な顔をしたこの義兄は、数式の扱いには厳しいくせに自分の体調にはあきれるくらい無頓着なのだ。水っぽい膜の張った瞳を見る限り平熱というのはあり得なそうで、もう、とわたしはため息をつく。お薬は飲みましたか、お夕飯は。そう聞こうとした矢先、志信さんはハンカチで口を覆ったままゆらりと椅子から腰を浮かせた。
「ちょっと……ゴホ、コンッ……っう、すみませッ」
「え、どうされました」
「大丈夫です、すこし気持ちが、わるいだけ……」
ふらふらとお手洗いへ向かう後を追いかける。便器の前に膝をついた彼はすぐにえずき始めたが、透明な唾液が滴るばかりでいっこうに何も吐き出されはしない。
「おぇ、う……ッゲホ、ゴホゴホ……っえ、ぐ……」
「もしかして、もうかなり戻されたんですか」
「いえ……最初からなにも、ぅえっ、はぁ、吐けないんです……今朝方から気分が優れなくて、ッう、く、何度かお手洗いには行ったのですが……なにも、」
朝からこんな状態で、それでも日が暮れるまで仕事を続けていたというのか。じっとりと熱を持ちびくびくと波打つ背をさすりながら、気が遠くなるような思いに打たれる。学会発表が近いとは聞いていた気がするけれど、こんなにも身を削らなければならないものなのか。
えずきよりも咳が多くなってきたタイミングを見計らって、わたしは急いでその場を離れ、布団の用意を整えた。
「志信さん、いったん横になられては。ここは寒いですし」
「でもっ、……げほ、っおえ、ゲッほゴホごほ……!」
「お咳も心配ですし、ね? タオルをお持ちしましたから」
固く握りしめられていたハンカチを取り、代わりに唾液で濡れた口元へ柔らかいタオルをあてがう。これなら万一戻してしまっても多少は受け止められるだろう。声をかけると志信さんは何とか立ち上がったものの、そのままぐらりと倒れてきた。
「あっ……すみませ……目の前が、ふわふわ……」
「大丈夫です、ゆっくり、ゆっくり歩きましょう」
底冷えのするお手洗いで長いことえずいていたのがいけなかったのか、さらに熱が上がっているようだ。痩せているとはいえだいぶ背の高い志信さんを支えて進むのはかなり大変で、布団にたどりつくとわたしたちは同時に崩れ落ちた。激しく咳き込む彼はよく見るとぶるぶる震えている。さらに熱が上がるのかもしれない。
肩の上まで布団をかぶり、横向きになってタオルで強く口を抑える志信さんを、わたしはいつまでも傍でさすり続けた。
「ゲッほげっホゲホゲほげほコンコンコン……はぁ、げっホゲホ、ふー……ふ、うぇ、おええっ……ッく、うえぇ……はぁ、はぁ、きもち、わる……」
「具合悪いですね……しんどいですね……」
「ひううっゴホ……ゲホコほっ、ゲっっホげぇ……おえェっ」
そのとき、咳と吐き気にぼやけた瞳が、一瞬わたしの像を結んだ。
「く、は、美桜さん……」
「はい」
「どうして、私に、こんなによくして、くださ……」
幅の広い二重の線がうっすらとついた、夫にそっくりのまぶたが見つめる。
「それは」
「ぅ、けッほケほコホゴホげほげほゲッほ、げっほ、ゲホごっホ……! おえ、はぁ、ゴほっ」
えずきの混じった酷い咳が、こぼれた言葉を消し去ってくれた。本当はわたしは……なんて、絶対に絶対に知られてはいけない。