あなたの、隣で。
日当たりの良い南向きの窓辺から、中庭の緑の木立がさわさわ揺れるのが見える。
地方の大学病院にて。
私は身体を一ミリたりとも動かすことはできないから、この窓辺から中庭をこうして眺めていることしかできない。
私はそんな中、この窓辺でいつも、私の旦那さまの姿を待つ。
旦那さまは毎日同じ時間に、それはショップがヒマになる夕方の5時頃だと思うのだけれど、わざわざ私に会いに来てくれるのだ。
私の愛しい人。
あ、あの人です。あの人が、私の旦那さまです。
私は窓辺から手を振る。
彼の手には、淡いピンクの花束。旦那さまは時々そうやって、私に花束を持ってきてくれて、私の隣に飾ってくれる。
彼はいつも小走りできて、そんなに走るとつまづきますよと、私が声をかけても全然きいてはくれなくて。
ああ。もうすぐ、旦那さまに会える。
ドアがノックされると、途端に私の頬は染まり、胸もトクントクンと鳴り始める。
旦那さまは私の最愛。
どうか私のことを、いつまでも愛してください。
ずっとあなたの、
隣にいたい。
✳︎✳︎✳︎
私が旦那さまに初めて出逢ったのは、いつもより早い季節に、雪が少し降り始めた冬の日だった。
旦那さまは、私がご厄介になっていたフラワーショップのご主人の息子さん。その時旦那さまは、黒髪とその背の高さに見合わないランドセルの少年だった。
彼は私に近づいてきて、私をひょいと抱き上げると自分の腕に私を抱え込んだ。
私の鼻先に、彼の端正な顔が近づく。心臓が、ドクンと鳴った。
「これからは俺が、お前の世話をするからな」
耳元でそう囁かれて、私の脈がその速度を上げる。
「よろしくお願いします、旦那さま」
どうやら私は一目惚れをしてしまったようだ。彼のことを考えるだけで、私は歓喜に包まれて、この身を震わせた。
「ごはんだぞ」
「ありがとうございます」
「身体、拭いてやるな」
柔らかい布を霧吹きで湿らせて、旦那さまは私の身体を優しげな手つきで、丁寧に拭いてくれる。ホコリがついていた私の腕も、その本来の肌の色を取り戻していった。
「ごめんな、ちょっと留守にしてたから」
「知っています、部活の合宿だったのでしょう。旦那さまがお留守の間は、とても寂しかったです」
旦那さまが発する言葉は少ない。けれど私にはいつも、一言二言話し掛けてくれる。声を聞けた時にはもう、嬉しくて嬉しくて、私は天にも昇る気持ちになった。
けれど旦那さまは、私に話し掛けてはくれるが、決して笑い掛けてはくれない。
それが、とても寂しくて悲しくて。彼の笑った顔が見たいと思う度に、胸が締めつけられた。
「どうか、私に笑いかけてくださいませんか」
彼は振り返ってこちらを見ると、そのままふいっと顔を背けて、部屋を去っていった。
✳︎✳︎✳︎
「お前を病院につれていくな」
ある日、旦那さまが発したその言葉は、私を随分と混乱させて、不安にさせた。自分にどこか悪い部分があるのだろうか、思い当たらないし、分かってはいない。
旦那さまは私を抱えると、私の身体を拭いてくれる肌触りの良い布と霧吹きを持って、車の助手席に乗せた。
形が四角いこの車は、フラワーショップの配達用の車らしい。店の看板と同じマークを見つけると、私は多少安堵した。
「急ブレーキで倒れるといけないから、シートベルトするな」
私に覆いかぶさるようにして、シートベルトを引っ張ると、カチャと音をさせて金具を押し込む。
その音が、私の心臓を跳ね上げたのか、それとも近づいた時に頬に触れた彼の柔らかい髪が、身体中を巡り廻る私の脈を速めたのか、そのどちらなのか分からないけれど。
私はとても、緊張してしまった。身体がカチカチに固まって、動かない。
すると横で、ぷっと吹き出した音。
「安全運転で、いくよ」
もしかしたら、今。笑ったのかも知れない。その顔は見られなかったけれど、私はほわっと胸が温まるのを感じた。
不安だった気持ちも、どこかに吹っ飛んで、私の中は喜びで満ち溢れた。
初めての、ドライブ。
「デートみたいで、すごく嬉しいです」
「そうは遠くないからな」
旦那さまが、血管の浮いたがっしりとした手で、ハンドルをゆっくりと回す。その無骨な手で不器用にも触れられると、私の頭はいつも爆発してしまうのだ。
旦那さまの横顔はとても美しく、私はその端正な横顔に釘付けになり、ずっとずっと見惚れていた。
病院の、駐車場に到着するまで。
ずっと。
✳︎✳︎✳︎
「これ、大事な鉢植えでしょ」
「いいんだ、ここに置いておくから」
どこもかしこも真っ白な、病院の一室で、私はその女の子に出逢った。
旦那さまは、窓際の太陽がよく当たる場所に私を置いてから、彼女のベッドの横に置いてあるイスに腰掛ける。
「誰に会いに行くのですか?」
車の中で、問い掛ける私に、旦那さまは答えてくれていた。
「幼なじみが入院しているんだ。お前を見て、元気になって欲しくて。ごめんな、勝手に決めちまって。美咲っていうんだ」
哀しげに顔を歪めた旦那さまを見て、私は言った。
「そんなお顔をしないでください。きっと、その方の病気も良くなりますよ。私も精一杯、応援しますから、」
「花が、咲くと喜ぶんだろうけどな」
ああぁ、と絶望の淵に立たされたような気がした。
それは今。季節は秋も深まりつつある頃で、多くの樹木や草花がその葉の色を赤や黄色に変え、そしてそれを惜しげもなく落としていく時期。
私の花期ももうとっくに終わっていて、悲しいほどに、私は無力だった。
「仕方ないか、もうすぐ冬だもんな」
旦那さまの、睫毛がその頬に影を落とす。
私の全身を巡る葉脈は、じめっと湿気を含んで、それはそれは身体中を重くした。
「でも、お前を……俺、だと思ってくれた、ら、」
呟くように言った言葉は、最後には薄っすらとし、消えていった。
その言葉で旦那さまが、その方を愛していることを、知ってしまった。
✳︎✳︎✳︎
「緑の色が、とても綺麗」
「……ありがとうございます」
最初の頃は、美咲さんに話し掛けられても無視し続けていた私だったけれど、二三日もすると、彼女の根気の良さに負けてついに降参し、問いかけに答えるはめとなっていた。
「葉脈が透けて見えるわ。すごく、不思議」
「私たちはみんな、こんな感じですけどね」
「洋介くんに、とても大切にされているのね」
「そりゃあ、もちろん、そうですよ」
あなたよりもね、鼻息を吹いて、言い切る。
私が得意げに言うと、美咲さんは旦那さまと同じような様子で、睫毛を伏せた。
表情には翳りが差していて、その眉根はぎゅっと寄せられている。
「側にいられて……羨ましい」
彼女は一旦はベッドの方へと戻ると、そこにあったイスを窓際まで引っ張って寄せてきて、私の隣に座る。
「洋介くんね、好きな人がいるの」
ちょんちょんと、私の手を指でつついてくる。
私がその言葉に驚いて、声も出せずにいると、彼女は話を続けた。
「彼、モテるから」
「そ、そりゃあ、そうですよ。そんなこと、言われなくても知ってますとも」
私が動揺を隠しながらも、そう言葉を絞り出すと、彼女はさらにその顔の翳りを濃くしていった。
「私の友達がね、聞いたんだって。洋介くんが告白されてるところに、たまたま通りかかって。ふふ、マンガ見たいでしょ」
「…………」
「……好きな人がいるって言って、断ってたって」
あなたのことでしょう、そう思ったけれど、私は言葉にしなかった。
「年上でね、美人な人」
え、と思った。
旦那さまの周りで、思い当たる人はいない。
「花屋さんのお客さんなんだって。ねえ、あなた見たことある?」
私は、旦那さまの部屋に住んでいるので、一階のフラワーショップにはあまり行ったことがない。
時々、旦那さまが私に養分を与えてくださったり、下がってくる土の量を足してくれたり、そんな時だけはお店にお邪魔することがあるだけで。
「きっと、素敵な人なんだろうな。洋介くんが好きになっちゃうくらいの人だもん。それに、向こうもきっと……」
お店で接客する旦那さまはとても凛々しくて、でもエプロン姿が可愛らしくて。
確かにそんな旦那さまの姿に惚れてしまう女性もいるのではないかと、想像に難くないけれど。
「はああ。私なんて、到底かなわない。ずっと小さい頃から一緒だったから、たぶん女とも見られてない」
美咲さんは、くしゃりと顔を歪めた。
目尻から、細く涙が流れていく。
「それなのに、私、」
死んじゃうかもしれないなんて。最悪だね。
その言葉はいつまでも、私の中に残ってしまって、追い出そうとしても追い出そうとしても、出ていってはくれなかった。
✳︎✳︎✳︎
「あなた一体、どういうつもりなのっ‼︎」
部屋の外にまで聞こえそうな、いや聞こえるだろう、金切り声が響く。
検査室に行ったっきりの美咲さんの不在をいいことに、美咲さんのお母さんが突然、怒り出したのだ。
そのキンキンと響く声は、私の葉脈をもダメにしてしまいそうで、けれどそれより何より、旦那さまを酷く叱責するのを見て私は心底、憤慨した。
「そんな大きな声で、怒鳴らなくてもいいじゃないですかっ」
私も負けじと大きな声で叫ぶ。
けれど美咲さんの母親の、狂ったような怒声に掻き消されてしまう。
「花屋のくせに、そんなことも知らないの? あなたって人は本当に、呆れるわ」
旦那さまは頭を垂れて、苦渋の表情を浮かべている。
「知っていましたが、美咲が喜ぶと思って」
「喜ぶわけないでしょ‼︎ 入院患者に、鉢植えを持ってくるなんて。あなた、美咲が退院できなくてもいいっていうの?」
「おふくろ、ちょっと落ち着けよ。洋介だって、悪気があったわけじゃないんだから」
美咲さんのお兄さんが、横から入って諌めるけれど、母親の怒りは収まらない。
「しかも、花すら咲いていない、こんな鉢っ‼︎ 美咲がいるから今までは控えてきたけれど、ちょっと非常識よ。これ、持って帰ってちょうだい‼︎」
私は乱暴に掴まれて、旦那さまの胸元に押しつけられた。
旦那さまに抱きかかえられた途端、背後にある病室のドアが、バンっと音がしてから、もう一度閉まった。
はあっと溜め息がする。どうやら、それはお兄さんのものらしい。
「悪いな、洋介。あれ、完全に八つ当たりだから」
「いえ、俺が、悪いから」
「いまどき、見舞いに鉢植えはどうなんだとか言う、叔父も叔父だけどなあ」
「すみません、でした」
「いや、謝るのはこっちだよ。今朝の美咲の検査結果が、あんまり良くなくてな。それで、朝からああなんだよ」
旦那さまの身体が、ビクッと揺れる。心臓の音が、私の鉢に伝わってきて、それがどんどんと速まっていくのが分かる。
「美咲、良くないんですか」
声が少しだけ、少しだけ震えている。
私には、分かる。私を持つ手も、震えているのだから。
「大丈夫だよ、ちょっと検査で引っ掛かっただけなんだ。先生も、手術で悪いところは取り切れるだろうって言ってたし、」
「…………」
「お前も忙しいとは思うし、今日も嫌な思いさせちまったけど、これに懲りずに、美咲に会いに来てくれよ」
「……はい」
「美咲、喜ぶし」
「はい、」
そして、旦那さまは私を抱えて、病室を出た。
私はまた助手席でシートベルトを締められて、旦那さまの部屋へと戻った。とても懐かしくて、嬉しいはずなのに。
そう、嬉しいはずなのに。
旦那さまの泣く姿は見たくない。肩を震わせて、声を押し殺している姿など。
顔を覆う、両の手。
私を抱き上げる、大きくて優しい手が、そのまま握りこぶしになって、ベッドを何度も何度も叩く。
私はそっと、両手で眼を覆った。
✳︎✳︎✳︎
それから数日が過ぎて、私は美咲さんの病室へと戻った。どうやら、美咲さんが母親を説得したようで、お兄さんから電話がかかってきたのだ。
旦那さまが、嬉しそうに意気揚々と、私を病室に運び入れた。
けれど。
意気揚々と、と表現したけれど、それはずっと側にいた私だから気づくだけで。
彼は表情も乏しいし、感情も滅多に顔には出さないから、何を考えているか分かりにくいと、旦那さまのご両親にさえ、そう評されていて。
みんなが、旦那さまの良いところを知らないのは、すごくもったいないと思うし、もっと自分を出せばいいのに、とも思う。
けれど、それは私だけが知っていればいいや、そう思っていた。
思っていたのに。
この病室。
南からの陽の光を全身に浴びて、私の細胞の一つ一つが、生き生きと動き出す、この窓際。
私はここで、時々は美咲さんの話を聞き、そして先生や看護師さんの冗談に笑い、そしてこうして旦那さまが来るのを楽しみにしながら、日々を過ごしている。
旦那さまは廊下を走ってきては、よくナースステーションの前で看護師さんに怒られて。旦那さまの名前を呼ぶ声と、すみませんと声を上げる旦那さまの声が、同時に廊下に響く。
けれど、この病室に入ってくると。まるで無愛想な顔に戻ってしまっているのだ。
旦那さまは、美咲さんに会いたいと急く気持ちを、このドアの向こうで押し殺してしまう。
それを見ると、はああと大きな溜め息をつきたくなる。
美咲さんの母親に怒鳴られてからは、旦那さまはよく花束を持ってくるようになった。
花を咲かせられない私に代わって、それはピンクのスイートピーだったり、青紫のアネモネだったり、オレンジが映えるガーベラだったりした。
旦那さまが、愛想なしに渡してくる花束を、美咲さんは嬉しそうに受け取る。
それだけでもう、二人は恋人のよう。
けれど、当の本人たちは。
片や、
『こうして洋介くんが、お見舞いに来てくれるだけで、すごく幸せ』
そして、片や、
『美咲が元気になれば、それでいい。早く病気が治りますように』
想いとは、旦那さまと美咲さんの二つ分あるのだから、いつかはどこかで混じり合いそうな気がするのに。
私はいつまで経っても交差しない、二人の想いに焦れていた。
この病室に連れてこられた時は、旦那さまを取られたくない、そんな気持ちであったのに。
この病室の窓辺で、旦那さまが来るのを、あんなにも待ち焦がれていたのに。
旦那さまの笑顔は、私が一番に、見るはずだったのに。
いつの間にか私の中に、美咲さんの涙が入り込んできて、私をおかしくしていった。
✳︎✳︎✳︎
ある日、旦那さまが一人の男性を連れてきた。
背が高くがっしりとしていて、外見からも分かるような、その生命力は半端がないほどだ。
太い眉も、大きな手も、彼の力強さを物語っていて、隣にいる旦那さまが優男に見えるくらいの、オーラのある男性だった。
美咲さんがいたく驚いていたところを見ると、旦那さまが美咲さんには内緒で連れてこられた方だと分かった。
「勇ちゃん、どうしたの?」
「どうしたのって、何だよ。俺、聞いてないよ。何で、こんなことになってんだ」
旦那さまが慌てて、中に入った。
「俺が、連絡したんだ。美咲この前、勇太どうしてるかなって、気にしてただろ。だから、」
旦那さまが話している内に、割って入るようにして、勇太さんが言った。
「美咲、何で連絡くれなかったんだよ。こんな時に」
「おい。美咲、病気なんだから、」
「何で俺、洋介から聞かされてんの? マジでムカつくわ。俺ら、付き合ってただろ」
「でも、もう今は……」
「元彼だってのかよ、あーあ、そうかよ。で、今は洋介とってか」
その言葉に、旦那さまは声を荒げた。
「違うっ、俺らそんなんじゃねえからっ」
事情を知っている私から見ても、痛いほどの否定だった。
旦那さまは握りこぶしを床に向けるようにして握り潰しているし、美咲さんも真っ青な顔をして、俯いている。
そんな重苦しい空気の中、勇太さんは持っていた花束をベッドの上へと放ると、病室を出ていってしまった。
白いシーツの上で、薄いピンクのチューリップが、そのこうべを垂らしている。
チューリップを優しく包み込んでいる、透明な包装紙。
どこにも店名はなかったけれど、その特徴ある包み方には、旦那さまの癖が一つ、二つと織り込まれていた。
「ごめんな、な、泣かせるつもりはなくって」
美咲さんを慰めるような、優しい声。
「ううん、いいの。大丈夫だから」
「俺ら、そんなんじゃないって、ちゃんと言っておくから」
「うん」
旦那さまがそっと部屋を出ていったのを見てから、美咲さんは声を上げて泣いた。
✳︎✳︎✳︎
「あいつはな、……勇太が好きなんだよ」
窓際にイスを引き摺ってきて私に話しかけるのは、いつもは美咲さん。けれどどうやら、今日は旦那さまの番のようだ。
私の隣に腕を置いて、その上に頭を預けている。
美咲さんが、手術前の検査で不在と看護師さんに聞いて、彼は不安そうに呟いた。
「きっと治るから。大丈夫だよ、心配すんな」
自分に言い聞かせるようにして呟くと、私の手をそっと撫でた。
「勇太がなあ、もうちっとマシなやつだったら。俺も、安心できんだけどな」
この手を、握ってあげたいのに。
「でも、」
頭を預けていた腕に、顔を伏せる。声がくぐもって、聞きにくい。
私は、旦那さまの声を一つもこぼしたくないと、耳をすませた。
「だめなんだ、勇太なんだよ。俺じゃないんだ」
俺じゃないと、何度も繰り返す。
泣くのだと思った。
けれど、旦那さまは、この病室では、絶対に涙を見せない。
そして、立ち上がって、霧吹きを取ると、洗面室へと入っていって、蛇口をひねって水を出した。霧吹きからは、きっと水が溢れ出ているだろう。
旦那さまは、少しの間、戻ってこなかった。
✳︎✳︎✳︎
今日は、朝早くに目が覚めた。
そして私は私の身に起こった変化を、一体これはどうしたことだろうと思った。
美咲さんの手術の日だというのに、私は身体のどこかがおかしかった。足は根が生えたように重く、いや根は生えてはいるのだけれど、とにかく重くてだるい。
体調が良くない。
今までにこういうこともあったけれど、それは雨が降り続いた次の日の朝だったり、暖房が効きすぎて逆に湿気が足りなくなったりと、とにかく何らかの原因があった。
けれど、今日はおかしい。手足の伸び具合も悪い。
もうすぐ、旦那さまもお見えになるというのに。
「今日ね。私、手術なの」
ふいに声がして、私は振り向いた。
「正直言うと、少しだけ恐い」
早朝のこの時間、病室には美咲さんだけ。
いつものように、美咲さんはイスに腰掛けて、私に話し掛けてきた。
「ねえ、もし、」
どきり、とした。
「もし、私が死んだら、」
何を言うつもりなのか、嫌な予感は当たるものだ。
「あなたが、私の代わりに、洋介くんを励ましてあげてね」
そんなことは絶対に約束しないですからねと、言いたかった。
あなたの代わりだなんて、まっぴらごめんよと、言いたかった。
旦那さまにも、あなたにも。
言いたいことがたくさんあり過ぎて、この緑色の肌もパンパンで、今にも爆発しそうなんだから。
「でも、あの勇太さんって方と、お付き合いしてたんでしょう」
旦那さまのことが好きだったはずなのに、他の人と付き合うだなんて。
私は、イライラしながら問うた。
「驚いたよね。違うの。私は付き合ってるとか、そんなつもりもなくて。だって勇ちゃん、私が洋介くんを好きだって、知っていたから」
「え、じゃあどうして」
「デートもしたことなかったし。勇ちゃんったら、いつも強引でね。勝手にデートとかって、そんな話にしちゃってて。本当は、どうしようって思ってて、」
「…………」
「でも、どうしていいか分からないうちに……私が何も言わないから、勇ちゃんが私のこと彼女だって、みんなに言い始めて、困っちゃた」
細く、息を吐いた。吐いたのは、私?
それとも。
「でもね、それ聞いた洋介くん。良かったなって言って、すごく喜んでて。あー、私って何とも思われてないんだなって思ったら、」
ずきずきと胸が痛む。
やっぱり今日は、身体の具合がおかしい。
「本当のこと、言えなくなっちゃった」
旦那さまと同じ顔をする美咲さんに、私は手を伸ばしたかった。
「それに、洋介くんには好きな人いるから。前に話したでしょ、友達が告白の場面に遭遇したって。その時、洋介くんに告白してた子が、言ったんだって。思い切って、その年上美人に告白したらって。そしたらさ、なんて言ったと思う?」
ふふっと眼を細めて、微笑を浮かべた。
「振られるの恐いから、そんなことはできない、って」
美咲さんは、息を吐いて、勇気を振り絞ったかのように、明るい声を出した。
「そんなのさあ、洋介くんなら絶対に大丈夫なのにねっ」
声は朗らかなのに、涙が。
「だから、私。今度こそ言おうと思って。洋介くんなら、きっとオッケー貰えるから、頑張って告白してって」
涙声で、部屋の空気が震える。
「ずっと、ずっと言えなかったけど、もう死んじゃうかもって思ったら……言わなくちゃって。言わなくちゃいけないって思って……」
身体が重くて重くて、だるい。
息も、絶え絶え。
眠気もやってきて、眠くて眠くて、まぶたも重い。
部屋に、震える涙声が続く。
「洋介くんには、好きな人と生きて欲しいって、言わなくちゃ。言わないと、きっと後悔する」
けれど、美咲さんの涙も、もう見えない。
美咲さんの声も、もう聞こえない。
手術が成功しますように、そう最後に祈った記憶がある。
ただ、それだけは残った気がする。
✳︎✳︎✳︎
「あれ? 嘘だろ。花が、咲いてる」
旦那さまの声で、意識が少しだけ戻る。
「あ、本当。白い花」
これは、美咲さんの声。
「すごい。奇跡だよ、これ。だって、本来は春に咲く花なんだ。冬に咲いてるの、俺も見たことない」
「そうなんだ。なんか嬉しい」
「大丈夫だからな。俺が、俺らがついてるから。手術が終わるまで、待ってるからな」
「うん、頑張る、よ」
ゆらりゆらりと身体が揺れて、温かい体温を感じる。
旦那さまに、抱かれているようだ。
頬に、何かの感触。
ああ、これは、美咲さんの手。
旦那さまより、少しだけ体温の低い。
「私、頑張るね。今まで、話を聞いてくれて、ありがとう」
美咲さんの手はそっと離れていき、そして私の耳元で。
ほんとうに、ほんとうに、ありがとう、ようすけくんを、おねがいね、
言葉が最後に聞こえて、私は意識を手放した。
✳︎✳︎✳︎
「ごめんな、ちゃんと知らなくて。俺、花屋失格だな」
「そんなことないよ、だってすごく嬉しかったもん」
陽だまりのようなここは、旦那さまの部屋。
ふわふわとして、温たくて、気持ちがいい。
あの病室の、南側の窓際も素敵だったけれど、やっぱり私はここが好き。
「すっかり、春の花だと思ってたなあ」
「でも実際、春の花なんでしょう。冬に咲くってこと自体、珍しいんだから、そういうのは知らなくても失格って言わないよ」
はは、と照れながら頭を掻く旦那さま。
ああ。
やっと、やっとその笑顔を見ることができた。
それは、心から切望していた、笑顔。
そして、美咲さんも笑っている。
何という幸福感。
私の愛する旦那さまが嬉しそうに笑っていて、幸せそうに、幸せ過ぎてどうしたらいいか分からないように、頭を掻くなんて。
「えっと、ゆ、勇太にも、知らせねえと」
「ん、そうだね」
「俺からより、美咲からの方が……」
「うん、退院したって、連絡しておくよ」
あらあら。
この期に及んでもまだこの二人はすれ違っているのかと、私は溜め息と頭を抱える。
けれど、美咲さん、どうか旦那さまを諦めないでください。
旦那さまは、私の最愛。
「あ、あと俺。あの、美咲に言われたやつな。す、好きだってこと、伝えてみようと思う、んだけど」
「うん、洋介くんなら、きっと大丈夫。オッケー貰えるよ」
「それは、絶対に無理、だ、と思うけど。でも、気持ちは伝えなきゃいけないって、美咲に」
旦那さまが、細く吐く息の音が聞こえた。少し、震えている。
「教えてもらったから、」
「うん、私もそう思うよ」
美咲さん。
どうか旦那さまを幸せにしてあげてください。
この人は、本当の自分を隠して、その胸を痛めるような、優しい人なんです。
私の代わりに、どうか。
「あのさ、美咲……」
けれど、旦那さまの隣は譲りません。
早くに花を咲かせたので、ちょっと疲れたから眠るだけです。
目が覚めたら、
今度こそは、いつまでも、
あなたの、隣で。