障害
「……死にそう」
迎えた春休み初日。いきなり汗だくになって、胸が苦しくて息が辛いほどの疲労に襲われている。
時期が時期なので、まだ気温は寒くない程度だ。だけど、俺は四季風の家に到着した時点で汗だくになった。持ち込もうと背負ってきた荷物のせいで。
確かに、初日だからと張り切ったきらいはある。しかし必須の品に絞ったとしても、背中の物だけで5キロにはなっただろう。あとは自転車の籠に入れたブツがケース含めてかなり重いために、上り坂が多かった家路も相まって姿勢の制御に余計な体力を使わされた。
(頭回るかなこれ……)
これからしばらくは、来るたびに教材を持ち込んで置いていく予定だ。今回ほどの量にはならないはずでも、ちょっと気が滅入ってきた。かなり馬鹿なことをしてるんじゃないかって気にもしてきている。
とりあえず、流れ出る汗をハンカチで拭って、恥ずかしくはないように身なりを正す。
そうしながら、練習の環境となる四季風の家の外観を観察する。
今時らしい、タイル壁で二階建ての一軒家だから、収入はそこそこ得ているんだと思う。
『ピンポ~ン』
テンプレートな電子音がインターホンから響く。しばらく待つと、門扉の向こうの玄関扉が開く。
「はいはい、どちらさま?」
「今日から四季風彩の個人教導を務める弥弦紫音という者です。長い付き合いになると思うので、とりあえず、以後よろしくです」
「あーあー、あなたがね。ふむ、なかなかのイケメン引っ張ってきたわね」
「とりあえず入れてもらえませんか? 背中と手のこれ、かなり重いんですよ」
最後の方は独り言で聞き取れなかったけど、今の俺に、悠長に待ってる器の広さはない。
「あら、ごめんなさいね。つい嬉しくなっちゃったもので」
“嬉しく”。四季風が友達を連れてきたことにだろうか。
若々しい容姿の人だった。その気になれば20後半くらいなら言い張れそうだ。でも、四季風から姉妹兄弟は居ないとしか聞いていないから、この人が実は姉でしたなんてオチはない。間違いなく、この人が四季風の母親だ。
そして、左腕に持つ杖が目を引き付けた。手のグリップと腕のリングの併用で安定させる機能的で医学的なフォルムをしている。
「気にしないで。これは、後天的な物だから」
視線で察されて、思っていたことへの回答を先に言われた。
「事故とかですか?」
思い切って尋ねてみる。四季風のお母さんは嫌な顔をせずに答えてくれた。
「昔、暴走スクーターに撥ねられてね、右足が鈍いの。その時介抱してくれたのが今の旦那だから、絶望だけの記憶ってわけでもないわ。でも、どうにも、因果って思ってしまうわよね」
四季風の難聴を指してるに違いない。気を滅入らせないように愛想笑いを作ってはいても、複雑な心境を隠しているのは丸見えだった。
「重かったわね。とにかく上がって。彩呼ぶから」
話を変えて、四季風の母親は杖を突きながら歩いて、門扉を開けてくれる。
「お邪魔します」
気を引き締める切欠の動作として鞄を背負いなおして、その門扉を潜って、四季風の家に足を踏み入れた。
「じゃあ、少し待ってね」
玄関に荷物を置いた矢先、四季風の母親は、なぜか設置してある外のと同型のチャイムを押した。
「……ああ、振動で」
設置してある理由を考えて、四季風の特徴を思い出す。
「あんまり言いたくはないけど、あの娘に用事のある人以外と接触させると、だいたい一悶着になるからね」
「よく対人恐怖症招きませんでしたね。むしろ積極的な方です」
「ほんとに、どうしてかしらね? でも、嬉しく思うべきなのに、その結果として私には悪報ばかり届くのよ。会話のテンポの悪さを中心に、偏見とか差別とか、とにかく煙たがられるみたいで。実を言うと、あの娘が誰かを連れてくるなんて、これが初めてなの」
「……初の友達が男の子って、不安になりませんか?」
「むしろ、期待してるかな?」
「婿になる気はありませんよ」
期待の魂胆を見抜いて釘を刺した。
「嫌い?」
「そういう気持ちがないだけです。ラブではなくライクです」
「それは残念。でも、いつでも貰いに来てくれていいわよ」
「中学生には気の早い話です」
体裁として否定せず、そして決して肯定ではない返しでその話を終わらせた。
人柄が良いとしても、親相手に言えるわけがない。同情的な気持ちで動いてるなんてのは。
そうやって世間話を終わらせたくらいで、二階の方から物音がして、四季風が駆け気味に降りてきて姿を見せた。
ジーンズと白いシャツの上にカーディガンを羽織った、完全な部屋着スタイル。めかし込まれても気合の入りようにこっちが戸惑うのでこれでいい。
身嗜みに対する感想を心の中で呟いていると、四季風は俺の姿を確認して、元気よくお辞儀する。
「今日からよろしくな」
軽く手を上げて挨拶を返す。
四季風は顔を上げると、俺のそばに寄ってきて背中のリュックを持ち上げて、感覚的に軽くしてくれる。
「いいよ、こっち持ってくれ」
背中を支えてもらうよりも、手が空く方がスマホも使えるようになるからいい。手に持ってるブツを四季風に突き出して受け取らせて、指で階段を指して案内を示唆する。理解して、心得たと言うように四季風は頷いて、小走りで階段を昇っていく。
「あとでお菓子とジュース持って行くから」
「あっ、お構いなく」
「中二が年不相応な謙遜するんじゃないの」
遠慮を無視する気配をプンプンさせて、四季風の母親は廊下の奥に消えていった。
二階に上がるとまっ先に目についた部屋のドアと、その前で微笑みながら待っていた四季風。どうやら、その後ろが四季風の部屋らしい。
俺は背中の荷物でもたつきながらも、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して、文字を打ち込んで、その文面を見せる。
『じゃあ、始めるか。』
微笑んで、完全に心から信頼し切ってる顔で、四季風は頷いた。
「はー、重たかった」
部屋に招き入れられて、邪魔にならない場所に鞄の中身を仕分けして並べた。それらを見渡して、こうやって並べると相当な量持ってきたなと、その総重量まで想起までつい肩を回した。
『ずいぶん、たくさん持ってきたね』
『半分以上はDVDとかCD、後は著名な指揮者の伝記と譜面。
言っとくけど、これ置いていくからな。』
「……え?」
四季風が、口で反応した。
『理由は後で説明するけど、結局上達の手段は三つ。
曲について知ること。
指揮者というポジションを理解すること。
実力ある人の技術と表現を盗むこと。
だから、俺の個人教導以外でも、積極的に資料を把握しておくこと。その目に焼き付けること。』
焼き付けるべきは耳になんだけど、四季風は目で音を捉えるので別に間違ってない。
『春休み終わった後も借りていいなら』
『気にするな。夏休みでも構わない。まだまだ増えるから。』
俺は笑って追い打ちをかけた。四季風は完全に黙った。
複雑そうな顔で持ち込んだ物を眺める四季風を無視して、部屋の内装をざっと見渡す。
俺ほどじゃないけど、自分の趣味を反映した部屋模様だ。
クローゼットとか学習机、ベッド、ポスターカレンダー、テーブルとテレビ。まずは学生らしい活必需品。リラッ○マのぬいぐるみとか女の子らしい小物。
そして、テーブルの上に雑に置かれてるクラシックのジャケット。その中には思い出深いと言った“G線上のアリア”もあった。学習机の一角にはCDラジカセが置いてあって、勉強の時とかに使うんだろうな。テレビ下のラックに置いてあるDVDデッキの傍にはいくつものDVDケースも並べてあって、テレビの画面には実写版の○めカンタービレが停止状態で放置してある。
『最初は敢えて無視してたけど、客招くんだから切っとけよ。』
確かに名作だけど。専門的な部分もあるから参考にはなるけど。
『ごめん。でも、今良い所だから、あと十分待って』
「………」