一
絵師の央為といえば、錦影絵師として最近では広く名を知られるようになった。
錦影絵とは、西洋から伝わった幻燈機を改良した木製幻燈機を使い、種絵と呼ばれる硝子板に描いた絵を白い幕に背後から灯明を使って映し出すというものだ。
小さな芝居小屋でも錦影絵は幻燈機と物語を語る講談師、それに鳴物師さえいれば比較的容易く上演できるため、小郷座でも去年から頻繁に錦影絵を演目に取り入れている。
歌舞伎の演目を錦影絵で上演することもあるが、小郷座で一番人気の演目は怪談だ。なんといっても、央為が描く幽霊や妖怪はどれも本物のように迫力があると評判だった。
おかげで今年は春から、夏の新作の準備で央為は大忙しだった。座長の幾澄が書いた脚本に合わせて、新たに種絵を何十枚も描かなければならなかったのだ。
ときには、芝居小屋以外でも錦影絵を披露することがある。大店の屋敷などに呼ばれ、怪談会で錦影絵を見せるのだ。
以前から小郷座を贔屓にしてくれていた米問屋・葭屋の主の萬左衛門は、とにかく怪談好きな男だ。毎年夏になると、友人知人を招いて屋敷で怪談会を催している。今年も小郷座はこの怪談会で錦影絵の怪談を上演して欲しいと頼まれていた。
「央為。葭屋で上演する怪談の脚本は、もう少し待ってくれないか」
無精髭に髪も乱れた格好で現れた座長の幾澄は、央為が暮らす長屋の部屋の障子を開けるなり訴えた。まるで熊のような様相だが、懇願する声は瀕死の鼠の如く弱々しい。
「待つって、怪談会まであと十日余りじゃないか。種絵を描くのにどれだけ時間がかかるか、知っているだろう?」
部屋の隅で硝子板に色つけをしていた央為は、すぐに視線を手元に戻すと、せわしなく筆を動かしながら低い声で文句を垂れる。風通しが悪い部屋の中は蒸し暑く、板に汗が落ちないよう気を使うため、苛立っていた。
「二日や三日で描けるものじゃないんだぞ」
「わかってる。わかってはいるが、新しい怪談が思いつかないんだ。せっかくだから葭屋では新作をやりたいんだよ」
「じゃあ、これでも見て適当な怪談を作ることだな。明日中には脚本を仕上げてくれないと、本番に種板が間に合わない」
文机の横に積んであった黄表紙本を掴み取ると、央為は幾澄に投げつけた。それは魑魅魍魎ばかりを集めた絵図の綴じ本で、央為が妖怪を描く際によく参考にしているものだ。
葭屋の謝礼はいつも破格なため、央為としても新作を上演したい幾澄の気持ちはよくわかる。すでに一度でも芝居小屋で上演したものは、萬左衛門も招かれた客も喜ばないだろう。錦影絵の上演の前に、余興がてらに萬左衛門が怪談をふたつみっつ語ることにもなっているので、彼の話とも重ならないよう、気を使わなければならない。
「錦影絵で幕に映し出された際、あまりの恐ろしさに皆が腰を抜かすような妖怪を登場させたいものだな」
土間に立ったまま黄表紙本をめくる幾澄が呟いたときだった。
「ごめんください。錦影絵師の央為様のお宅はこちらでしょうか」
幾澄の背後で若い娘の声が響いた。
央為が顔を上げると、一歩横に退いた幾澄の背後に立つ、十代半ばくらいの娘の姿が視界に入った。着物や結い上げた髷の形から、商家の奉公人だろうと央為は推測する。
「そうだけど、あんた誰だ?」
無愛想に央為が返事をすると、娘は一瞬怯んだような顔をしたが、すぐに大きな目を央為に向けてはっきりとした口調で名乗った。
「あたしは玉と言います。葭屋で下働きをしています。今日は、央為様にお願いがあって来ました」
「お願い?」
怪訝な表情を浮かべて央為が問い返すと、玉は勢いよく頭を下げた。
「どうか、葭屋で上演する錦影絵にあたしの姉を幽霊として出してください! お願いします!」
「あんたの姉さんを幽霊として出すって、姉さんは死んだのか?」
央為が尋ねると、玉は首を横に振った。
「まだ生きています。でも、多分秋までは持たないだろうって医者には言われています」
悲しげに顔を歪めた玉がか細い声で答える。
「病気か?」
幾澄が尋ねると、玉は頷いた。
「この春からずっと寝込んでいて、悪くなる一方なんです。自分が働けないだけでも面倒をかけているのに、医者や薬なんてとんでもないっていって、治そうとはしないんです」
玉の姉がどのような病にせよ、娘を奉公に出さなければならないような家では、病人を頻繁に医者に診せることは難しいはずだ。
「薬が高いことは確かですが、薬を飲んで養生すれば助からないこともない病です。でも、姉はあることが原因で自暴自棄になっているものですから、このまま生きていても仕方ないって泣くばかりで……」
「それと、あんたの姉さんを幽霊として錦影絵に描くことと、どう関係があるんだ?」
玉の家の事情はわかったが、まだ生きている姉を錦影絵で幽霊として登場させて欲しいと願う理由がわからなかった。
「葭屋の怪談会には、近所の煙草問屋の若旦那も呼ばれているんです。深志倖之丞様とおっしゃる方なのですが、去年の暮れまでは姉の恋人でした。もちろん、あんな大店に姉が嫁げるはずはないので、いずれは別れなければならないと最初から覚悟して姉も付き合っていたのですが、若旦那の結婚が決まって別れた途端、姉は気鬱になり、しまいには病になって寝込んでしまったんです」
「あんたの姉の病は、その若旦那のせいだって言いたいのか?」
「とんだ言い掛かりだってことはわかっています。でも、深志様に姉が病気であることを知らせても、見舞いの手紙のひとつも送ってくれないんです。許嫁の方の手前もあるってことは承知していますが、それでも若旦那が姉を気安く捨てたように思われて、悔しくて仕方ないんです」
「それで、あんたの姉の姿を幽霊として若旦那に見せつけて、脅かそうっていうのか?」
呆れた顔で央為が睨むと、玉は肩を竦めた。
「冗談じゃない。俺の錦影絵はただの娯楽なんだ。つまらない仕返し道具じゃない。そんなに姉を幽霊として幻燈機で投影したいなら、あんたが自分で種絵を描くことだ」
声を荒らげて央為は玉を非難した。これくらい強い口調で言えば、若い娘なら泣きながら出て行くだろうと計算もしていた。ところが玉は、央為が想像するよりも多少肝の据わった娘だったらしい。一瞬、涙で目を潤ませたが、唇を強く噛み締めて泣くのを堪えた。
その様子を黙って見ていた幾澄が、央為を宥める。
「まぁまぁ、央為、そう怒るな」
幾澄は玉に向き直ると、穏やかな口調で尋ねた。
「玉さん。あんたは、自分の姉が怪談話で幽霊として登場しても良いと言うのかい?」
「はい。構いません」
きっぱりと玉は答える。
「話を作るのは私だ。葭屋での演目はまだ決まっていないが、話を聞かせてくれるなら、それを怪談にして、あんたの姉を登場させることもできる。ただし、怪談とはいっても、どんな話になるかは、保証できないよ」
「姉を登場させてくれるなら、どんな形でも構いません。あたしはただ、深志様が姉を捨てたことに少しでも良心の呵責を感じてくれればそれで良いんです」
「身勝手な理由で捨てられた女の復讐話にすれば、面白いかもしれないな」
普段から持ち歩いている帳面と筆を懐から取り出すと、幾澄は玉ににじり寄った。
「詳しく話を聞かせてくれるかい?」
「おい、幾澄」
乗り気ではない央為は友人を咎めたが、幾澄は涼しい顔で答えた。
「新作の材料になるかもしれないじゃないか。話を聞くくらい、時間の無駄にはならない」
よほど新作のねたに困っているらしく、幾澄はすっかり乗り気になっていた。
「まずは、若旦那とあんたの姉の馴れ初めから聞かせてくれるかい?」
はい、と神妙な顔で頷いた玉は、訥々と語りだした。